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本格的に冬になり、年を越した。
大晦日には、故郷がなく常に独りの原田を社長一家が熱烈に年越しに誘ったが、原田は頑なに断った。
伊勢神宮までバイクで日の出暴走するので邪魔しないでくださいと理由を言ったが、もちろん嘘だ。
いつもの休日のように寝て起きて仕事の勉強をするだけの、一年365日の中のただの一日を過ごした。
そして君島が本当に仕事を辞め、ヒマになれば原田の部屋に訪れるので時々居留守を使っている。
そんな正月休みも過ぎ、日毎に冷え込み、雪が降るんじゃないかとぼやきたくなるほど寒い日に、担当の新築物件の工事進行具合を確認に向かった。
まだ建築士の資格を持っていないので立場は助手だが、この現場は設計と書類以外はほぼ原田の仕事だ。
街の中では広めの敷地に、庭を広く持ちたい希望の施主のコンパクトな二階建て。庭は家の後に造るので今は工事車両が並ぶ。
棟梁の桃山社長のワンボックスには、車体の横に大きな桃の絵が描いてある。その後ろに原田はバンを停めた。コンビニで調達した差し入れの缶コーヒーを持って足場をくぐった。
「お疲れ様です」
「おお。原田さん。あれ見て」
大黒柱の横に立って、桃山社長が得意気に天井を指差した。
「かっこいいだろ?いやーいい仕事したなぁ」
「……本当に塗ったんですね」
原田は、黒く塗られた二本の梁を見上げた。
元々、天然木の色を生かした無垢色の梁の予定だったのに、内装が出来上がるに従って棟梁がそれに不満を抱いた。
黒にしたい。無垢木の色でも悪くないが、黒の方がこの家のコンセプトにばっちりだ。いやそれしかない。頼むから先生にそう頼んで直した図面持ってきて。そう頼まれて会社に戻りそう伝えたが、上司は一言で却下した。しかし一応上司に許可を取り予想図の梁の色を黒に直して持って行き施主にも見せると、施主は悩んだ。悩む施主を棟梁があっという間に説得した。
「何十年もこの仕事してる俺が保証するよ。ここ無垢の色にしたら、飽きるよ」
その一言で、施主は頷いてしまった。
そして棟梁はさっそく準備に掛かった。
原田は再度施主に確認し、上司に報告し、納得しなかったので棟梁に電話を代わってもらい、最終的に施主にも代わってもらって最終決定を告げてもらった。
施主の希望は、神の声だ。建築士は了承するしかない。それなのにそれ以降、臍を曲げた上司はこの現場に来ていない。
社長と別の意味で大人気ないこの上司に原田は辟易としている。
社長との取引があったのでここに入社はしたが、この上司の下で学べることは多くない気がする。取れる資格は出来る限り取らせてもらって転職しようと原田は目論んでいる。
なにしろ、棟梁の言う通りに、ここの梁は黒で正解だった。
予想よりも木目の残ったマットな墨色。壁が生成りの漆喰。贅沢な和のコントラスト。きっとこの梁が無垢色だったら、家全ての印象に甘えが出ただろう。
「いいだろ?」
「いいですね」
原田の応えに、桃山棟梁は満足気に頷いた。
「じゃ、今後の工程の確認も兼ねて、休憩しますか」
棟梁がそう言って外に向かった。
棟梁も他の大工も原田も喫煙者なので、休憩は建築中建物の中ではしない。天気が良ければ敷地の隅に用意した灰皿を囲んで、悪ければ社長のワゴンの中で会議をする。
幸い今日は晴れているが冷え込んでいて屋外は辛い。灰皿を囲んだ全員が原田の差し入れのホットコーヒーを両手で握っていた。
そして工程会議をしようと言ったくせに棟梁は一向に仕事の話を始めずに、買ったばかりのバイクの自慢話をする。
じじぃのくせにオフロードバイクを嗜み、ヒマになればこのワンボックスをトランポとしてバイクを運び、山や林道を走り回っている。先週末も行ってきたばかりだと、バイクから遠ざかっている原田に嫌がらせのように自慢する。
俺だって春になったらロングに行きますよ、と張り合ったが、今行けないやつが春にいけるか!と笑われた。
会議もせずに職人たちがにぎやかに笑っている中、原田の耳が何かの音を拾った。
ほんの少し気になったが聞き流して、持ってきたバッグから図面や書類を引っ張り出す。
特に相談することも無いが若い大工も含めて全員に今後の確認をしてもらう。
少し離れた場所にいた若いのが、あれ?と言った。
それにも原田は顔を向けなかった。この棟梁はすぐ話が逸れるので短時間集中で突っ込まないと終わらない。
それなのにその棟梁も、話半分に視線を原田の後ろに飛ばして、ん?と言った。
もうすぐ終わるんで聞いてくださいと言ってるのに、棟梁が原田の肩越しに若いのに呼び掛けた。
「なんだそれ?」
その声も終わる前に、叫び声が響いた。
「パパっ!」
すっかり忘れていたのに、一瞬で原田の頭に記憶が蘇った。
ただその声の記憶が蘇っただけで、それが何なのかまではわからなかった。
その声は知っているということだけに気付いた。
それと同時に恐怖も蘇った。
ただその恐怖の正体もよくわからない。
よくわからないまま、振り返った。
すっかり忘れ去っていた恐怖の具現が、原田に向かって走って来ていた。