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「……さきほど、紫田の養護施設の子と、おっしゃってませんでしたか?」
静まりかえっているので、離れた場所にいる秘書の小さな声でもよく聞こえた。
「はい。そこの施設に入所していて、その後黄崎区の家庭に引き取られたと聞きました」
原田が向き直って応える。
「そこを脱走してあなたの所に逃げたとおっしゃいましたが、あなたはどこにお住まいですか?」
「緑区です」
「黄崎区から緑区まで?子供の足で逃げたのですか?」
「いえ、今はまた紫田の施設にいるようです」
「紫田から緑区?そちらも距離がありますね?」
「ええ、まぁ。いろいろとありまして、」
「……しかし、また施設に戻されたと言うことは、養子縁組はまだしていないのではないですか?」
秘書が首を傾げて、そう訊いた。
「え。そんなことあるの?」
君島が声をひっくり返して秘書に訊いた。
「珍しくはないですよ。大変な決断ですから、考える時間はいくらでも必要です。何度も面会して何日も一緒に過ごして何度も話し合いをして決めなければならないことです。ですから、もしかしたら縁組に向けての試験期間として候補家庭に短期間引き取られていたのかも知れません」
「だったら!」
君島が目を輝かせて原田を振り向いた。
だったら健介を引き取れるね!と続けようとしたようだが、昴にばっさり斬り捨てられる。
「だとしても原田君では引き取れない!」
「昴君さっきからさー、なんでそう嫌がらせを連発するの?」
「嫌がらせじゃないよ。事実は事実として認識しないと」
「可哀想だと思わないの?」
「そういう感情だけで決めていいことじゃないよね」
「そうだけど!なんか方法があるでしょ!」
「ないよ」
「少しは考えてよ!」
「考える余地がない」
「余地を考えてよって言ってるんだよ!」
「ゼロをどう弄繰り回したってゼロだからね」
冷静な昴と感情的な君島の意見が噛み合わない。
考える余地なく戻さなければならない子供が、君島と昴の言い合いに怯えて原田の胸にしがみついている。
子供は原田の腕の中を避難場所だと思っているようだ。ここにいれば安全だとでも言うように原田の腕に隠れて激論を戦わせる二人を覗いている。親鳥の羽の中にいる雛のように。
それでも、子供を引き取ることはできない。
昴の言う通り、一時の個人の感情でこの子供の環境を変えることがこの子供の為になるとは限らない。子供の望みだとしてもそれが子供の勘違いじゃないとは限らない。
だからこそ安易に変えられない縛りが存在する。それは間違いなく子供の未来のための縛りだ。
それが結論だ。
原田は、そう納得した。
「いずれにしても、その子は一度施設に連れて行かなければならないですね?」
君島と昴がまだやかましくやりあってる中に秘書の声が聞えた。
「はい。脱走したのが朝なのできっと探していると思います」
原田がそう応えると、秘書がすぐに返した。
「そりゃまずいですね。その子連れてすぐ参りましょうか」
「……え?」
言葉の意味がわからず原田が驚いている間に、秘書は横に立っている知事に提案していた。
「実は紫田の養護施設について懸案報告が来てます」
「懸案?」
「まだ正式に書類も上がってませんしその前に処理できるかも知れない旨の報告ですが、しかしその上で子供への暴行事案が重なるとなると問題は軽くはないかと」
「懸案とは何だ?」
「よくある会計問題です。それよりも、養護施設において子供を養護できていないのが問題です。この後あまり時間はないですが、一度施設の様子をご覧になりませんか?この子を連れて行くついでに」
「施設の様子とは?」
「一度に複数の問題が周囲に表出するのは組織が腐っている証拠です。内々に処理するという報告自体怪しいです。今まで一度も訪問したことのない小さな施設ですが、それだけに見逃されてきた些事が多々ありそうです」
「そうかね。まぁ梶君がそこまで言うのなら、ついでにちょっと見学するか」
「え?」
知事と秘書の突然の発案に、原田が依然驚いている。
「知事が、施設に?」
「そうなの?!すごいね!行こう行こう!」
君島が飛び上がって喜ぶ。
「いえ、しかし公用ではありませんので職員に交渉することはありませんし、気付かれなければ名乗りませんし」
秘書が慌てて釘を刺す。
「なんでもいいです!行こう!気が変わらないうちに行っちゃおう!」
君島が右手を突き上げて、家に入って行った。
続いて知事と秘書が入って行った。
「行こう行こうって、俺の車使う気だよな?」
大和が腕組みをして扉の横に立っている。その前を通りながら原田が応える。
「多分そうでしょうね。貸してもらえますか?」
「いいけど。こいつ、大人しくなったな」
大和が原田に抱かれている子供の頭をつつくと、顔を上げた。
「そういや、こいつキッチンで何か食ってる途中だったぞ。腹減ってるんじゃないか?」
「あ。そうですね。そういえばずっと何にも食べてないですね」
「お前は?」
大和に訊かれて気付いた。
「俺もずっと食ってないですね。朝飯食べただけです」
「もう夕方だぞ?」
「忘れてました」
「キッチンでお袋に何かもらえよ」
「いや、でも」
「健介は絶対腹減ってるから、ついでにお前も何かもらえ」
でもそんな時間は、と原田が応える前に大和がキッチンに向かって怒鳴った。
「おー袋ー!原田と健介腹減ったってー!すぐ車で出るからなんか作ってー!」
遊びに行く小学生か、と原田が呆れていると、
「あらそーお!おにぎりか何か作りましょうね!」
と、遊びに行く小学生のママのような返事が返ってきた。