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ARROGANT  作者: co
土曜日
27/194

 ほとんど寝られなかった。

 寒いバスルームの硬いバスタブに蹲り、健介は震えながら朝を迎えた。

 ただ、窓がなく日が入らないのでいつ朝になったのかは知らない。

 誰かの歩く音が何度か聞こえた。

 トイレを使う音やキッチンで水を出す音も聞こえた。


 でもバスルームの扉は開けてもらえなかった。


 自分で出ていく勇気も持てなかった。



 しばらくして玄関の扉が開閉する音が聞こえた。

 誰かが出て行った。


 いなくなった。

 二人とも、いなくなったんだろうか。


 それからまたしばらく待ったが、音が何も聞こえなかった。

 きっと二人ともいなくなったんだと健介は思った。


 それなら、僕も、


 そう考えて、やっと扉を開ける勇気が湧いた。



 どきどきしながらバスルームを出て、玄関に目をやって、漏れる日差しで夜が明けたことを知って、部屋の扉を開けた。

 脱ぎ捨てられた服、テーブルの上に食べ残しの惣菜、灰皿代わりの空き缶に口紅のついた吸殻。エアコンで乾燥する室内にその全部の臭いがこもる。


 誰もいなきゃいいな。

 怖いからもう一人の方がいい。

 一人で暖かくして寝たい。


 たったそれだけを望んでいた健介の目に、


 肩を晒してベッドで寝ているお母さんの姿が写った。



 わかっていたことだけど。

 子供じゃないから昨日の音がどんな意味かなんてわかっていたけど。



 だけど、目の当たりにするショックまでは、わからなかった。

 行為の残骸を健介は生まれて初めて目にした。



 怖いよ。お母さん。



 健介は目を逸らして、お母さんに声を掛けた。


「お母さん。ご飯、買ってくる」


 お母さんがもぞもぞと布団に潜りこむ。


「お金、ちょっと持って行くね」


 お母さんのコートから財布を抜き出し、返事をしないお母さんに続けて話しかけた。


「コンビニで何か買ってくる。買ってきたら、一緒に食べよう。それで、お話しよう」



 たくさん訊かなきゃいけないことがある。

 健介はそう思った。

 考えてみたら何も訊いていないことに気付いた。

 お母さんが泣くから何も訊けなかった。


 大事なことを訊いていないような気がした。




 そして部屋を飛び出しコンビニを探した。

 バス停までの道にはないから、別の道を走って探した。

 全然見つからず、10分以上走ってやっと古い店舗を発見して、健介は息を吐いて足を止めた。


「おでん」と書いてある旗が風に吹かれて踊っている。

 ここでおでんを買っても部屋に着くまでに冷たくなってしまう。

 コンビニって便利って意味だって父さんが言ってたのに、こんなに遠かったらぜんぜんコンビニじゃないし。でもおでんは美味しそうだな。昨日は、給食しか食べてないんだ。

 健介は安堵して微笑み、息を弾ませて店の扉を押そうとして、



 ふとその匂いに気付き、振り向いた。



 駐車場の端で、タバコを吸い終えたライダーが吸殻入れをタンクバックに突っ込みヘルメットを被るところだった。その隣のバイクではすでにヘルメットを被ったライダーがエンジンを掛けてスロットルを吹かしている。


 バイクの排気とタバコの匂い。



 父さん。


 父さんの匂い。



 一台が先に走り出し、エンジンを掛けたばかりのもう一台が後に続き、


 そのポケットから何かが落ちて、音を立てた。


 カツンと転がり、キンと光を反射した。




 ジッポ。




 健介は走ってそれに飛びついた。


 通りの先の信号は赤だったから、追いつくと思った。


 落としたよ!これないと困るでしょ!

 健介は走った。


 待って、ジッポ、落としたよ!父さんもよく落とすんだ!

 いつもジッポ落とすの!使い捨てライターは落とさないのにいつもジッポ落とすの!


 信号は青になったけど、向こうの信号はまだ赤だ。


 待って!困るでしょ!


 バイクは信号の前に左折した。


 待って!そこで止まってて!


 左折した先の信号がまた赤で、健介はさらにダッシュしたが、追いつく前に逃げられた。



 ずっと走った。

 バイクを延々と追いかけた。

 何度も角を曲がった。

 見えなくなっても走った。



 困るくせに。

 困るくせに。


 父さんはいつも困るよ。

 だから待って。

 待って。

 待って。


 父さん



 行かないで


 置いて行かないで



 父さん

 置いて行かないで



 鼻を真っ赤にして息を荒げて健介は走り続ける。

 止まれば父に会えなくなると思った。

 空気が冷たくて涙が零れる。



 もうとっくにバイクの行方はわからない。

 それでも走った。

 混乱したまま健介は走った。



 赤信号の横断歩道を突破しようとして車に突っ込まれそうになって転び、ドライバーに怒鳴られた。

 かじかんだ手を氷のように冷えたアスファルトに打ち付けて擦り、突いた膝も破れて擦り剥き、痺れたように動かなくなった。

 立ち上がれなくて健介は中央分離帯まで這った。

 段差に両手をついて激しい呼吸を繰り返す。

 寒いのに汗をかいている。

 涙が零れる。

 車が容赦なく左右を行き来する。


 擦った手と膝がじんじんと熱を持ち始める。

 白く掠れて剥けた傷に血が滲み、ついた砂と混ざる。

 払っても落ちない。

 きれいにならない。


 激しい呼吸が収まらない。

 零れる涙が顔から落ちる。



 父さんに会えなくなる。



 健介は絶望しかけた。

 冷たい道に座り込んで絶望しかけていた。

 涙と鼻水と血を流して絶望しかけていた。


 しかし、全て冷たい中で、手の中の物だけが温度を持っていた。

 健介は息を弾ませたまま、指を開いた。



 銀色のジッポ。

 健介の体温を吸って温かくなっている。



 これ。


 父さんに。


 拾ったの。追いかけたけど、落とした人いなくなったの。


 ジッポ使う人、父さんしか知らないから父さんにあげる。


 だから、行く。


 父さんに会いに行く。



 父さんに会いに行こう。



 父さんの家に行こう。



 やっと希望を見出し、健介は顔を上げた。

 そして再び絶望した。





 ここは、どこ?




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