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一通りの長い物語を、健介はソファで朱鷺にくっついて座り聞いていた。
どうしても時々涙が溢れるから手で拭っていると、朱鷺がティッシュを渡してくれた。
主に原田と君島が語り、所々橘一家が補足し、橘母が朱鷺に手話で中継して朱鷺も手話で補足したりして、長い物語が終わった。
当時実際にこの騒動に立ち会った人々はみんな笑いながら話したが、覚えていない健介と初めて聞く京香さんが泣いた。
聞き終えてまず健介は、事前に君島に聞いておいてよかったと思った。
父はきっと嘘をついたり隠し事をしたりすると思っていたから。そしてその予想通りだったから。
きっと父さんは僕のために嘘をついたり事実を隠したりすると思うから、その前に秋ちゃんに本当のことを教えてもらいたいと事件の後に頼んだ。
すると君島が笑って応えてくれた。
僕もそう思うよ。浩一は結局甘い人間だからね。
今から僕が全部教える。
いつか、浩一からも聞かせてもらったらいい。
それを比較して、浩一がお前の為にどんな嘘をつくか、何を隠すのか、それを見つけたらいい。
それで浩一って人間がわかるよ。
そして今やっと聞かせてもらった物語は、前半部分は原田しか知らないことだったから、ほぼ原田が説明した。
いつも通りに簡略化されていて肉付け無しの大筋一本だったのだが、そこからも削り取られた部分があった。
削り取られた部分、原田が口にしなかった、健介のために隠した事は、健介の火傷の傷痕のこと。
もう健介自身も知っているのに、どうせ後の話でもでてくる重要点なのに、言わなかった。
そんなことを言わなかった。
もうみんな知っていることなのに口にできなかった。
それが、父という人間。
でも、それがどういうことなのかよくわからない。
聞いたばかりで涙でぐちょぬれの健介は、まだそれを考えるほど落ち着いてない。
それなのに、まだ全然考えられないのに、なぜかちょっと笑えてくる。
火傷の痕なんか健介自身がもう気にしていないことなのに、父の方が気にしている。
そのことが嬉しくて可笑しくて笑えてくる。
ずっとずっとこんな風に気遣って見守ってくれていたんだと今さら気付く。
どうして自分があんなにも父に執着したのか、健介自身もわからない。
第一今教えられたことも全くと言っていいほど覚えていない。
でも、思う。
幼い頃の凍えそうだった僕には、父さんが助けてくれることが分かったんだ。
僕の未来をくれるのは父さんしかないことが分かったんだ。
理由なんかない。
分かったんだ。
それなのに、ずっと幸せで、それが当たり前で、全部忘れた。
何も持ってなかったことも全部忘れてしまった。
2歳の僕がわかってたことを、10歳の僕は全部忘れてた。
僕はこれからどうしたらいいんだろう。
健介は涙を拭って考える。
「あれから何年?ついこの前のような気がするけどな」
大和がたばこを吹かしながら訊いた。
「8年。結構昔です」
原田もたばこを取り出す。
「そういやお前、いつ禁煙止めたんだ?健介小さい頃俺にも吸わせなかっただろ?」
煙を吐きながら大和が訊く。
「禁煙はしてないです。ただ会社でしか吸わなかったので、だんだん家にいる時間が少なくなったせいで健介に家で吸えって言われました」
「そうなのか?」
大和が健介に訊いた。
覚えていないので首を振る。
その時、ドアがかちゃりと開いて、子供が顔を覗かせた。
「あら!陽真!」
まだ目を真っ赤にした京香さんがハンカチを頬に当てたまま慌てて立ち上がった。
すると、母を発見した2歳児は一気に顔を崩して泣きはじめ、両手を伸ばして駆けてきた。
そして、ああああああーと、まるでこの世が終わったかのような絶望的な泣き声を上げて母に抱き上げられた。
それを見てまた全員笑う。
健介も泣きながら笑う。
「僕も、こんな感じだった?」
涙を拭いながら君島に訊く。
「こんなもんじゃなかったよ!」
なぜか昴がきっぱり応える。
「そうそう。これどころじゃなかった」
「健介だったら起きてからそこのドアを開けるまで我慢できないよ」
「そうだな。起きた途端に絶叫パターンだ」
「それで原田君が慌てて駆け付けるパターンね」
「甘やかされてきたんだね」
また涙を落としながら、健介が俯いて笑う。
「そうだな。甘すぎたな。反省してるよ」
原田が応えた。
本当にそうだったよね、とみんな賛同する。
幸せだった。僕はずっと幸せだった。
そんなことも全部忘れて、父さんにも秋ちゃんにも朱鷺ちゃんにも、たくさん嫌な思いさせた。
これからどうしよう。
まず謝らなきゃ。お礼言わなきゃ。
健介はそう思い、顔を上げて原田を見詰めた。
「父さん……」
「健介!」
健介がまず謝ろうと原田を呼んだのに君島が間髪入れず遮った。
びっくりして君島を見ると、ギンと睨んでいる。
その目を見て思い出した。
絶対に泣くなよ。感謝するなよ。
君島にそう命じられていたことを思い出した。
そんな。
そんな。
そんなの。
今言わなきゃ意味ないのに。
それじゃ、謝るのを止める。
ありがとうだけ言う。言いたい。
それならいいでしょ
そう考え直してまた原田に顔を向けて、言った。
「父さん。ずっと、ありがとう」
「何が」
心を込めてお礼を言ったのに、父は顔も向けずに速攻で冷たく応えた。
そんな反応に健介は驚く。
そんな。そんな。
ありがとうって言ったのに。
ひどいよ。
ひどいよ。
とショックを受けていると、横の朱鷺が笑いながら健介の頭を抱いた。
それから手で短く示した。
『ひどい大人たちだね。やっぱり僕のところに来る?』
ひどいよね?やっぱりひどいよね?
朱鷺ちゃんだけは分かってくれる。朱鷺ちゃんだけは優しい。
やっぱり朱鷺ちゃんのところに行こうかな。
健介が半泣きでそんなことをこっそり朱鷺に手で伝えたが、正面にいる君島にも読まれている。
「やっぱり朱鷺ちゃんのところに行くって言ってるよ。父さんがひどいからだって」
そんなことを通訳した君島に、余計なこと言わないでよ!と健介が怒った。
そしてそれを聞いた原田が、恐ろしく不快な顔で健介を呼んだ。
「あのな。健介」
健介がびくりと肩を竦めてソファに座り直す。
それからまた原田が続けた。
「このことに関してお前に礼を言われる筋合いは一切ない。だから俺に遠慮する必要も一切ないが、お前を朱鷺にはやらない。お前は俺の息子だ。病院でそう言っただろ」
低い声でびしっと言われた。
声のトーンは冷たく怒った命令調。
でも、内容が甘いし全然説明になってない。
なに言ってんだろ、父さん。
変なの。
健介は、つい笑う。
橘一家も、原田君相変わらず変だな、と笑っている。
ずっとこうだった。
父さんも秋ちゃんもずっとこのままだった。
それがずっと幸せだった。
僕が忘れていただけ。
ずっと幸せだったし、これからもずっと変わらずにきっと幸せだ。
僕が忘れなければ。
忘れなければ。
もう忘れないように。
ずっと忘れないように。
どうしたらいいんだろう。
次回ラストです。