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土足で上がった廊下を走り、子供をかき分け、座っているおばさんの大きな背中の陰に倒れている健介を見つけて、君島はおばさんの肩を引き倒してその横に膝をついた。
「健介」
名前を呼びながら、肩を起こして横を向け、強張る口を無理やり開けさせ、襟元を引っ張って楽にしてやり、腕をさすり背を叩く。突っ張った身体が嘔吐の度に反る。呼吸が止まるので何度も背を叩く。呼吸が戻るとまた嘔吐する。床にさっき食べたおにぎりが吐きだされる。服と口の周りにも付いている。
若い職員が持って来た割り箸を掴んだおばさんが君島の腕を掴んだ。
「引きつけなんか珍しくもないよ!小娘はあっちに行ってな!」
おばさんが般若の形相で君島を怒鳴りつけた。君島がその手を振り払い、速攻で怒鳴り返した。
「割り箸?箸なんかどうする気だよ?何十年前の対処法だよ?看護の講習ぐらい受けたらどうだ?吐いてるんだからまず喉詰まらせないようにしろよ!」
涙を零して目を開けたままの健介が、浅い呼吸の後にまた吐く。それを見てまた君島が健介の背をさすって全部吐かせてから肩を抱き、玄関に向かって大声を上げた。
「ヤマちゃん!日赤まで連れて行って!」
それを聞いたおばさんが半笑いで慌てた。
「日赤?病院?おおげさな」
そんなおばさんの半笑いに付き合わず、君島が真っ直ぐ見据えて言い放った。
「素人が口出しするな」
若い職員が遠慮気味に君島にタオルを渡しながら訴えた。
「お、お医者様なら、町に担当医がいるんですが、」
「ありがとう。でも小児救急の方が早いよね。日赤近いしね」
そして受け取ったタオルで健介の顔と胸元を拭いて抱き上げた。まだ顔色が青く身体が突っ張っている。
「浩一!」
君島が振り返って呼ぶと、原田もフロアに上がって来ていてすぐ後ろにいた。
「浩一が抱いて、車に乗って」
そう言って君島が健介を渡した。
そして二人で土足のまま廊下を走って玄関に降りた。
「待ちなさい!勝手な真似を!」
おばさんの叫び声が終わらないうちに君島が叫んだ。
「誰か車でついてこい!黒のランクル!早く!」
職員たちが躊躇っている間に森口が応えた。
「僕が行きます。知事、ここで失礼します」
玄関の外から声が聞える。
「朱鷺ちゃん、ありがと!前に乗って!」
「君島、先に乗って荷物除けてくれ」
「OK」
「日赤だよな?秋ちゃん」
「悪い、朱鷺、閉めてくれ」
「日赤。あ、待って。変えるかも」
「健介、」
ドアの閉まる音がして、車が二台騒がしく敷地から出て行った。
一気に喧噪が立ち去り、静寂が下りる。
そこに、おばさんが呟いた。
「……知事?」
その声に、玄関にいる知事と秘書が振り向いた。
薄闇の中、私服姿ではあるが知事の顔が確認できる。
しかし公務ではないので、名乗りはせず言葉も発せず、知事も秘書も一つ会釈をして背を向けた。
薄闇の中に二人の姿が消えていく。
新人の森口が帳簿を探っていることは知っていたが、いつも通り曖昧にして威圧してごまかそうと思っていた。
たいしたことでもないしたいした金額でもない。この程度の旨みがなければこんな仕事やってられない。
それなのに、知事?
なんてばかばかしい。やってられない。
おばさんは持っていた割り箸を床に叩きつけた。
知事のハイブリッド車は、音も立てずに立ち去った。