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暗闇が怖くて、そこに漂うタバコの臭いが怖くて、そこで響く大きな音が怖い。
その健介の不可解な癖の原因は、
全部、押入れの中の体験だった。
赤ん坊の時に何度も何度も繰り返し同じ恐怖を味わったのだ。
そんな体験の記憶がない今でも、恐怖だけを覚えている。
こんなことがあるなんて。
頭が忘れた恐怖を体が覚えているなんて。
健介は、やっと痛みが去ってきた腹を抱えながら、考える。
火を押し付けられたんだ。
皮膚を焼かれる痛みを体が覚えているなら、なおさらタバコなんか。
タバコなんか怖くて堪らないはずなのに。
それなのに僕は、父さんのタバコを許した。
どうしてだろう。
どうして父さんのタバコは怖くないんだろう。
小さく丸く身体を固めて、呼吸を整える。
きっと父さんが、そうやって僕のいろんなことを、治してくれる。
父さんのところに戻れば怖くない。
帰りたい。
「……帰して」
健介の呟きに、お母さんが慌てて応えた。
「あ、あら!起きてたの!そ!これから家に帰るからね!」
「……僕の、家は、」
「本当の家!楽しみでしょ!」
「僕の家に、帰して」
「だからこれから行くったら!」
「戻してよ!僕を捨てたお母さんなんかと、どこにも行かない!」
そう叫んだ後、健介の身体がふわりと浮いた。
同時に高い金属音が聞こえた。
お母さんが短い悲鳴を上げた。
直後、浮いた身体をフロントシートに強く打ち付けられた。
「お母さんに向かってそういう口を利くようなバカ息子は、お仕置きだな?」
運転席のシートの横から顔を出した黒い男が、笑いながら健介のパーカーのフードを掴みあげた。
周囲の車が一斉にクラクションを鳴らし、バイパスのど真ん中で急停止したこの車に抗議している。
男は気にすることもなくリアシートから落ちている健介の身体を引き上げて、運転席に引き摺り、ドアを開けた。
「お仕置きの定番だ。物置に閉じ込めますよ!」
男は、運転席から健介を引き摺ったまま降りて、開けたトランクに健介を放り込んで、閉めた。
後ろの何台かの車から、それを見ている人がいた。
しかし誰も止められないまま、車は動きだしバイパスを降り走り去った。
息もできないほどの恐怖。
暗闇。
ただでさえ怖い暗闇。
そして轟音。
そして絶え間なく跳ねる床面。
そして狭い。寒い。
閉じ込められた。
夢だ。
夢だ。
夢だ。
誰か、助けて。
健介は声も立てずに丸く蹲って震えていた。
トランクの中で膝に頭をつけて両手で耳を塞いで目を閉じて、小さく固くなっていた。
怖くて怖くて怖くて、
家に帰りたいと言う希望を忘れた。
何も望まないから、
この恐怖だけを、
取り去って。
何もいらないから。
しばらくして車が止まり、二つのドアが開いて閉まる音が聞こえた。
二つの足音が遠ざかる音が聞こえた。
恐怖に打ちのめされている健介は、これ以上絶望することが怖かった。
ここで声を上げて、救いを求めて、応えられないことを知るのが怖かった。
健介はトランクの中で丸く蹲り、震えながら長い夜を越えた。




