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再度子供を車に乗せ、紫田の施設まで走る。
子供は機嫌良さそうに、時々意味不明な言葉を原田に投げかける。
原田は全て意味を汲み取れないので、適当に返事をする。
それがどんな返事でも、子供は必ず嬉しそうに笑う。
原田には、そんなふうに笑っているこの子供が手に負えないということがよく分からない。
自分にはこれだけ懐いているのだから、他にも懐く人間がいるだろうと思っている。
そういう人間が施設とかどこかにいればいいと思う。
一人でも、この子供を笑わせれくれる人がいればいいと思う。
雪の止まない中、施設に着いたのはもう夕食にも遅い時間だった。
ゆっくりと門から中の敷地に入り、車を停めてライトを消す。
まだ子供はご機嫌の様子で、足の手袋を引っ張っている。
原田は運転席から下りて助手席に回り、子供を抱き上げる。
そして助手席のドアを閉め、建物の方を向くと、子供の身体がびくっと固まった。
まぁ寒いからな。どこかに雪でも付いたか。などと考えつつ、急いで中に入るか、と原田は小走りに玄関に向かった。
呼び鈴を押したが、まだ直っていないようで鳴らない。
だからまたドアを開け、中に呼びかけた。
「失礼します、どなたかいらっしゃいませんか」
原田が奥に向かって声を張ると、抱いている子供が首に巻き付けている手にぎゅっと力を込めた。
大きい声が怖いのか?と、子供の顔に目をやると、子供は原田にしがみつき、瞬きもせずにただ目を見開いていた。
なんだ?と原田が子供の頭に手をやると、声が聞こえた。
「はい、なんでしょうか?」
奥から、この前の中年女がゆっくりと出てきた。
「あの、この子供を今日黄崎区で保護したんですが、」
「保護?」
そして原田が身体を回して子供の顔を女に見てもらうと、女は驚いたように名前を言った。
「あらあら!まこと君じゃないの!まぁ、どうしてここに!」
まこと君。そんな名前か。と、原田が子供を見る。しかし子供はもう原田に目を合わせない。
「この子は先日黄崎区のお宅に引き取られたんですよ!どうして、」
「ああ、やっぱりそうなんですか。黄崎区で迷ってたのでこちらにいたお子さんだと思って連れてきたんですが、」
「まぁそうですか!あら、あなた確か、前にも、」
「はい。この近所の現場でこの子を、」
「そうでしたね!まぁまぁ!先方もきっと心配なさってるわね!すぐに連絡しなきゃ!」
女がそう言うなりすぐに奥に向かったが、その途中で立ち止まり、一度振り返った。
「あ!あの、どうぞ!そこの横の面談室に上がってください!」
女はそう言い、奥の部屋に入って行った。
そこのドアや、別のドアから、数名の子供が顔を覗かせて原田を見ていた。
靴を脱いでスリッパを履き、指示された面談室のドアを開ける。電気が点いていないので壁にあるスイッチを一つ押すとさほど明るくない照明が点いた。
小さな部屋で小さなテーブルが一つあり、壁際に小さなソファが置いてある。
原田はそのソファに座ることにした。
そしてそこに腰を掛けると、正面のドアを少し開けて、さっきの子供たちがどっさり集まって顔を覗かせ、こそこそ話をしているのが見えた。
こっちを指差したりくすくす笑ったりしている。
まぁ、自分は珍しい客なんだろうしな、と思いつつ原田は腕に抱いている子供に目を向ける。
子供がやっと原田の目を見て、言った。
「パパ」
それが聞こえたらしく、ドアの隙間から覗いているたくさんの子供たちが、しんと静まった。
原田が顔を上げると、笑みを消した子供たちが全員こっちに注目している。
子供がまた、パパと呼んで原田の首に抱きついた。
「パパじゃないよ」
原田はドアの向こうの子供たちに聞こえるように、はっきりと言った。
俺はパパなんてものじゃない。だからこの子供に嫉妬なんかするな。原田はそう願ったのだが、子供がまたパパと呼んだ。
呼ぶなよ、と子供の頭を押さえる。
ここにいる全員何らかの事情で両親と離れている。きっとそれを連想させる言葉には敏感だろう。
でも俺は親じゃない。羨むようなことじゃない。
そう気付いてもらうために、原田はまたパパじゃないと繰り返したのだが、その願いも空しくドアの向こうから少し年長の子供の声が聞こえた。
「……あいつ、体汚いんだよな。知ってる?」
「知ってる。背中とかに点々がある」
「知ってる。風呂嫌いなんだって。ちゃんと風呂入らないとあんなふうになるって先生言ってた」
「てかあの足見た?手袋とか履いててバカじゃね?」
笑いながら、子供たちは原田の抱く子供を貶め始めた。
子供は残酷だな、と原田は腕の中の子供の片耳を肩で、片耳を手で押さえてやる。
せめて今はそんな言葉を聞かずに済むように。
子供は原田に触れられて、笑っていた。
それからすぐにさっきの職員の女がやってきて、廊下の子供たちに部屋に行きなさいと注意をしてから、部屋に入って来て決定事項を報告してくれた。
「先方にお電話しましたら、向こうではまこと君がいなくなってたことに気付いてなかったようなんです。それで、これからここまで迎えに来ることも難しいそうなので、今日は一晩こちらで預かることになりましたので」
早口でそう言いながら、女が近寄り腕を伸ばし、子供を抱き上げようとした。
子供は絶叫して原田の首にしがみついた。
「あらあら。こんな我がままじゃ、新しいお父さんお母さんに可愛がってもらえないわよ」
女はそう言って、慣れた風に子供の手を一本ずつ原田から引き剥がし、暴れる身体を抱き直し、絶叫すら聞こえないように笑顔で原田に挨拶した。
「本当にありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
パパ、パパと大粒の涙を落として大声で泣き叫んでいる。
どんなに暴れても女の両腕の拘束から逃れられない。
いつまでも原田に腕を伸ばしたまま、子供は連れ去られた。
何度目だろう?
あの子供に、パパと腕を伸ばして泣かれるのは。
原田は開きっぱなしのドアを見ながら考えた。
声はまだ聞こえている。パパ、と叫んでいる。
どうしてこうなんだ。いつまであの子供はこうなんだ。
そんなに難しいことなのか?あの子供を笑わせることが。
原田は一度ため息をつき、ソファから立ち上がった。
すると、ドアの外にいた子供が、わっと散った。
原田はいらいらしているので、ドアを開けてその子供らを一度睨んでから玄関に降りた。
そして玄関ドアを開けようとして振り向くと、また子供らが近寄ってきていたので、いらいらの延長で注意をした。
「あの子供をいじめるなよ。ただじゃおかないからな」
「ただじゃおかないって、何?」
さっき子供の悪口を最初に言いだした年長の子供が、挑むように目を光らせて笑いながら原田に訊いた。
「あの子供に何かあったらお前だと思うからな。その顔覚えておく」
原田がそう即答すると、その子供も間髪入れずに返した。
「覚えておいて。僕の顔、忘れないで」
原田の怒りが、一瞬で冷めた。
その言葉には瞬時に反応できなかった。
その子供の後ろにいる多くの小さな顔にも、一つ一つ目を向けた。
みんな、忘れられた子供だ。どんな事情があろうとも親に手離された子供たちだ。
そんなことに気付かされたら、誰も責められない。
原田はこっそりため息をついてから、その子供に頼んだ。
「いじめるなよ。あいつもお前らと同じ子供だ。あいつも、お前らの顔忘れないぞ」
その言葉に、子供全員沈黙した。
原田はその反応にも、少なからず衝撃を受けた。
こいつらも、あの子供が自分たちと同じ子供だと忘れていたのかも知れない。
自分たちを手離し忘れ去った親たちのように。
あるいは貶めて蔑んでもいい対象だとでも思っていたのかも知れない。
子供たちの返事を聞かずに、原田はドアを開けてそこを立ち去った。
まだ雪は降っている。
車に乗り込み、ハンドルに肘を付き、頭を抱える。
原田が感じているのは無力感。
子供の足の傷痕のことも言い忘れた。