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朱鷺から受け取ったバッグをそのまま両手で持って駆けて行き、そのまま君島に押し付けバッグごと捨ててくれと大和が頼んだ。
ええええ~と君島は文句を言いたそうだったが、飯川さんが何も言わずに引き受けてくれて汚れ物を抱えて玄関に入って行く。
よろしくーとその姿を見送り、また車に引き返した。
後部座席ではまだ健介はぐずぐず泣きながら原田に抱きついている。
「速攻で帰るぞ。健介」
と、大和は健介に呼びかけ、エンジンを掛けた。
健介が吐いたばかりだと言うのに、大和の運転はいつも通りまるで容赦ない。
でもどんな荒い運転でどんなに身体を揺らされようとも、原田にしがみついた健介がまた吐くことはなかった。
原田が傍にいる限り、吐くこともなく泣き喚くこともない。
原田さえ傍にいれば健介は心も身体も穏やかに過ごせる。
あの小児科医に言われた通り、投薬や拘束もなしに健介は大人しくしている。
いよいよこれが決定事項と認めざるを得ない。
などとは、今は原田は考えてもいない。
また吐いてしまったから健介の腹には何も入ってない。
そして二度も吐いたせいですっかり汚れている。原田の服も多少汚れた。
実は原田は潔癖症だ。
健介に何か食わせてやりたいがその前に健介と自分の汚れを落としたい。
全て、橘家に到着すれば解決する。
大和の乱暴な運転もどうでもいい。一秒でも早く到着してくれ。
それだけを熱望していた。
そしてやっと橘家に到着。家の前に車を急停車させて、全員車から飛び降りた。
大和が先に玄関に向かい、ドアを引くと不用心にもあっさり開いて、ただいまー!と大声を上げた。
健介を抱いて原田も続いた。
あらあら遅かったわね、と妙さんが出てきて、望んでいたことを口にしてくれた。
「お風呂沸いてるわよ。先に原田君と僕で入ったら?タオルは置いてあるから」
ありがとうございます!と原田は泣きそうなほど喜んで浴室に向かった。
そして脱衣所で速攻で上着を脱ぎ、洗面台に置き、健介の服を脱がせてそれも洗面台に置き、汚れた服はそこにまとめて後で洗うとして、それから風呂に入る手順を考えた。
子供と風呂に入った経験など皆無なのでどうしたものかさっぱりわからないが、とりあえず冷えているので一度流してから湯船に浸かろう。それから考えよう。
そして恐る恐る子供のオムツを下してみると、重い。
周囲を見回しゴミ箱を発見し、何も入ってなかったのでそこに捨ててそのビニール袋を縛った。
そして急いで服を脱いで引き戸を開けて浴室に入った。
中に入ってから思い出したが、橘家の風呂は浴室全体が広くバスタブもでかくて深い。子供一人で入れておくと恐らく溺れる。原田が抱いて一緒に入るしかない。
まずシャワーで健介の身体を流し、顔を拭いてやり、自分の身体もざっと流してから健介を抱き上げてバスタブに脚を入れた。小さな足が湯に触れると驚いたようでびくっと引いた。
そんなに熱くないぞ、とその足を握りながらゆっくりと身体を沈める。
お湯の温度に慣れた健介が湯に手を伸ばしてばしゃばしゃと掻き回す。
原田が腰を下ろし、健介がバスタブの縁に掴まり、やっと落ち着いた。
原田が落ち着いた真正面に、テレビがあった。
前に入った時には無かったものだ。あれから設置したんだなぁと感心する。
しかしこれを点けて健介に興味を持たれても面倒だし長湯の趣味もないのでスルーしておく。
そこに脱衣所から大和の声が聞えた。
「着替え持ってきた。下着は新品だけど部屋着は俺の貸してやるよ。健介には朱鷺の昔のパーカーでも着せておけばいいか?着替えは後で持ってくるらしいし」
「すいません。なんでもいいです。それと、昼に買ってきたオムツ一個持ってきてもらえませんか?」
「おー。そうだったな。持ってくる」
「お願いします」
そしてまた脱衣所のドアが閉まった。
しばらくして身体も温まり、湯船を出てまず健介を洗う。
身体を洗った後に自信は無いが頭も洗ってやる。
少し濡らしてシャンプーを泡立てガシガシ洗い、その後膝に仰向けに寝かせて顔に掛からないようにシャワーで流す。当然水が顔に掛かるのを嫌がり暴れる。暴れるが流さなければならないので片腕で腹を締め付けて無理矢理頭に浴びせる。
虐待を疑われそうなほどの絶叫が浴室に響いたが、橘一家は誰も手伝いに来る気配もない。橘家の息子三人も幼児期の入浴時はこんなものだったから気にも留めていなかった。
健介を洗い終わり、軽く自分の身体を洗うことにして原田は健介の身体を離した。
やっと自由になったので、広い風呂場をうろうろ歩いて大きな鏡に両手を付けてじっと自分の顔を覗きこんだりしている。
テレビにも気付いてさらに遠くに行こうとするので、さすがに捕まえた。転ばれて頭でも打たれたら大変だから。
そして髪を洗う間は目が届かなくなるので腕を掴むことにした。
案の定健介がバスタブの方に行きたがり、原田は腕を強く引いた。勝手に入られると落ちて溺れるかも知れないから。
とにかく急いで泡を流す。その間に今度は原田の後ろに移動した。あまり後ろに回られると腕が届かない。
おいおい、と髪を流し終わってシャワーを止めて、頭を後ろに倒して健介を見下ろした。
健介が、椅子に座る原田の後ろに立ち、原田を見上げた。
そして小さな手でその背を撫でて訊いた。
「たい?」
原田が応えた。
「いや。もう痛くない」
そう応えたのに、健介はまた背を撫でた。
そうだった。忘れていた。
こいつを風呂に入れるのは君島に頼もう。
原田はそう決めた。