5
傘を差して部屋を出て、団地の間にある小さな交番に向かう。
子供が起きないようにゆっくり歩いているが、子供を抱いているのでそう寒くはない。
子供は体温が高いんだな、ということと、子供は寝ると重くなるんだな、ということに気付いた。
そんなことを考えながら、みぞれ交じりの雨の中を歩いていた。
そして小さな交番に到着。傘をたたんで壁に立てかけ、引き戸を開けた。
はい、どうしました?と年配のおまわりさんが声を掛けてきた。
迷子みたいです、と原田が応えた。
「迷子?その子?」
「そうみたいです。アパートの自転車小屋にいました」
「アパート?アパートの他の世帯の子供ではないの?」
「独身が多いですし、子供のいる世帯はないです」
「ほぉ。まぁ、お掛け下さい」
やっと椅子を示された。
原田が子供を抱いたまま腰掛けると、奥から若いおまわりさんが出てきた。
迷子らしいんだよ、と年配のおまわりさんに説明されて、机を回り原田の傍に来て寝ている子供の顔を覗きこんだ。
「迷子ですかぁ。そういう届は来てないですよねぇ……」
そう言いながら子供を包んでいるブルゾンをめくる。
「何歳ぐらいですかね?1歳?2歳?」
「歩くんですよね?」
「歩いてましたよ。靴も履いてました」
原田が、子供のシャツと靴を入れた袋を持ち上げて見せる。
「なんかしゃべりました?」
「パパとは言ってましたね」
「パパ?ママじゃなくて?」
「パパでしたね」
「パパねぇ……。やんちゃな子かな?」
「いや、かなり大人しい子供です」
「そうですか。そりゃよかった。じゃあまぁ、預かります」
若いおまわりさんが子供を抱き上げる。
「一応、住所と名前を教えてもらえますか?」
年配のおまわりさんが机に紙とペンを用意した。
「アパートの自転車小屋に?一人でじっとしてたんですかね?」
「ネコ抱いてましたよ。このあたりのボスの大猫」
おまわりさんの質問に原田が書き物をしながら応える。
「ボスっていうと、アンドレ?」
「アンドレです」
さすがおまわりさんも事情通だなと思いながら名前を書く。
そのおまわりさんの後ろのソファに抱いていった子供を下して、確認していた若いおまわりさんの大声が聞こえた。
「なんだこれっ!」
「どうしたっ!」
年配のおまわりさんが振り返り、その子供の姿を見て吹き出した。
「なんだこりゃ!」
顔を上げて大笑いしている二人を見て、次にその奥のソファでブルゾンを脱がされた子供の姿を見て、原田もまた吹き出した。
変な柄のみつばちが寝ている。そうだった。俺がやったんだ。
「どういうことです?これ、原田、さん?」
おまわりさんが笑いながら、原田が紙に書きつけた名前を見てそう訊いた。
「あの、ぐしょ濡れだったので、着替えさせたんですが、着替えがなくて……」
原田も笑いを堪えながら応える。
「着替え?」
「着てたのはこのシャツです」
また靴とシャツの入った袋を持ち上げた。
おまわりさんが、しばらくその袋を凝視して、また原田を見て訊いた。
「……その、靴と一緒に入ってる雑巾みたいなのが、シャツ?これしか着てなかったの?」
「はい。それと紙おむつ履いて、アンドレ抱いてました」
「え?このジャンパーは?これ着てたんでしょ?」
「いえ、それは俺のです。上着は着てないです」
「え?そのシャツ一枚?」
「はい」
「それで自転車小屋?」
「だから、風呂にでも入る前に脱走したのかなと思ったんですが、」
「それなら親が探すでしょ。それに、その靴も履いてたんでしょ?」
「はい」
「こんな子供、一人で靴は履けないでしょ」
「ああ」
おまわりさんが、またゆっくり子供を振り向いた。
「……もしかしたら、連れて来られたのかもね」
原田はおまわりさんの横顔を凝視した。
「こんなに小さい子がこんな恰好でいなくなったら、親は大騒ぎします。とっくに通報があるはずです。いつからその自転車小屋にいたのかわかりませんけど、こんな寒い夜一人で外にいたら命に危険がありますよね」
おまわりさんが原田を向き直った。
「寒くてアンドレを捕まえて抱いてたんでしょうな。とにかく保護していただいてよかったです。ありがとうございます」
「いえ、あの、」
「このジャンパーはお返しした方がいいでしょうな。他に毛布でも掛けますし」
「いえ、どうせ捨てるつもりだったので返してもらわなくてもいいんですが、その、連れて来られたってどういう意味です?」
「まぁそのままです。捨て子です」
予想していたのに、おまわりさんの言葉は重く響いた。
「しかし分かりませんよ。何か事情があるかも知れません。車で移動中にたまたまこの子だけ降りてしまって気付かずに行ってしまったとかね、さきほどの、風呂に入れる前に脱走してまだ親が探してる最中かも知れませんし。とにかく署に問い合わせしますので」
おまわりさんは安心させるように笑った。
「遅い時間にご苦労さまでした」
そう言って立ち上がり、原田に帰宅を促した。
原田も頷き立ち上がり、振り返る前にもう一度子供に目をやった。
その時、子供が目を開いた。
だから原田と目が合った。
途端に子供が身体を起こし、立ち上がろうとした。
しかし大きくもないソファの上なので転げ落ちそうになり、おまわりさんが慌ててそれを庇う。
そのおまわりさんの手に抗い、子供は身体をくねらせながら原田に手を伸ばして叫んだ。
「パパ!」
原田はその声に硬直した。
子供は抱いているおまわりさんの制服を掴み、足を曲げて腹を蹴り、首を振ってその手から逃れようとする。
「パパ!」
子供は顔を赤くして目を見開いて、全身で暴れながらも原田に手を伸ばし叫んでいた。
おいおい全然大人しくないよ、と若いおまわりさんが力づくで子供を抱き締め、手足の攻撃を封じる。
原田に向かって叫び続ける子供の目から涙が落ちた。子供はずっと同じ言葉を叫んでいた。
その騒ぎを収めようとおまわりさんが立ち上がり、子供を抱いて奥へのドアを開けた。
そして子供は精一杯身体を反らせて壁が震える程の絶叫を響かせ、原田に手を伸ばしたままドアの向こうに消えた。
「あなたがパパに似てるんですかね?」
年配のおまわりさんが呟いた。
「そうかも知れませんね」
原田が応えた。
「保護者が見つかるといいんですが……」
「そうですね」
「憐れなもんですね」
原田は返事をしなかった。
憐れだと原田も思ったのだが、違う感情もわずかに生まれていた。
原田はほんの少し、恐怖を覚えていた。
その子供の、自分に対する執着に。