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「何でしょうか?あら。森口さん。何かありました?」
笑顔も見せず、おばさんが森口を見て訊いた。
「あ、いえ、あの、」
ドアを開けたものの、知事が中を見ないのなら特に用事がないので森口はおろおろと目を泳がせている。そんな森口をおばさんは舌打ちでもしそうな表情で無言で睨んでいる。
新人職員と自己紹介していたが、どうやらおばさんはこの新人が気に入らないようだな。もしかしたらこのおばさんがさっきの横領の容疑者かも知れないな、横領なんて慣例なのに石頭新人は要領が悪い上に融通が利かない、ってとこか?
などと適当に想像しながら、原田が玄関の中に入った。
「お探しだったかと思いますが、この子が迷子になってました」
そう言って腕に抱いた健介を示す。
誘拐したとは言わないでおこうと君島と相談して決めた。あらあら朝から探してたんですよ!と言われたら、朝からいなかったんですか!と驚くことにしようと。
ところが、原田がそんなことを言っている最中に腕の中の健介が原田の首にしがみついて盛大に泣き叫びだした。またかよ、と原田が困って健介の背を叩いたりしても一向に泣き止まない。
そしてその声で、おばさんが気付いた。
「あら!まこと君!」
そう呼ばれて、健介が尚一層声を張り上げた。ああ、まこと君だったか、とその頭を押さえる。
サイレンのような健介の声に耳を塞ぎながら、おばさんが続けた。
「まぁ!外に出たの?いつの間に?」
いつの間に?
原田の頭に、その言葉が引っ掛かった。
「ほんっとうに、この子ってどうしようもないわ」
森口に見せた顔と同じような表情で、おばさんが沓脱に降りてきて健介に両手を伸ばした。
腹を掴まれて、健介がさらに叫んだ。
原田の首に巻きつく両腕が、力を入れ過ぎて細かく震えている。
「早く離れなさい!迷惑でしょ!」
怒鳴るおばさんから離れるために、原田が身体を引いた。
おばさんの手が腹から離れてもまだ健介は叫んでいる。
「あら、あなた以前もこの子を、」
おばさんがやっと原田のことを思い出した。
「ええ、前も二度ほど」
原田がそう応えている間に、君島が横に来ておばさんに訊いた。
「この子がいなくなってることに気付かなかったんですか?」
君島もおばさんと同じくらいに挑戦的な表情で睨みつけていて、それを見たおばさんがさらに不愉快そうに睨みながら応えた。
「……そ、そんなはずないでしょう!探してましたよ!」
「いつの間にってさっき言いましたよね?」
「言ってません」
「言いましたよ」
「言いましたよ」
君島に賛同した森口を、おばさんがまた睨んだ。
「なにしろ人数が多いんです!勘違いだってあるでしょう!その子渡して出て行ってください!」
再度おばさんが健介の腹を掴み、再度健介が絶叫した。
「掴まないでください、渡しますから。大人しくなってから渡しますから離してください」
原田が頼んでもおばさんはキレているようで言うことを聞かず、健介をむりやり剥がそうとする。だから健介も絶叫を止めない。
止めてくださいよ、泣いてるじゃないですか、と森口が間に入ろうとした。
「うるさい!」
おばさんが腕で森口を振り払い、森口がその拍子に後ろに転んだ。
さすがに驚いて全員動作を止めたが、集まっていた子供たちが笑い出した。
転んだー、弱っちぃー、お兄ちゃんの負けー、とケラケラ囃し立てている。
そんな騒ぎで健介も驚いて叫ぶのは止めたが、まだ怯えて息を切らせている。
バツが悪そうに森口がよろよろと立ち上がろうとしたところで、おばさんが上から言い放った。
「こんな時間に来るなんて!晩ご飯の時間でみんな食堂にいたんですよ!あなたが来るからほら、子供たちがみんな食堂出てきてしまったじゃないですか!」
尻を払いながら森口が謝ったが、おばさんは責め足りないようだ。
「ただでさえ子供の数が多くて職員が少なくて大変なんです!いくら新人でも忙しい時間ぐらい考えて来てください!」
大声が嫌いな健介が、また原田の首にしがみつこうと腕を伸ばした。
その瞬間、おばさんが健介の腹を両手で掴んだ。
一瞬で健介を剥ぎ取られ、両手を伸ばして自分を見詰める健介の目を原田は見ていた。
その間におばさんはさっさとフロアに上がり、君島を振り返って口を曲げて笑った。
「食事の時間ですから。子供たちの邪魔しないでお家に帰りなさい」
健介が身体を反らせて泣き叫んでいる。
奥から他の職員も数人出てきて、他の子供たちも出てきて、廊下が一杯になり、その中に健介を抱えたおばさんが呑み込まれる。
暴れて絶叫して顔を真っ赤にして涙を落として抵抗しても、無力の健介は連れ去られる。
「……どうにか、ならないの?」
健介の叫び声が響くフロアで、君島が立ち上がった森口に顔も向けずに訊いた。
「どうにか、とは、」
「あの子、こんなところで、」
君島がそう呟いた時、奥から悲鳴が上がった。
「どうしたの!」
「なにこれ!」
「慌てなくてもいい!」
大人たちが一斉に叫ぶ中、子供の悲鳴も上がる。
あー!あー!死んだ!死んだね!泡!吐いた!げー!
「たいしたことじゃない!あれ持ってきて!口に入れるもの!箸!スプーン!」
おばさんのその叫び声を聞いて、君島が土足でフロアに駆け上がった。