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廊下に出ると、大和の部屋の電気がまだ点いている。
申し訳ないが相談させてもらおうとドアをノックした。
開いてるよ、という返事だったのでドアを開けて顔を出すと、朱鷺もいた。
「なんだ?寝てただろ?なんで起きた?」
リクライニングチェアに伸びたまま大和が訊いてきた。
「君島がうるさいんで健介が起きました」
「そうなの?そりゃ困ったね。俺の部屋で寝るか?」
そう言って大和が立ち上がり、原田の傍に来て健介の頭を撫でた。
「社長が寝かしつけてくれるんですか?」
「お前も一緒に寝たらいいだろ」
「そのベッドで?」
「三人は無理だろ」
「社長も寝るんですか?!」
「俺のベッドだぞ?」
「……じゃ、さっきの部屋から布団持ってきて寝ます」
「そこのソファも寝られると思うけど」
「こいつが落ちると困るし」
そんな話をしているうちに、大和が健介の表情に気付いた。
「なんだ?健介。不満そうだな?」
顔を覗き込んでそう言うと、健介が唇を尖らせて頭を振った。
「なんか嫌そうだぞ?」
大和が不思議そうに訊いたが、その理由が原田にはわかった。
さっきこの部屋を出た時に健介が泣きやんだのは君島のせいだと思ったのだが、それもあるのかも知れないが、もっと大きい理由があった。
「たばこ臭いからですよ」
「あー。そうか?悪いな、換気するか?」
「いやー、無理じゃないですかね?」
部屋中に臭いは染み込んでいる。
さっきは自分も吸っていたしずっとその中にいたから嗅覚が麻痺していた。
外から改めてここに入ってみると、ごまかしきれない臭いの粒子が部屋一面に埋まっているように思える。
「たばこよりは君島の騒音の方がいいんじゃないかな。そのうち大人しくなるでしょうし。戻ります」
そう言って部屋を出ようとしたが、ちょっと待てと大和に止められ、朱鷺と携帯を使いながら何やら会話をした後に再度原田に提案した。
「朱鷺の部屋で寝ていいって」
「ん?」
「朱鷺の部屋ならたばこの臭いもないし」
「ああ。いいのか?」
原田が目を向けて訊くと朱鷺が頷いた。
「それじゃお言葉に甘えて、」
と、大和に断り朱鷺に続いて部屋を出て隣の部屋に向かった。
朱鷺がドアを押し、中の電気を点けた。
どうぞ、という風に振り向き微笑む。
その朱鷺の後ろから部屋に入った。
大和の部屋と広さも形状も方向も同じなのにまるで別空間。
ベッドカバーとソファが同色でコーディネイトされているのだが、それが目に刺さるような明るい紫。壁紙は濃いグレーの大きめダマスク柄。歪んだ楕円形の枠で針も曲がったダリの絵のような大きな時計が掛かっている。
大型テレビも掛けられていて、その向かいにベッド。
ソファの後ろの大きな窓には街灯りの夜景が広がる。開けられているカーテンはたっぷりとドレープを重ねたやはり目に刺さる紫。テーブルの上にはアロマのキャンドルセット。
まるで怪しいホテルのサイケな一室。
ただ、本棚の上にトリコロールのフルフェイスヘルメットが置いてある。原田のバイクの後ろに乗るための。乗せないが。そこだけがやっと現実世界。
そんなシュールな風景を眺めているうちに、健介が重くなってきた。
寝るんだな、と見下ろす。
そこに腕をつつかれて、いつの間にか横に立っている朱鷺に目を向けると携帯を示してきた。
『僕のベッドで寝ていいよ』
原田が首を振りながら、お前は?と訊くと、朱鷺は微笑んだまま自分の胸を二度指で突いた後に後ろを指差した。客間の方向。
つまり、朱鷺が客間に寝る、と言っている。
いいよ、と原田が改めて首を振り、手でも断った。
「布団持ってくる。こいつ寝そうだから見ててくれ」
手振りを加えたが伝わらないかもなと思いつつ、すっかり目を閉じ重くなった健介を朱鷺のベッドに乗せる。
見ててくれ、とまた健介を指差し、原田が客間に戻った。
君島がまだぶつぶつと寝言を言っている。
よくこんな騒音の中で寝られるなぁと奥にいる森口に目をやると、布団から手足をはみ出させて大の字になって熟睡している。
羨ましい適応力の高さだなと思いながら、布団を丸めて持ち上げた。
急いで朱鷺の部屋に戻ると、ベッドの上で健介が起きていた。
ただ、朱鷺が相手をしていて泣いてはいない。
それなのに原田の姿を見つけると顔を崩して泣きだした。
なんだよそれ、と原田が笑う。
丸めて持ってきた布団をソファの前で広げて、寝床が完成。それからベッドに向かった。
両手を伸ばす健介を抱き上げると、朱鷺が笑顔で小さく手を振った。
健介もぐずぐず泣きながら唇を尖らせたまま、朱鷺を振り返って少し手を上げた。就寝の挨拶らしい。
さっき作った即席の簡易寝床に戻り二人で布団を被ると、しばらくして電気が消えた。
朱鷺がごそごそしている音も消えた。
ダリの時計の秒針の音だけが聞こえている。
腕の中で健介が寝入った。
朱鷺は起きている時と同じように、寝ていても静かだ。
部屋にはカチカチと時計の音だけが小さく響く。
それでも、原田はやはり眠らない。
どんなに静かでも、朱鷺の気配だけで覚醒してしまう。
眠れないので目を開けている。
暗い部屋に目が慣れ、いろいろと輪郭が見えてくる。
カーテンの隙間から漏れる外の薄明かり。薄闇の壁に漆黒のテレビ。丸いヘルメットの反射。
一本だけ色が違うソファの脚。
アンティークのソファが、その脚だけ新品。
あの時の。
大和に殴られて倒れ込んだ時の。
原田はあの時のことを断片的に思いだす。
突き飛ばされて落ちたところがちょうどこのソファでクッションになり助かったと思ったのもつかの間、ゴクッと嫌な音がして結局床に肩から落ちた。
呻きながら肩を押さえて横を見ると、ソファの脚が折れていた。
直したんだな。
上等な品だからな。
悪かったなぁ。でも加害者は社長だしな。
俺よりは社長が悪いだろう。多分。
と思い直し、天井を見上げる。
思い出したくないのだが、記憶が勝手に頭の中に登ってくる。
あの時のことはもちろん忘れてなどいない。
まだほんの2年半前のことだ。
ただ、忘れたいので忘れたふりをしていた。
あんな巨体相手によくも大乱闘を演じたものだと思う。
しかも自分は遠慮して首から上への攻撃はしなかったというのに、社長はよりによって頭部を殴打……
違うな。
違う。
あの人はラガーマンだから、頭は狙わない。殴られたのはほとんどボディだった。
それもそんなにハードな物はもらわなかった。失神するほどではなかった。
あの時失神したのは別の理由だ。
あの時じゃない。
殴打で失神させられたのは、俺の頭部を殴打したのは、
君島だ。
原田はそんな、同じくほんの2年半前のことも思いだした。