2
大和の車に戻り、児童相談所に向かう。
朝早く出発したのに、あちこち寄ったせいか予定より遅い到着になった。
遅くなったせいもあり、役所では飯川さんが準備万端で待っていた。
またしても面談室2に通され、そこにすでに書類が分配されていて、それぞれ席に着くとさっそく説明が始まった。
全員に配られているのはA4用紙一枚。今後の予定スケジュールをおおまかに月単位で並べてある。
当然だが今後一月ほどに書類提出や面接や診察や講習や確認が詰まっている。中には家庭訪問という項目もある。
家をまだ買ってないのですが、と原田が訊くと、急いで買ってくださいと返された。
そして原田にだけ提出書類が山積みされている。提出期限はそれぞれ付箋に書いてますので遅れないようによろしくおねがいします、と命じられた。
夕べの様子はすでに森口から連絡があったらしく、幼児養育に差し障りが無いという認可を得られたようだ。
ただ今日も森口が原田の部屋に同行させてもらうことになっている。君島が同居という条件も必須。しかもこれはあくまでも特例で、全面的に安心して任せることはできないので生活状況は毎日電話で聞かせてもらうし抜き打ちで訪問もする予定。これを了承してもらえないのであればここで話は終了です。
そう脅すように言われたが、
「構いません。むしろ放置しないでいただけるとありがたいです」
原田がそう応えた。
そして健介の保険証と戸籍の写しが渡された。
山崎まこと。2歳。誕生日は11月13日。これは、施設に預けられた日にちだそうだ。
「名前は実は、みなさん健介とお呼びになってますけど、まこと君から変更することはちょっと難しいです」
「そうなの?だって去年誰かが付けたばっかりなんでしょ?」
君島が訊いた。
「そうなんですが、今回まこと君はあくまで里子であって養子縁組で籍が変わるわけではないですから、氏名変更の訴えをできる人がいないというか……」
「え?浩一じゃだめなの?」
「そうですね。親ではないですからね」
「えー。そっかー」
君島が頭を掻いて、ふと考え直して原田に向き直った。
「まこと君にしようか。そうだね。健介って呼ぶ意味もないよ。まこと君にしよ」
「え?」
原田が驚いた。
「だって、健介って付けたの捨てた親でしょ?そんな名前いらないよ」
「いや、でもこいつ、自分は健介だと思ってるよ」
「大丈夫だよ。まだ2歳だし、すぐ慣れるよ」
「無理だろ」
「無理じゃないよ。だいたい、変更できないんだからしょうがないよ」
「どうしたら変更できるんですか?」
原田が飯川さんに訊いた。
「え、いえ、無理です。はっきり申し上げて、里親さんに里子の戸籍をいじる権利はないです」
飯川さんがはっきり応えたが、原田も食いついた。
「じゃあ誰が出来るんですか?また県知事?」
「いえ。県知事も無理です。強いて言えば、まこと君本人」
「こいつ?」
「しかも、今は無理です。本人からの訴えは、15歳から出来るはずです」
「15……」
15歳。
この小さいのが中学生にまで育つのか。
と健介を見下ろして想像しようとしたが、無理だった。
「それじゃ、15で健介に判断させます」
「浩一!」
「それに確か、養子縁組も15でできるんじゃなかったですか?」
うるさい君島を無視して原田が飯川さんに訊いた。
「え、ええ、保護親族のいない子は、そうですが、よくご存じですね?」
「いえそんなには知らないですが」
「反対反対!まこと君にしようよ!」
君島がうるさい。なので向き直って説いた。
「名前まで取り上げるな。こいつ、それしか持ち物がないんだ」
その短い言葉で君島が黙った。
黙ったが、顔を顰めている。
甘い。
心の中でそう思った。
が、やっぱり口に出した。
「甘いっ!」
飯川さんも賛同した。
「……私も、名前が二つあるのは混乱するだけだと思いますよ」
しかし原田は首を振るだけ。
「こんな名前に拘る必要なんかないよ。持ち物なんて身体一つでいいじゃないか」
君島が説得を試みるが目を伏せている原田にはまるで届かない。
「困るのは健介なんだ!」
と、君島は立ち上がって机を叩いて主張した。
それを聞いて、原田が吹き出した。
「お前だって健介って呼んでるぞ」
あっ……!と君島が頭を掻いた。
健介が机の上のジュースを欲しがって椅子に立ったので、原田がその紙パックを取って手に持たせてやる。そしてまた座らせてから口を開いた。
「自分で健介だと名乗ったんだからもうその自覚があるんだし、さっき言った通りこいつには名前しか持ち物がない。他に碌に言葉も知らないのに、その上健介っていう自分の名前を別の物に置き換えるなんて、こんな小さい頭に負荷が大き過ぎる」
そう説明しながら、ストローでジュースを飲む健介の頭を手で掴んだ。
「生みの親からもらった物なら、なおさらだろ。親でもない俺にそれを取り上げる権利はないよ」
甘い!とやはり君島は思っていたが、飯川さんは納得してしまったようだ。
そして原田と飯川さんは、さっそく手続きの書類を順番に処理し始めた。
一区切りついたのはもう昼過ぎで、そこで森口と別れて大和の車で昨日のファミレスで遅い昼食を取り、その後不動産会社に立ち寄った。君島と健介がいたせいでいつもの不愉快な誤解をされたが面倒なので訂正しなかった。
早急に手続きをしたいと頼むと、そこでも家購入スケジュールを提示された。
自分で早急と頼んだのだけれど、提示された今後一ヶ月の様々な事務手続きや諸々の作業計画の項目の多さにうんざりする。児相の手続きとこれだけで目が回りそうだ。
そしてそれプラス、今のアパートの引き払い、引っ越し、家具と家電購入。その同じ作業が君島分も発生する。何から手をつけたらいいのかわからないほどに、やることが多過ぎる。無理な気がする。
頭を抱えている原田を、大和が慰めた。
「なんだったら、会社のバン貸してやるよ。あれしばらく使ったらいい」
そう言われて、さらに思い出した。
自分は会社員だった。明日から毎日出勤しなければならないのだ。こんな手続き、どれか一つでもこなせない。
無理だ。
と、原田がやはり絶望していると、横に座った健介が袖を引っ張った。
見下ろすと、原田をじっと見上げている。
やるしかないんだよなぁ……と、その丸い目を見て思い直す。
まぁそうだよな、やるしかないよな、と再起を誓って頷いているところで、君島が立ち上がり叫んだ。
「何へこんでるんだよ!やるしかないだろ!」
それを聞いて原田はまた頭を抱えて落ち込んだ。
こいつと同居か……。
その後書類一式を渡されおおまかな説明を受け、正式な契約は後日印鑑と手付の振込の用意を持って結ぶことを確認して、その会社を出たのはそろそろ夕方になろうかという時間。
それから大和の会社に向かい、会社のバンを貸してもらう。
健介を抱いてバンに乗り込み、そういえばと考える。
アパートの駐車場を一月間借りなければならないし、来月一杯で退去の連絡もしなければならない。
まずはそれからか、とエンジンを掛けた。