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「マックスは、悪い猫だったんだよね?」
健介は、涙も拭かずに少し笑んで呟いた。
「きっと、あんな風に、す、捨てられるような、悪いこと、したんだよね?」
君島はソファを降り、健介の前に膝をついてその涙を溢れさせている目を覗き込んで訊いた。
「それは健介が知ってるだろ?ダンボールに入ってたマックスは、どんなに悪い猫だった?」
「ち、ちっちゃくて」
左手で涙を拭いた。
「濡れてて」
右手で拭いた。
「汚くて」
君島の目を見た。
「震えてて、鳴けなくて、ご飯も、」
拭いても拭いても涙が落ちる。
「ミルクも、自分で飲めなくて、無理やり、スポイトで押し込んで、」
健介の小さな手の中で、いつでも動きを止めてしまいそうだった小さな生物。
むりやり押し込んだのはあのぬるいどろどろの濃いミルクだけじゃなかった。
「毎日、動いてるだけで、嬉しかった。毎日、マックスが死んでないだけで嬉しかった」
動いているだけで、温かいだけで、それだけでマックスは健介に返してくれていた。
毎日の心配と期待と愛情に、マックスはそれだけで返し続けていた。
「それだけで、僕、毎日、嬉しかった」
ぼたぼたと健介の顎から落ちた涙がフローリングに溜まった。
「毎日、マックスが大きくなるのが、嬉しかった」
どうしてそんなマックスを、こんなにも僕を喜ばせてくれた猫を、あんな残酷な方法で捨てられた?
それは、健介にも起こったこと。
父が張り上げた大声で気付いた。
父が君島を止めたことで気付いた。
僕のことなんだ。
父さんが止めた秋ちゃんの言葉。
甘い父さんが僕に聞かせたくなかった秋ちゃんの言葉。
『本当の親なのに?』
秋ちゃんが言っていたのは僕のことだった。
生命さえ見捨てられたことを忘れて。
どこにも戻る場所なんかないのに。
待っている人なんかいないのに。
それなのに僕は、
マックスは、
「マックスは、バカなんだ」
バカなマックス。
ここに家があるのに。
ここがマックスの家なのに。
マックスが一番好きな父さんがいるのに。
バカなマックス。
そして、僕。
「そうだね。マックスはバカだ。そんなバカなマックス、どうしたらいい?」
君島が健介の頬の涙を拭いながら笑って訊く。
「取り返して」
しゃくりあげて健介が答える。
「マックスが嫌がるんだ」
「無理やり取り返して」
「そうだよね。僕もそう思う」
君島が健介の肩を掴んだまま、原田を振り向いた。
「君はどう思う?」
原田は返事をしない。
君島はまた笑って、健介に言った。
「健介、浩一に教えてやって。大事な家族をわざわざ不幸にするなって」
大事な家族を
あんなにも大切に育てた猫を
手離すなんて
それはどんな気持ちなの?
マックスが望むからなんて
マックスが喜ぶからなんて
父さんはどんな気持ちなの?
あんなに可愛がったマックスでも手離すなんて
「父さん、マックスは、バカなんだよ」
僕はやだ。
健介は涙も拭かずに原田を見上げて訴える。
「あのね、マックスは覚えてなくてもね、あの日のね、雨の中でね、」
許せない。
「みんな兄弟死んでた」
父さんも許さないで。
「そんなことした人に、マックスは返さない」
許さないで。
「僕を、」
僕を捨てたお母さんのことも、許さないで。
それを言葉に出せず、健介は泣き続けた。
声を上げて泣いた。
しばらく君島が抱いてその胸で泣かせていたが、健介の涙が薄いシャツを通して肌に触れた頃にその身体を抱き起こした。
「健介。はっきり言ってくれる?マックスはどうする?」
「取り、返す」
「健介は?」
「……ぼ、く」
「マックスは健介の猫だ。誰がここで世話するんだ?」
健介は泣きすぎて息を弾ませている。
君島は笑って顔を上げた。
「簡単な答えだよ。ちゃんと教えてやって」
君島はそう言って立ち上がり、横に立っている原田の腕を引いた。
「健介。父さんに教えてやって」
君島が原田に場所を譲り、健介の前に座らせた。
泣きじゃくる健介を無言で見下ろす父の目を見上げて、その膝に両手をついて、息を整えてから一つ訊いた。
「父さん、たばこ、止めてたこと、ある?」
父がわずかに頷いた。
「いつ?なんで?」
「お前が小さい頃。お前はたばこを怖がったから」
「……なんで、今は、吸ってるの?」
「お前が吸っていいって言ったから」
健介は笑い出した。涙がまた溢れた。
あの暗闇の中で僕を救ってくれた記憶は、本物の記憶だった。
小さくてうるさくて邪魔な僕のために、たばこを止めていたなんて。
僕なんかが許したからまた吸っているなんて。
「僕は」
絶対、どこにもいかない。
絶対この父さん手離さない。
マックスと一緒にずっとここにいる。
健介は笑いながら泣きながら、父の胸にしがみついた。
ずっとここにいる。
父さんが嫌だって言っても、ここにいる。
だってここが、父さんのいるこの家が、僕の家だから。
ずっとここにいる。
マックスと一緒に。
「ずっとここにいる」
健介は暖かい父の胸に顔を押し付けたまま、泣きながら笑い続けた。
セーターの奥にあの匂いが沁みている。
父さんの部屋の匂い。たばことアロガン。
ずっとずっとこのまま。ここにいる。




