6
暗いバスルームの冷たくて硬いバスタブの中にしゃがみ、健介は震えながら膝を抱いている。
たばこの臭いが漂ってきた。
話し声が消えた。
健介は震えている。
寒いだけじゃなく、怖い。
暗いのが怖い。なぜかわからないけど、怖い。
しばらくして、家具の軋む音とお母さんの細い声が聞こえてきた。
健介はさらに震えた。
強く自分の身体を抱いた。
耳を塞いだ。
咳が出てむせかえり、涙が零れる。
怖い。怖い。怖い。
闇の中。たばこの臭い。猫のような女の声。
知ってる。
覚えてる。
初めてじゃない。
何度もこんな恐怖を味わった。
いつ?
どこで?
なぜ?
わからない。わからない。
咳き込む喉が引き攣れる。
涙が落ちる。
怖い。怖い。怖い。
泣いても誰も来ない闇の中。
この臭い。
この声。
助けて
助けて
怖い。怖い。怖い。
この恐怖は、知っている。
泣いて泣いて喉が嗄れる。
引き攣れたような自分の泣き声でさらにパニックを起こす。
そしてもっと大きな音が外で鳴り出す。
暗闇に大音量の音楽が溢れ、重低音が小さな身体全てに響く。
なんだろうこの記憶。
震えながら健介は頭に漏れ出す恐怖に目を凝らす。
さらに泣く。
泣いて泣いて泣いて
泣き疲れて寝てしまうまで泣く。
そしてそのまま目覚める。
だからまた泣く。
もう外からは何も聞こえてこない。
ただただ暗闇の中で一人泣き続ける。
嗄れた自分の泣き声しか聞こえない。
怖い。怖い。怖い。
健介は震える身体を抱く。
暗闇の中で目を閉じる。
震える身体を抱くしかない。
誰も来ない。
誰も闇から助け出してくれない。
怖い。怖い。
泣いても、泣いても、泣いても、
誰も来ない。
誰も来ない。
諦めるしかない絶望に、健介は思考を閉じる。
そして突然、縦長の細い光の記憶が蘇った。
暗闇に差した光の記憶。
腕を抱いて震える健介が、闇の中で目を開けた。
そして、もっと明るい小さな光の反射を続けて思い出した。
その光は知っている。
その光が欲しくて泣いていた。
『あぁ、悪い。電気消したな』
暗い部屋のドアを細く開けた父の眼鏡が逆光で光った。
怖かったんだ。暗いのは怖い。いつも泣くのにどうして電気消すの。
そんな思いを言葉にできずに健介は泣きわめき、父に手を伸ばす。
『悪かったよ。寝たからいいかと思ったんだけどな』
父に抱き上げてもらう。
首にぶらさがって腕に支えられて胸に顔をつける。
怖かった闇から出してもらう。
たばこの臭いのしない父の腕で。
『変な時間に起きるなぁ。俺仕事中なんだけど』
そして抱いて連れて行かれたのは、見覚えのない小さな部屋。
小さなテーブルにパソコンが開かれていて、家具も家電も全て小さい。
まだしゃくりあげる健介に父が訊いた。
『ヤクルト飲む?』
健介は泣くのを止めて、大きく頷いた。
父が笑って小さな冷蔵庫を開けた。
なんだこれ?
こんなこと、あった?
……ない。ないよ。ありえないよ。
あんな部屋、知らない。みたことない。いたことがない。
引っ越す前?お母さんと暮らしていた時の部屋?じゃ、お母さんは?
全部おかしい。
きっと僕の妄想。
だいたい父さんがタバコの臭いをさせてない時点でおかしい。
だけど。
父さんはいつもヤクルトで僕のご機嫌を取る。
ずっとそうだった。
父さんの家に帰りたい。
でも、だめだね。
お母さんは父さんとヨリを戻す気なんかない。
お母さんは小さな黒い男と今一緒に寝てる。
父さん。
だめだよね。
父さんも僕がいらないんだもんね。
だめだよね。
父さんの家には帰れない。
でも今だけ。
もうすぐ父さんが迎えにくると思っていい?
ここから連れ出してくれるって思っていい?
怖いんだ。




