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そんなことを思い出して健介がマックスに暇つぶしにちょっかいを出していると、夕食を作りに父が帰ってきた。
原田家では家事全般を父一人が賄っている。
同居人君島は一切タッチしない。パンツの洗濯すら父に任せている。どうせついでだからと、父も特に気にしていない。
君島に対する唯一の同居条件は、家に女を連れ込むことの禁止。
潔癖症の父は君島の不潔な恋愛事情と恋愛体質を厭うているし、健介の健全育成の妨げになるという理由。
なにしろ君島は、必ず人妻あるいは本命の男がいる女としかつきあわない。そういう相手を家に連れ込むということはある意味導火線を家に引き込むようなものだ。
父名義のこの家を炎上させられてはたまらないという事情もある。
父は建設会社の社員で、現場回り好きの建築士。時間の融通がつく時は昼過ぎに家に戻って夕食の準備をして再び仕事に戻る。無理な時はそれなりの物が冷蔵、冷凍してあり、レンジで温めるだけで十分なように日頃から準備してある。
その父の車がガレージに入ってくる音がすると、マックスが飛び上がって玄関に走って行った。
健介もそれを追いかけて玄関に行くと、マックスが真っ直ぐドアを向いて座って尻尾をくねくね振っている。
そして父がドアを開けて入ってくると、立ち上がって尻尾をピンと立てて、にやおんと鳴いた。
お前は犬か、とそれを見て健介は口を尖らせた。
父が靴を脱いで上がり、足に巻きつくマックスに歩行の邪魔をされながら、いきなり健介に訊いた。
「朱鷺に会わなかったか?」
あ、と健介は目を伏せた。
朱鷺ちゃん、あの後会社に行ったのか、とまた口を尖らせた。
朱鷺は父の会社の社長の弟で、会社の役員兼社内ネットワークシステムの構築と維持・管理を担当している。
常勤ではなくたまに出入りしていて、女子社員の秋波を集めている。
さっき、学校の帰り道に朱鷺を見かけたけれど、健介は顔を背けて素通りした。
腹を立てていたから。
努力しない朱鷺とさせない周囲と知らなかった自分に。
だけどそれを父に上手く説明できそうにない。
「お前に無視されたって落ち込んでたぞ。朱鷺に何かされたのか?」
「されたっていうか……」
そう応える健介に父は首を傾げた。
「された?朱鷺に?」
純粋に驚く父にも、健介は少し苛立った。
朱鷺はモデルのように美しい外見で、しかも穏やかな性質で、そして耳が聞こえずしゃべらないせいで、誰からも愛され労わられる。
父もそうだ。
父も、朱鷺のことを大事にしている。
マックスのように健介のことよりも大事にしている。
健介は日頃からそう感じている。
それは、障害があるからじゃないかと、感じている。
そんなことを思う自分が嫌だと、それを思う時に同時に思う。
だから考えないようにしていた。
それなのに今日学校でその朱鷺のことを考えざるを得なくて、しかもそれが朱鷺に対する新たな不満を生んで、そして帰り道朱鷺を無視した。
そんなことを父に上手く説明できない。
「何でもいいけど、早いうちに朱鷺に話しておけよ」
「……話なんか、できないもん」
「ん?」
「朱鷺ちゃん、話しないもん」
「してるだろ?いつも」
「手話でしょ?メールと。だってしゃべらないもん」
「しゃべる必要ないだろ」
「そうやってさ!そうやってみんなが朱鷺ちゃんを甘やかしたからしゃべらないんだよ!」
「お前、何言ってんの?」
父が顔色を変えた。