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頭を掻きながらキッチンに向かい、その途中でインターホンの受話器がぶらさがっているのに気付いてそれを戻した。
棚からグラスを取り出し、寝てしまったなぁ、と少し驚きながら原田は冷蔵庫を開ける。
特に眠くもなかったのに、なんで寝たんだろう。そんなことを考えながらグラスに麦茶を注ぐ。おかしいな。寝られるはずはないんだけどな。
と、すっかり君島の存在も忘れてぼんやりと考えていると、当人が慌てて原田を追ってキッチンに来た。
「あっ、あの子ってあの、例のあの子?」
「例のあの子?」
「浩一が、付きまとわれてる子?」
「ああ、そんな話したな」
「その子?」
「うん」
そう応えると、君島がまた絶句した。
その「驚愕」を体現したような目を見開いた表情を見下ろし、原田は若干むかつく。
それほどのことか?
「あ、あ、やっぱ、この場所つきとめちゃったの?!」
「あいつが?無理だろ」
「だ、って、じゃ、なんでいるの?」
「連れてきた」
君島が再度「驚愕」の表情を体現した。
原田は面倒になり顔を顰めて目を逸らす。
「……なんで?連れて?それでどうする気?」
「どうもしない。間違えて連れてきたんだ。寝てるうちに戻す」
「……は?」
いつも通りの冷静な原田の応対で、君島も徐々に落ち着いてきた。
しかしいつも通りのこの冷静な原田が、幼児を誘拐?
君島はやはり驚いたまま問い続ける。
「間違えてって、何を間違えたら子供攫ってきちゃったりするの?」
「んー……」
原田が顔を顰めたまま、首を掻きながら、続けた。
「……ブルゾン返してもらいにバイクで施設まで行ったんだけど、その途中で俺を見つけてあの子供が車道に飛びだしてきた」
時間も場所も前後の流れも状況も一切省いた突然の不親切すぎる短い説明に、君島は想像力を最大限に駆使してついていく。
「トラックに轢かれる寸前だったところをなんとか助けてそれから歩道で二人で座ってて、」
原田はそこで一度言葉を切った。
その沈黙のおかげで君島も一応、トラックに轢かれる寸前の子供を原田が助けた、という様子を想像して、それは中々すごいことだね、と感想まで持った。
君島にそんな時間的余裕を与えるくらいの沈黙の間で、原田が探し出した言葉をやっと口にした。
「歩道で、二人でいて、それがそう、嫌じゃなかった」
そう言って、原田は薄く笑った。
その表情を見て、君島はまた衝撃を受けた。
そんな表情を初めて見たから。
その薄い笑顔は、明らかに寂しげだったから。
寂しい?
怖いじゃなくて?
ついこの前まで明らかに怯えていたはず。
何怖がってんだよ、そんなチビ、と原田を笑ったのは君島だ。
それ以前に、
寂しい?
そんな感情、持ってたの?
浩一が?
と、君島は今日最大の驚愕を覚えた。
俯いて笑んでいる原田を、そのまましばらく愕然と眺めていた。
そんな君島の耳に、カタンと何かが動く音が聞こえた。
後ろで何か。
君島は頭を倒して音のした方に目を向けた。
小さな子供が、椅子の脚を掴んで立っていた。
ずっと驚きっぱなしの君島は、その延長で目を見開いてその子供を見ている。
子供も、新たな大人の登場に目を見開いている。
そして子供が君島の向こうに原田を発見して、何度か見比べた後に君島を大きく迂回して原田の元に駆けて行こうとした。
子供の視線の動きでその目論みに勘付いた君島が、自分に最接近したところでしゃがんでその子供を捕まえた。
子供が絶叫した。
しかし小児病棟を担当したこともあるし通っている少林寺の道場にはこれ以上に癇癪持ちの子供がゴマンといるので君島は慣れている。壁が割れそうな叫び声に構わずあっという間に子供の両手を纏め足を固定し動けないように拘束した。
それでも子供は叫び続けている。涙をボロボロ落として、君島に掴まれていて伸ばせない手をそれでも動かそうとして、君島に抱えられているせいで姿を見ることができない原田を呼び続けている。
パパ、パパ、と叫び続けている。
原田は持っていたグラスを台に置き、騒音の元に向かった。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの子供が原田に気付き、真っ直ぐ見上げてまたパパと呼んだ。
「離せよ、君島」
そう言いながら、子供を縛り付けている君島の太い腕を掴んで解き、子供を抱き上げた。
子供はまだあうあうと泣きながらガタガタ震えながら、原田の首に両腕を回して抱きつく。
「何するんだ」
原田は顔を顰めて君島を見下ろし、そう詰った。
子供も原田に抱きついて涙を零してしゃくりあげながら、君島を見下ろして口を尖らせた。
そして君島は、体育座りをしてその二人を見上げていた。
またしても驚いていた。
多分これが今日の本当に最大の驚愕事件。
原田が泣き喚く子供をなだめてその腕に抱いている。
……浩一が?