14
原田は裏庭に出ていた。
ドアを開けるとラジコンの横に座っていた飼い犬のパピヨンが大急ぎで駆けてきた。どうやらラジコンと一緒に締め出されていたようだ。
そういえば今日見てなかったな、とその頭を撫でてやる。
やっと救い主が現れたので子犬は尻尾を振り回してくるくる回っている。
もう少ししたら家の中に連れて行ってやるよ、と原田はサンダルを履いて歩き出した。犬はくるくるとせわしなくついてきた。
壁際を少し進むとオープンの収納スペースがある。そこに折りたたみ椅子やテーブルと共に棚の引き出しの中に灰皿がある。橘家には喫煙者は大和一人しかいないのだが、その大和のために灰皿はあちこちに用意されている。
たばこはさっき車の中に半分くらいの本数が残った大和の物が置いてあったので持ってきた。使い捨てライターも一緒にあったので、車内に放置するには危険だからたばこと共に撤去したのだが、お礼に吸わせてもらおうと思う。
椅子を取り出して埃を払い、たばこを咥えて火を点けてから灰皿を取り出し、椅子に座った。
枯れ木と常緑樹の黒っぽい緑だけの寒い景色を眺めて一度煙を吸うと、くらりと頭が痺れる。
今日二本目。そういえば朝一本吸っただけだった。こんなに長時間吸わなくて済むならいっそ禁煙してしまおうか。などと無理なことを考えつつ、足元でくるくる回る子犬に手を伸ばす。
まぁ禁煙なんかする必要もないか。
たばこ嫌いなあの子供を引き取るつもりもないのだし。
朱鷺にも抱かれていたし君島にすら懐くのだから大丈夫だ。俺じゃなくても慣れれば泣かない。
ちゃんとした子供好きの温かい家庭に加えてもらえれば一番いい。知事がいるのだしきっと探してもらえるだろう。
今頃応接室ではそっち方面に話が変わっているはず。
そんなことを考え、灰を灰皿に落とす。
パピヨンが膝に乗せてくれと脚を引っ掻くので、おいでと組んでいた脚を下した。
跳び乗ってきた子犬の耳を掻きながら夕暮れ迫る晴れ渡った空を見上げる。凍てつく空に白い煙が登って行く。春はまだまだ遠い。
と、のんびりしていたら、中からドタガタバタバタとやかましい音が聞こえてきた。
その音が迫ってきて通り過ぎ、また戻ってきて扉がドカっと開いて、叫び声が響いた。
「いたぞっ!健介、ここだっ!!」
顔を向けると、大和が開いた扉のドアノブを握ってそこに立っている。
脚を大きく開いて、両腕も大きく伸ばし、まるで大きな鬼が押し込みに来たような風情。原田よりも膝の上の犬が驚いて跳び上がった。
ぱぱ―――っ!
という叫び声が段々迫ってくる。
なんでわざわざ呼び寄せるかな、と顔を顰めてとりあえず原田は灰皿にたばこの火を押し付けて消した。
その最中に、健介が大和の足元に駆けてきて原田を見つけてそのまま飛んできた。
「パパっ!」
冬枯れで藁色の芝の上を何も履かずに駆けてくる。
そして椅子に座る原田の腕を掴んだ後に、健介は顔色を変えてその膝に乗るパピヨンを突き落そうと腕を振り上げた。
おい、待て待て!と原田が慌てて子供の腕を掴み、怯えて硬直する子犬を逃がすために片脚を椅子から下ろした。が、犬は原田の脚にしがみついて離れない。それを見てまた健介が怒って飛びつこうとする。
なんだこの揉み合いは、と原田は責任者を詰った。
「社長ー!なんとかしてください!」
「お前がこんなところに勝手に来るからだろ!子供を放置して!」
「放置って、朱鷺が抱いてたじゃないですか!」
「お前には親としての自覚が足りない!」
「何言ってるんですか!」
言い争っているうちに、朱鷺が原田の横に来て子犬を持ち上げた。見上げると頬の絆創膏が剥がれかかっている。
またやられた?と原田は次に健介を見下ろすと、片腕を原田に掴まれて片手は原田の服を握り、健介はじっと固まって原田を凝視していた。
いつもならとっくに飛びついてしがみついているところだ。
掴んでいる腕を下ろしてもまだ動かない。
カサっと枯れた芝を踏む音が聞こえ目を向けると、犬を抱いた朱鷺が戻って行く。
一度原田を見て、少し笑った。少し悲しげだった。
そして目を戻すと、健介はまだ原田の服を両手で握ったまま凝視している。
じっと原田を見上げて、ずっと躊躇している。
パパ、と小さく口を動かして、躊躇っている。
なんだ?と視線を動かしてみて、気付いた。
テーブルの上の灰皿に消したばかりのたばこが燻っている。
そうか。
たばこか。
たばこの臭いが、嫌なのだ。
煙もまだ消えていない。
自分の身体にも指にも臭いは染み付いているだろう。
健介は躊躇ったままずっと原田を見上げている。
原田もそれを冷たく見下ろした。
嫌だろ?
資格とか条件とか以前に、お前は俺のたばこが嫌だろ?たばこを吸う俺は嫌だろ?
無理するな。
世の中には吸わない人間の方が多い。非喫煙者はたくさんいる。
親切で優しくて子供好きで健康で裕福でたばこを吸わない夫婦はたくさんいる。
そういう引き取り手を探してもらえよ。
たばこの臭いのする俺には抱きつけないだろ?
原田はそう冷たく見下ろしていた。
が、
健介は意を決して原田に飛びついた。
飛びついてよじ登ってしがみついて、泣きだした。
たばこは怖いけど、たばこの臭いは嫌だけど、それでも原田がいい。
そういう健介の意思表示。
でもたばこは嫌だ。でもパパがいい。そんな折り合いの付かない逡巡に大泣きしている。
そんな健介にしがみつかれて、原田はぐったりしている。
「ほらねっ!言ったでしょ!言った通りでしょ!浩一じゃなきゃ死ぬんだよっ!」
また君島の甲高い怒鳴り声。
「だからー!原田君じゃ引き取れないんだってば!」
昴が繰り返す。
「県知事なんだからなんとかできますよね!」
君島が無謀なことを言い出す。
「独裁者じゃありませんので……」
秘書がまともに返答する。
「独裁者じゃなかったんですか!」
大和がくだらないことを叫ぶ。
応接の全員が移動してきて再度激論を始めた。
また怒鳴り合いになりそうで、大声が怖い健介は涙でぐちゃぐちゃの顔を上げてしゃくりあげて原田に訴えた。
「ケンチケ、〇※Д゛ш~、イイ◆◆、☆фナД」
それを聞いた原田が、泣いている健介に向かって笑いながら残酷な応えを返した。
「無理だ。いい子にしてても俺のところには来られない。お前の家は黄崎区にあるんだ」
そう口にすることで原田は、冷たく健介を切り捨てようとしていた。
ただ、原田の言った言葉は健介は何一つ理解できないので変わらずに原田にしがみついて泣いているだけ。
だから原田は健介にではなく、自分自身にそう言い聞かせただけ。
俺はこの小さいのを引き取ることはできないと確認しただけだった。
「……なんて?」
子供の泣き声に挟まるように君島の呟き声が聞こえたが無視した。
「なんて言ったの?浩一」
しつこくまた訊いてくるので、顔も向けずに応えた。
「……言っただろ。こいつはもうどこかに引き取られていて、養い親がちゃんといるんだ。だから、」
「そうじゃなくて。健介さっき何て言ったの?」
そう訊かれて、原田は訝しげに顔を向けて、応えた。
「……ここは嫌だって。いい子にするから俺の部屋に行きたいって」
さっき健介が泣き声と叫び声とパパ以外の言葉を初めて発したので、そこにいる全員一斉に沈黙していた。
沈黙して健介の言葉を聞いていた。
聞いてはいたのだが、全員その意味は聞き取れていなかった。
単語の一つも汲み取れなかった。幼児の言葉は聞き取りにくいから。
幼児の言葉は親じゃなきゃ聞き取れないものだ。
その誰一人理解できなかった健介の言葉を、原田があっさり汲み取った。
親じゃなければ聞き取れないはずの幼児の言葉を。
誰も聞き取れなかった健介の言葉を、原田が瞬時に理解した。
それほどまでに二人の気持ちは通っている。
例えば親子ほどに。
それを示してしまった。
冷酷に健介を切り捨てようとして、原田は逆に健介への愛情を示してしまった。
実は健介の一方通行ではない。
そこにいる全員、原田の返事でそれを知ってしまった。