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「健介って……」
「まじで?」
『本当に健介?』
「本当に健介?」
「ケンチケ!」
子供がまた右手を上げて名乗った。
「……健介、みたいだよ。パパ」
「誰がパパだ」
「ね、健介」
「あい!」
子供がまた右手を上げていい返事をした。
大人たちはまた沈黙し、頭を抱えたり首を掻いたり天井を見上げたりのそれぞれのポーズで困っていた。
原田は特に困っていた。
名前がわかってしまった。多分本当の名前だ。
施設で職員が呼んでいた名前とは違う。健介とは呼んでいなかった。三文字だったと思う。それとは違う。
きっとこれが、本当の名前だ。
「……健介」
「あい!」
原田が呼ぶと、また元気に手を上げた。
「しかし……、健介なんだ」
『源一郎よりは優しそうだからいいんじゃない?』
『そうかな?』
朱鷺と君島の会話を、子供がまたじっと見上げている。
気付いた朱鷺が、子供の目の前でゆっくりと手話を示した。
ケ・ン・ス・ケ
朱鷺が微笑むと、子供も笑ってその指を掴んだ。
「……可愛い……」
君島がそう呟き、原田を振り向いて訊いた。
「そういえばさっきの話、」
「ん?」
「県知事とかカサイとか言ってたよね?」
「ああ。だから養子とか里子とかそういう決定を、裁判所やら役所やらで多分何段階も、」
原田がそんな説明をしていると、朱鷺が二人を見てまた君島をつついて何かを訊いた。だから君島が原田と会話しながら朱鷺にも手話で応える。
「裁判所?裁判で決めるの?」
「裁判じゃなく認可か何かじゃないか?」
「県知事の?」
「家裁に知事がいるわけじゃないけど、最終的に知事の認め」
「えええええ~~~~~っ?!!!!」
原田が返答をしている最中に、君島が叫んだ。
顔を顰めた原田が文句を言う前に、君島が再度叫んだ。
「朱鷺ちゃんちに行こう!早く!」
「なんだよ、」
「知事がいるんだって!今朱鷺ちゃんちにいるんだって!」
「は?」
「朱鷺ちゃんのパパと県知事が高校の同級生で、たまにお忍びで遊びに来るんだって!」
「お忍び?」
「急げ!その子引き取るんでしょ!」
「待てよ!それは県知事の独断で決められることじゃないぞ!」
「わかってるよそんなの!どこの誰の判断でどうすれば一番早く決まるのか訊けばいいよ!僕らよりよっぽど知識はあるはずだ!」
あ。なるほど。
と、原田は納得しかけた。
が、我に返った。
「いや!待て!俺こいつ引き取るなんて言ってない!」
「え?じゃ、なんでカサイとか県知事とか言ったの?そういうこと調べたんだよね?そんなの一般常識じゃないよ。浩一わざわざ調べたんだよね?」
原田は言葉に詰まった。
そう、君島の言う通り、わざわざ調べた。
「だいたい浩一、すでに誘拐犯だからね。権力者を味方につけておくのは今後有利だと思うよ」
あ。俺犯罪者か。
「早く!その子連れて行くよ!」
君島が原田に命令しながら朱鷺にも手話で何か伝えている。
確かに県の最高権力者に何らかの知恵を授けてもらえる機会ではある。
と考え直して原田も子供に手を伸ばした。
しかし、子供が首を振ってその手を拒んだ。
「どうした?」
原田が驚いて子供に訊くと、子供は首を振りながら、細い声で訴えた。
「たぃ、ない。ない。たぃ」
「痛くしないよ」
「ない?」
「ない」
原田の言葉を聞いた後に、子供は君島を見上げた。
その怯えたような表情を、原田は分析してみる。
多分、君島の甲高い怒鳴り声が怖かったんだろう。早口だしな。
だから多分、朱鷺に怯えない。静かな朱鷺は怖くないんだろう。
「……痛いって、何?」
君島が訊いてきたので、顔も向けずに原田が応えた。
「俺がその言葉しか理解してないだけ。たい、って言うんだ」
「痛いって、何度も言ったってことだね?その子が」
原田が子供を抱き上げ、君島をちらりと見た。
君島が続けた。
「使用頻度が高い言葉なんだね?痛いって言葉が。何度も痛い思いしてるってことだね?」
そう。
案外おしゃべりなこの子供の言葉は、ほぼ全て聞き取れないのに一つだけはっきりと大人に聞き分けさせる。
痛い、という言葉だけ。
痛い、という言葉だけをこの子供ははっきり誰かに訴えてきたということ。
そしてそれを証明するような痕が、背中と手首と足首に残っている。
それが憐れで原田は少し児童福祉関係の調べ物をしてみた。
結果、自分のような立場では何一つできることがない。自分には何の力もない。
それを知っただけだった。