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「では、とりあえずその、食事をしてきていただいてまた戻ってきてもらえませんか?」
「嫌です」
上司の提案を君島がばっさり断る。
「とりあえず今晩健介を預かれる手続きをしてください」
そんな無理難題に職員たちが頭を抱える中、安達さんがまたお気楽な発言をする。
「所長が不在なら次長さんの承認でよろしいじゃないですか」
「いや、そんな、何を承認しろと、」
次長がおろおろしているので君島がアドバイスする。
「健介を一晩浩一に預けます、って紙に書いてハンコ押してくれたらいいよ」
「そこまで簡単じゃないわね」
安達さんが諌めた。
「あの、紫田の施設にあなたがお泊りになるというのはいかがですか?」
飯川さんが原田に提案する。
「個室もあるのでそこにまこと君を移動して、横井さんにお願いして宿泊の許可を、」
「いや、こいつはあそこの施設自体嫌っているしいじめた三人もいるのなら無理でしょう」
「あら、そうよね……」
「安達さんのホームは空いてないですか?」
上司が訊いた。
「うちも問題児だらけで、突然新しい子を連れて行ったらパニックになるのよ。ごめんなさいね」
「となると……」
「浩一に預けるしかないでしょ?最初からそう言ってるのに、いつまで時間掛ければ気が済むの?」
君島がまた繰り返すが、上司はまた躊躇う。
「しかし、前例もないですしねぇ……」
「前例ならあるわよ」
安達さんの即答に、職員たちが驚いた。
「え?施設の子を一般家庭に?登録もしてない人に預けたことがあるんですか?」
「友達の家に外泊なんて話じゃないですよ?」
「私ここに5年いますけど聞いたことないですよ」
そんな反論に、あっさり応えた。
「20年前の話ですもの。確かにちょっと特殊ではあったけどね。引き取って下さったのは学校の先生だったから」
「学校の先生?」
「事故で家族を亡くした子だったんだけど、身寄りが無くて。でも施設も合わなくて。そこで先生が手を挙げてくださったの」
「……でもそれはちょっと事例が違う気がしますが」
次長が難色を示したが、安達さんはけろっと笑った。
「子供たちはみんな違うのに、同じ事例なんかあるはずないでしょう?この方の言う通りいつまでもぐずぐずしていたらこの子が飢え死にしてしまうわ」
「そうですよ!その20年前の資料出して調べてください!」
君島が手を叩いて急かしたが、安達さんはさらに時短案を示した。
「その20年前の先生っていうのは、紫田の横井さんだから。電話で手続きを訊いたらいいじゃない」
「まじですか?!」
森口が大声を上げた。その横で飯川さんがすでにスマホを握っていた。
そこに事務所から次長を呼ぶ声が聞え、ちょっと失礼と言いながら中に入って行った。
それと入れ違いに職員が二人出てきて、どうしたんです?とか何かありました?とか声を掛けた後に健介に気付き、この子ってあの子じゃないですか?あの大暴れした?まさかあの子ですか?!と、原田を遠巻きに眺めて感嘆した。
その間に横井さんに電話が繋がっていて、飯川さんがやかましい集団から離れて話し込んでいる。
そしてやかましい集団ではまた、みなさんどなたですか?この子のお父さん?違うんですか?引き取りたい?ご夫婦で?え?それも違う?という問答が繰り返されている。
そんな喧噪の最中に電話を耳に当てたまま飯川さんが振り向いて、横井さんの説明の途中経過を報告。
「あのー、やっぱり全然事例が違いまして、事故で家族全員亡くした子を横井さんが一時引き受けたそうで、特に難しい手続きもなかったそうですよ」
それを聞いた安達さんがにこりと笑って、訊いた。
「そうね。覚えてるわ。大きな事故でたった一人残されてね。事情があって誰も引き取り手がいなくて施設も空きがなくてね。横井さんが手を挙げたの。誰の許可で連れ帰ったか訊いてくれる?」
「え、はい。横井さん?それでその時、その子を引き取る際にどなたの認可をいただいたんでしょう?」
原田の腕の中で、健介がぐずりだした。ぱぱ、と呼びながら唇を尖らせている。もうちょっと待てよ、と原田がその身体を抱き直す。ただの父子にしか見えないな、と周囲はみんなそれを眺めている。
「ええ、はい。そうですか。そうですよね。それはちょっと難しいですよね……」
ため息交じりに、飯川さんが顔を上げて残念そうに報告した。
「やっぱりちょっと厳しいです。緊急性もあったし横井さんの身元がしっかりしていたからすぐに許可が下りたそうですけど、所長と県知事が認めた特例だったそうです」
うわ!と君島と大和が声を上げた。
ふふ、と安達さんが笑った。
「ですから、やっぱり今日すぐにというのは無理ですので、他の手を、」
と飯川さんが続けているのに君島が騒ぎ出した。
「さっきの!次長!次長!所長に電話してください!」
「次長判断でいいんじゃないのか?」
大和が訊くが君島が返す。
「所長が知事から健介の話聞いたって言ってたんだから、所長に知事の許可ももらってもらえばいいよ!」
「知事なら私が訊いてみるわ」
安達さんが携帯を取り出した。
「え?」
全員驚く中、安達さんがまた笑った。
「知事の秘書の梶君、私のホームにいたことがあるのよ。だから番号知ってるの」
秘書の梶君。
県知事の秘書の。
あの黒子のような梶さん。
あの人も養護施設で過ごした経験があったのだ。
だから、健介に親身になってくれてたのか。
ここまできて初めて知らされた、黒子のように静かだった秘書の温かい情に、胸が熱くなって君島は泣きそうになる。
「だから、今の知事になってからここもずいぶん整備されたのよ。梶君が目を掛けてくれてるの」
そう言ったあとに電話が繋がり、安達さんがご無沙汰の挨拶から始めた。
そして次長も事務所から出てきて所長に電話を掛け、二つの重要な要件が廊下で立ったまま携帯で話し合われている最中。
そしてそれぞれ所長と知事の意思が伝えられ、それを周囲に伝え確認し、所長と県知事にもそれぞれ伝えられ、一度通話を切り直接話をして再度連絡するという取り付けを両者からもらい、知事が電話口に大和を呼びだした。
「はい。橘です」
『おお、大和君。まぁ、そういうことだから上手いことやってくれ』
「ありがとうございます。本当にお手間いただきまして」
『いやいや。朱鷺ちゃんの頼みだからな』
「朱鷺?」
『うん。朱鷺ちゃんからヘルプが入ったって橘から緊急電話をもらってね。梶もちょうど心配してたところだったから所長に指示を出したんだ』
「そうでしたか。ありがとうございました。ちょっと待ってください、本人からも挨拶させます」
そう言うなり、大和が原田の耳に携帯を当てた。
「知事にお礼をいいなさい」
「え?!あ、ありがとうございました。おかげでなんとかなりそうです、って、え?」
原田が反射的に礼を述べると、すぐに電話を離された。
「おかげで健介がなんとか静かに暮らせそうです。はい。ありがとうございました」
そして通話を切り、携帯を安達さんに返した。
「朱鷺の仕業らしい」
「だと思った」
大和の言葉に君島が笑った。