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「はい。そうです。ここの坂の下の、ご相談いただいた離婚した新婚夫婦の物件です」
「あれを原田君が買うの?」
「決定ではないですけど、そう言ってしまいました」
「買えるの?現金は持ってるの?」
「あります。社長にも説明しましたけど、親の遺産で買えます」
「でもあそこ、とてもお値打ち物件ではないからもし足が出るようなら止めたほうがいいわよ。税金もバカにならないのよ」
「大丈夫です。一括で買えますし、あのクラスだったら10棟ぐらい買える程度の資産を持ってます」
「あら。そう。それじゃ一生働かなくてもいいくらいじゃない」
「そんなつもりはないです」
「そうね。退屈だものね」
「そんな理由じゃないですけど」
「いいの。お金持ってても働いた方が。それと、お金持ってることをあまり他人に言わない方がいいわね。トラブルに巻き込まれるかも知れないから」
「はい。今まで誰にも言ったことはないです」
「あらそう?賢明ね」
「親戚が揉めたのを見てますし、本当は一生手を付ける気もなかったので」
「放棄するつもりだったの?」
「放棄してるつもりでした」
「あら。それはダメよ。親御さんが残して下さったものなんだから有意義に使ってあげるのが親孝行なのよ」
「そうでしょうか」
「遊びで浪費するのは言語道断だけれどね。そうね。家を買うのは一番有意義ね」
「……あまり、考えてなかったですけど」
「一番いい使い道だわ。そうしなさい。買ったらいいわ」
「そうですか」
「そう。それが亡くなったご両親が一番喜ぶことだわ」
「はい」
という、短い話し合いにて坂の下の物件を購入することを原田は決定した。
そして気付くと、朱鷺の膝で健介がすっかり寝入っている。
「お布団敷いてあるから、寝かせた方がいいんじゃない?」
橘母にそう言われ、そうですねと健介を抱き上げて、階段を上がって二階の客間に案内された。
十畳程度のたたみの間に布団が三組ゆったりと並んでいるのを見て原田は少しぞっとする。
もう一人分出さなきゃいけないわね、と母が押入れを開ける間に、真ん中の布団に健介を寝かせる。
その布団の横に座り、並んでいる四組の布団を見て原田はまたぞっとしている。
まぁ、ここで横になっていたとしても自分は寝ないだろうけど。と考え直す。
だとしたらいっそ別の部屋で何かしてた方がマシなんじゃないだろうか、などと考えていると、そういえば、と橘母がまた訊いてきた。
「いまさらだけど、その子引き取ることになったの?」
「え?はい。そうみたいです」
母は、部屋の端っこに布団を敷き終わったところで立ったまま、健介が寝ている布団の横で座っている原田を見下ろしている。朱鷺は健介の頭の上で健介を見下ろしている。
「養子にするの?」
「それは無理らしいです」
「育てるだけ?」
「はい。里親ということになるらしいです」
「そうなの」
「はい」
そして母が二度ほど頷いてから、続けた。
「その方がいいわね。原田君そんなに財産があるのなら、いずれ揉め事になるでしょうから」
「……養子だと?」
「そう。里親でも大変だと思うけどね」
「財産のことですか?」
「ご親戚もいらっしゃるんでしょう?」
「縁を切ってますが」
「戸籍上切れてないと絶縁とは言えないのよ」
「それならそれで、好きにしたらいいと思ってます」
原田がそう応えると、母が改めてじっと見詰めてきた。
それから口を開いた。
「……なんとなく、大和の会社に入った時も思ったけど、原田君って人生投げやりよね?」
改めてそんな分析をされて、原田は返事もできずにじっと見詰め返す。
「あんなにいい大学出たのに、あんな零細企業に簡単に決めてしまって。
今回もね。もちろんこの子のためもあるんだろうけど、それよりも原田君があまり将来を考えてないように私には見えてたの。未来なんかどうでもいいみたいに」
図星なので返事をしない。
「でも、ちょっとは納得したわ。原田君、財産があるからなのね。だからきっと余裕があるのよ。無茶をしてもしなくても生活には困らないっていう保障があるから、だからそんなに将来に備える気がないのね」
予想外の解釈をされたので、返事ができない。
その時風呂の開く音が聞こえ、誰もいねーのかよっ!という大和の怒鳴り声が聞こえ、ここで返事をすると寝ている健介を起こすことになるので慌てて階段を下りて、ダイニングに戻った。
しかし二階の客間でもし健介が目覚めたら泣いて階段を降りようとして転げ落ちることになるかも知れないから、二階に移動して飲むかということになり、そろそろ私も眠いからと母が脱落し、朱鷺は風呂に入るとそちらに向かい、残った二人で酒を持って階段を上る。
大和が一度健介の寝顔を見たいというので客間を覗き、ぐっすり寝ている様子を確認してから廊下を少し歩いて大和の部屋に向かった。
電気を点けると十畳程度の洋間でベッドや机やテーブル等の大型家具の上も床も全て漏れなくなにかしらで散らかっている。
原田は足の置き場を探しながら窓際まで移動して、窓を開けた。ひときわ冷えた空気に吐く息が白い。
大和にビールとタバコをもらい、缶を開けて一口飲んでからたばこを咥えて火を点けた。
窓枠に肘を付き、深く吸って煙を外に吐きだし、少し痺れた頭でさっきの言葉を思い出す。
人生投げやりよね。
将来を考えていないような。
未来なんかどうでもいいみたいに。
原田は目を閉じた。
バレていたんだなぁ、と少し笑う。
言われた通り。
自分は先のことを考えていない。
考える気になれない。
灰を灰皿に落とす。
未来は、
将来は、
どんなに考えていても、どんなに準備していようとも、
約束はされていない。
失くすことなど考えてもいなかった物を、奪われたことが何度かある。
そういうものだと諦めるためには、あらかじめ期待しないことを心がけるしかない。
未来には何もないとあらかじめ諦めておくしかない。
約束された未来がないのに、なにかを頑なに信じることなどできない。
自分の命すら保障がない。
突然死んだ自分の親のように。
そんな儚い自分の意思や行動など、未来になんら影響しない。
自分が消えても世界は変わらず動いて行く。
親がいなくても生きてきた自分のように。
ファミレスで原田が口にした懸念は、君島が世界中の人が抱えているよと断じたリスクは、確かに極端な事例を持ち出したのだが、原田がまだほんの幼い時分に実際に陥った危機だ。
両親という支えの全てを失った。
幼い原田には当然備えなどなかった。
それでも、生きてきた。
吐いた煙が冷えた闇に消えていく。それよりもさらに冷えたビールをまた口にする。
自分がこの子供を引き受けようと引き受けまいと、
そして明日自分が生きていようと死んでいようと、
多分この子供はなんとかなる。生きていける。
自分の力があろうとなかろうと、生きていく。
あの時全て失った自分のように。
今ここで手を貸すことは、そんな原田の論理からすると、本来無責任だ。
自分の未来すら保障されていない原田が健介を生涯守れるはずがないから。
それでもきっと、もし将来原田がどうにかなったとしても、健介は生きていくだろうと思う。
僕がいるよ!と何度も叫んだ君島の声も原田の頭には響いた。
どこにも行く場所がないあの子供を、あの道楽者が建てた家に住ませてやろうか。
幸い金はある。
使うつもりもなかった、親の残した物。
いいかげん冷え切ってきたので、たばこを消して窓を閉めようかと思いつつ、また一息吸う。
煙が闇に消える。
突然いなくなったことを心の底で恨んでいたのかと、さっきやっと気付いた。
使うことが親孝行なのよと言われて初めて気付いた。
孝行する気なんかなかったから、恨んでいたから、今まで手を付けなかったのだと気付いた。
両親の死は当時から子供ながらに了解していたはずだった。
特異なことではないのだし、受け入れるしかないのだと理解していた。
独り残されてもそれなりに生きてきた。親には何の感慨も持っていないと思っていた。
思い出すことすらほとんどない。
それなのに。
子供の頃は了解していた。しょうがないことだと諦めていた。
それが今になって、こんないい大人になって、いまさらそうじゃなかったと気付いた。
突然この世からいなくなった親を、原田はずいぶん長い間恨んでいたようだ。
自分の未来に光を見いだせないくらいに。