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翌朝、原田はまた歯ブラシを咥えて天気予報を見ている。
お天気お姉さんは昨日の誤報の謝罪もしないで、今日も一日晴れるとぬかしている。昨日は「明日から崩れる」と言っていたくせに。
もう二度と信用しない。今日は地下鉄で出勤する。
しかしその前に、夕べのバイクの後始末をしなければならない。
昨日は警察から戻ってきてそのまま風呂に入って寝てしまったのだ。
昨日の反省を踏まえて厚手のジャケットを羽織り、バイク用のタオルを何枚か持って部屋を出た。
昨日の雨のせいで所々にぬかるみが出来ている。それを避けながら駐輪所に行き、朝日を反射するバイクに辿り着く。
まだ濡れるボディを拭き、ミラーの乾いた滴の跡を拭く。駐輪所の隅に丸めておいたカバーシートを広げて振って埃を飛ばす。
帰りは雨に降られたけれど、昨日の久々のツーリングで生き返ったような気にはなった。
週末にでもまたこれを出そうか。どうせあのお天気お姉さんの予報なんか当たらない。高速で少し足を伸ばして隣県の峠にでも。
などと考えながらシートのバンドを引っ張ってカバーを絞っていると、後ろから何か音が聞こえた。
何か転がっているような。何かがこっちに向かって転がって来ているような。
一応、振り向いた。
すると、赤いブルゾンが原田に向かって走って来ていた。
原田の古いブルゾンが地を駆けて原田に向かってきている。
水溜りもお構いなしに水しぶきを上げながら突っ走ってくる。
原田は、目を見開いた。
ホラーか?朝っぱらから?こんな晴れた朝っぱらから?
次に、ブルゾンの中からぐしゃぐしゃの髪と小さな顔が覗いた。
同時に叫び声が聞こえた。
「パパ!」
原田は、そこで初めてぞっとした。
さっきのホラー体験よりも段違いの恐怖を覚えた。
そしてそんな風に硬直している原田の足にしがみつき、子供がさらに叫んだ。
「パパ!パパ!」
原田は依然、硬直している。
俺、パパじゃないよ。そんなことすら口にできないほど原田は慄いている。
そこに大人の足音が聞こえ、声が聞こえた。
「ああ、どうも。昨日の、」
顔を上げると、昨日の交番のおまわりさんが子供を追って来ていた。おまわりさんはさすがに水溜りを避けて来る。
「脱走しましてねぇ、交番の周りいくら探してもいないもんですからもしかしてと思ってお宅の住所に来てみたんですよ」
原田は依然、子供にしがみつかれたまま絶句している。
「結局昨日は子供の捜索願は出てませんでね、引き取り手が来なかったもんですから」
「……引き取り手……」
原田がやっと呟いた。
「しかし、本当にこの子、ご存じないんですか?これだけ懐いてるのに。この近辺の子ではないんですか?」
「いや、あの、俺この近所に限らず子供の知り合いはいないです」
「子供の知り合いって、……あなたの子供ってことはないんですよね?」
「ないです」
「ですよねぇ……。自分の子供を近所の交番に届ける親もいないでしょうしねぇ」
おまわりさんがため息をついて頭を掻いた。
「まぁ。あなた昨日この子着替えさせてますよね?だとしたらご存じでしょうが、虐待の痕があるんですね。こんな小さい子にね」
子供がしがみついている足が、子供の体温で温かくなってきた。
「散々痛めつけられて、挙句に捨てられたようです」
おまわりさんはそう言って、子供の腹を両手で掴んで抱き上げた。
原田の足から引き剥がされた子供は、一瞬息を呑み、そして原田の顔を見上げ、それから絶叫した。
おいおい、とおまわりさんは慣れた風に両腕で子供を抱き締め、逃げられないように力を入れる。
子供の叫び声にアパートの部屋のドアや窓が開き、住人がおまわりさんの制服を見て驚いたりまた部屋に引っ込んだりした。
泣き叫びながら、子供は原田に手を伸ばしている。
パパ、パパ、と繰り返して、大粒の涙を落として。
「一応、保護者が見つかるまでこの子はそれなりの施設に行くことになります」
おまわりさんはそう言って、原田を見て頷いた。
「もうお騒がせはしないと思います。それでは」
おまわりさんが踵を返した。
子供は、真っ赤な顔で同じ言葉を繰り返して、見えなくなるまで原田に手を伸ばしていた。
原田も、見えなくなるまでその姿を見送った。
パトカーが立ち去る音が聞こえなくなっても、そこに立っていた。