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昨日は結局夜に買ったコンビニ弁当の一食だけだったのに、翌朝になっても原田の食欲は回復しなかった。
またコーヒーだけ淹れて、テーブルに新聞を広げる。
それを二枚めくったところで思い出した。
いつもここで新聞を広げると、猫が飛び乗って腹を見せてごろごろ身を捩ってアピールする。
原田はつい、後ろを振り向いた。
いなくなって三日にもなるのに、猫用の赤の丸いベッドにその姿を探した。
日が経つごとに、胸の中で不在がはっきりと形になる。
猫も。
健介も。
この家にいるからその思いが強いのだろう。
ここはあいつらのための家だから余計に。
猫も健介もいない朝は耐え難い。
原田は笑って俯き、結局淹れたコーヒーも飲まずに出社した。
今日は社長に見つからないようにほぼ外出して夕方事務所に戻った。
しかしやはり、戻ってすぐに社長に捕まる。
「原田君、ちょっと。社長室まで来てください」
恐らく社長室の窓から原田専用車が駐車場に戻るのを見計らって、社長自ら事務所に顔を出して大声で指示してきた。
俺忙しいんですよ、と反論する前に社長はドアを閉めて立ち去った。
しょうがなく荷物を自分の席に置いてから社長室のドアをノックした。
「おお、原田。用があるんだってさ。ずっと待ってたんだぞ」
ドアを開けると社長が振り向きもせずにそう言う。
なんなんですか、と訊こうとしたら、ソファから立ち上がる人影を視界の端に感じた。
「朱鷺。昼からずっとお前を待ってた」
その兄の声が聞こえたわけでもないだろうに、にこりと微笑む朱鷺が頷いた。
「え?朱鷺が俺に用ですか?」
と社長に訊いたが、今度は社長が原田を無視する。
そして笑ったまま近づいてきた朱鷺が封筒を一枚、原田の目の前に翳す。
「なんだよ?」
原田が顔を顰めて朱鷺に訊くと、朱鷺は携帯を取り出し操作し始めた。
『サーキットの入場券、ペアで当たった』
そう記した携帯を朱鷺が原田に見せ、チケットも封筒から引っ張り出して見せた。
バイクのレーサーを招いたイベントが隣県のサーキットで開催されるらしい。
え?俺と?という意味で、原田は自分を指差し、それを見て朱鷺は笑って首を振り、また携帯を打った。
『マックスが来るんだから。健介好きでしょ?』
そういえばこのイタリアのレーサーは、猫の名前に採用するほど健介が好きだ。
冗談のようなヒゲが海賊風の悪党顔で戦闘的な速さが自慢のレーサー。
原田はその荒くれぶりがそんなに好きではない。
『一枚原田さんに預けるから健介に渡しておいて』
その文章を記した画面を、朱鷺は再び原田に見せた。
原田は首を振り、無理、と声を出さずに俯いたまま呟いた。
目を丸くして見詰める朱鷺に、原田は再度、無理、と呟いた。
健介は、いない。
そう続けて呟くと、朱鷺が首を振った。
意味がわからない、と。
だから原田も自分の携帯を取り出し、記した。
『母親に返した』
それを見た朱鷺が、もっと大きく首を振り、原田に渡したチケットを乱暴に取り返した。
その朱鷺の腕を掴み、原田が低く呟いた。
「健介のところに行くなよ」
それを読んだ朱鷺はまた首を振って、掴まれた腕を強く振り払った。
一つに縛った朱鷺の長い栗色の髪が大きく振れる。
少し息を荒げて、信じられないような面持ちで見上げる朱鷺に、原田がまた携帯を示した。
『健介はもう手話を使わない』
朱鷺の顔がさっと赤くなり、もう原田の顔も見ずにその部屋を飛び出した。
「あれ?朱鷺、どうした?」
社長が呑気に訊いた。
「用事を思い出したようです」
原田が簡単に嘘をつく。
「仕事に戻ります」
原田も社長の顔を見ずにドアを開けたが、社長がまた大声で告げた。
「原田。お袋がブリ一本持ってきた。廊下に発砲の箱が置いてあるから持って帰れ」
「ブリ?一本?なんですかその単位」
「富山に遊びに行ったらしい」
「ベンツで?ブリ買いに?」
「そう。大根も一本」
「ブリ大根作れってことですか?」
「知らん。安かったんだと」
「えー……」
橘家の母、妙さんは父子家庭の原田家を気遣って時々思いがけない食材をプレゼントしてくれる。
米とか海苔とか佃煮は嬉しいが、生ものは……。
しかも一本って……。
「持って帰れよ。明日休みだから置いていかれると腐るからな」
「はい」
ありがたいけど、まいったなぁ……。
うちの家庭は崩壊したんだけどな。
原田は頭を掻いた。




