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このあたりではまだ冬とは呼ばない11月なのに、妙に冷え込む朝だった。
原田は歯ブラシを咥えてテレビの天気予報を見ている。
今週末も崩れる予定。今冬は寒さが厳しく雪も早く多めの予想。
今日は夜まで雨の心配はありません。貴重な晴天は有効にご活用くださいとお天気お姉さんが言っている。
貴重な晴天。このまま冬に向かい、コンディションは一層厳しくなるんだなと原田はぼんやり考えた。
なんのコンディションかと言うと、バイクに乗るための気候的コンディション。
今年大学を卒業して就職してからほぼ乗っていない。
時間的な余裕はむしろ学生時代よりもあるのだが、肉体的疲労もないのだが、どうも気が乗らない。バイクに乗るテンションに自分を持って行けない。
環境が変わり、学生から社会人になり、責任と労働の種類も変わる。現場の仕事が好きなのだが、残念ながら原田の仕事は現場仕事ではない。
大学の教授にはこの就職を最後まで反対された。君の能力を無駄にするようなものだと、大学に残れと言われ続けた。
しかし、原田自身研究職よりも現場の方が好きだったし、なにより社長との取引があった。それが原田にとって決定的だった。この就職に是非はないのだ。
だからそれに後悔はしていないというかできないのだが、予想以上に対人の交渉事が多いので気疲れはしている。
そんな中で、現場に行きてぇなぁというささやかな欲望が生まれてそれが解消されささやかに満足し、日々が積み重なりバイクと離れた。
つい半年前までは足代わりにしていたバイクなのに。
このまま、冬なのか?
今日の貴重な晴天を逃せば、もう厳しい冬なのか?
今日の晴天を逃せば?
今日の晴天。
今日。
原田はふとその考えに靡く。
いや、しかし。エンジンが掛からないだろう。
そう続けて考えて少し笑う。
このまま冬眠だ。ろくに乗らないまま。
そう思いながらも、なんとなくキーを持って部屋を出て駐輪所に降りて行った。
確かに雲一つない晴天。その放射冷却で一層冷え込んでいる。羽織ってきたパーカーでは寒くてちょっと後悔する。
そして駐輪所の一番奥に停めてある大型の、被せっぱなしにしてあるシートカバーを剥がし、ハンドルを掴んでキーを突っ込み回して、セルを押す。
キュル、と言ったきり、黙った。
ま、そうだろうな、と一応チョークを引いてみる。
再度セルを押す。
ボン、という爆発音の後に、近所迷惑なほどに大きな音でエンジンが回り出した。
うわ、掛かったよ。と原田は笑った。
チョークを戻してもエンジンは音を立てたまま動き続けている。
乗れって言うのか、と原田はため息をついた。
乗ってなかったからな。悪かったな。と、笑ったままタオルでインパネを拭いた。
しばらく暖機してからエンジンを切って部屋に戻り、出勤準備をする。靴とバッグをタンクバッグに入れる。
会社の作業着の上に冬用ライディングジャケット。久しぶりにヘルメットとグローブを取り出し、久しぶりにライディングシューズを履いた。
そして貴重な晴天を会社までのショートツーリングで有効利用。帰宅する夜も雨の心配はない。
……と、言っただろう?!
と、原田は罵りながら夜のミゾレ交じりの雨の中をずぶ濡れになりバイクを飛ばしていた。
あのお天気お姉さんは能無しなのか?二度とあそこの天気予報は信用しない!
雨だからシールドは開けられないし寒いせいで息で曇る。前が見えないのでスピードも出せない。そもそも雨なのでスピードは出せない。
最悪ではあるが唯一の救いは、革のジャケットを着てこなかったこと。こんな雨に晒されたら台無しだった。寒かったのでダウンジャケットにしたのだ。
まぁ、革を着てきたとしたら、雨が降り出した時点で会社に引き返してた。多分一日ぐらい会社に預けておいただろう。
もし原田がそうしていたら、その後のことも起こらなかった。
口汚く罵り続けてバイクを走らせ、やっと自分のアパートに辿り着いた。
バイクに乗る以上、肌を晒さないようなアイテムで身体を外気から守っているのだが、どうしようもなく隙間から入りこんだ冷たい雨に冷やされる。
早く駐輪所にバイクを突っ込んで部屋に戻って風呂に入ろう。
そう考えながらスピードを落として原田のバイク用に空いているスペースにヘッドライトを向けた。
そこに、その駐輪所の中の狭い原田用スペースの奥に、でかい猫がバンザイをして立っていた。
原田はバイクを停めて、凝視した。