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放課後になり、今日は自宅に寄らずに真っ直ぐにお母さんの部屋に戻るつもりで玄関で靴を履きかえる。
拓海たちに会いたくないので健介は急いで飛び出た。
禁止されているのに校庭でサッカーボールを蹴っている集団がいた。
そのうち先生に叱られるぞ、と思いながら健介はそれを迂回して走っていた。
渡り廊下が見えるところまで来ると、ちょうどそこを小嶋先生が歩いていた。
あ、ほら。先生に見つかるぞ!
と健介は笑った。
それから、小嶋先生の陰にもう一人いることに気付いた。
以前道徳の時間に来てくれた、耳の聞こえない並木さんだった。
健介は、立ち止まった。
前に並木さんに会った後に、朱鷺を無視した。
朱鷺にはそれ以来会っていない。
そういえばもしこのまま僕がお母さんのところで暮らすとしたら、僕はもう朱鷺ちゃんに会うことはないのかも知れない。
もう朱鷺ちゃんに、会えないのかも知れない。
健介はそんなことを考えて、ぼんやりした。
ぼんやりした健介の目に、突然振り向いた並木さんの驚いたような顔が写った。
健介はそれに驚き、それから後ろで悲鳴が上がっていることに気付いた。
「危ない!」
「避けろー!」
「ボールが!」
後ろから飛んできたサッカーボールが、ブンと音を立てて健介の耳を掠め、並木さんの前に転がった。
「おいっ!危ないだろ!ここでボール遊びは禁止だぞっ!」
やっと振り向いた小嶋先生が怒鳴った。
健介はそこに立ち竦んでいた。
怒鳴る小嶋先生の姿も健介の目に入らない。
転がるボールを拾い、笑う並木さんしか目に入らない。
さっき走ってる時だってなんともなかったのに、今になって呼吸が速くなっている。
笑いながらボールを投げ返した並木さんの元に、健介は歩いて行った。
「お、健介。熱下がっても油断するなよ!ちゃんと家でも、」
小嶋先生を無視して、健介は呟いた。
「聞こえるんじゃないか」
「……何?どうした?」
「聞こえないなんて、嘘じゃないか!」
健介はさらに息を荒げた。
「今!一番最初にボールに気付いたじゃないか!あの、声が聞こえてたんじゃないか!」
並木さんが、喉を伸ばして唾を呑み込んだ。
「いや、健介。先生が先に気付いて並木さんに、」
「見てた!僕、見てた!それにね、先生!」
整わない息のまま、健介は続けた。
「本当に聞こえない人は、こんな時、知らせたって遅いんだよ。突き飛ばさなきゃ、間に合わないんだよ」
並木さんが、首を振って微笑んで、口を開いた。
「少し、聞こえる。大きな音は。しかし難聴ではあるんだ、」
「嘘つき!」
健介が叫んだ。
「どうして!どうしてそんな嘘つく必要があるの!少しでも聞こえるなら全然朱鷺ちゃんと違う!」
「難聴だって、大変なんだぞ!」
「どうしてそんな嘘をつくんだ!」
「健介、その、並木さんにも事情があるんだろうし、そんなにな、」
「朱鷺ちゃんが努力しないから、おじさんみたいに努力しないからしゃべれないんだって、思ったのに!聞こえるなんて!聞こえるくせに聞こえない朱鷺ちゃんに努力しろなんて!」
涙が溢れた。
おじさんが悪いんじゃない。
腹を立てた僕が悪い。
だって父さんは、おじさんの話を嘘だと知らなくても朱鷺ちゃんを庇った。
僕がちゃんと考えられたら、朱鷺ちゃんに腹立てたりしてないんだ。
「嘘つき!」
それでもそう叫んで、言葉を失った大人たちに目をやることもなく、健介は走り出した。
涙が後ろに飛んでいった。




