15
四人を室内に案内しながら、榎本が君島に声を掛けた。
「しかし君島君。派手なことしたね」
君島が榎本を見上げる。
「自転車ですか?」
「自転車の前」
「前?カメラ蹴ったこと?」
「そう。さすがに足が上がるね」
「はい。日々鍛錬は欠かさないので。あ、ここ数日欠かしてましたけど」
そんな会話を聞きながら原田は顔を顰める。
一体何の話なんだ。
そして、
この人は俺に一体、どんな話をする気だろう。
当然父のことを持ち出すのだろうけれど。
原田は榎本に目を向けず、そんなことを考えている。
思い出話でもするのかも知れない。
忘れたいこと知られたくないことを話すのかも知れない。
そんなことを考えて憂鬱になっている。
応接室のような体裁の二十畳程のさほど広くもない部屋。奥に置かれた簡易テーブルの上に健介がアパートに置いてきた荷物が並べられている。
宮下刑事が一つ一つ指差して、朱鷺と一緒に健介がそれを確認している。
原田と君島は、榎本の前のソファに座っている。間のテーブルに女性職員がお茶を置いていった。
「この度はお世話になりました。おかげで健介が無事に戻ってきました」
原田が依然榎本に目も向けずに頭を下げる。
榎本は返事をせずに、微笑んだまま原田を見詰めている。
「あ、そうだ。これ、お礼に差し入れです」
君島がそう言って買ってきたばかりのせんべいをテーブルの上に差し出した。
「おお、気を使わせてしまって悪いね。ここのせんべいはみんな好物だよ。じゃ、遠慮なく」
榎本がそう笑って受け取った。
それから、朱鷺と健介に荷物の確認を任せて、宮下刑事が榎本の隣の席に座った。
「どうも。大変でしたね。もう家の前のマスコミはいなくなりました?」
そうにこやかに訊く刑事に、原田は声を抑えて言った。
「宮下さん。少し、訊いてもいいですか?」
原田はそう口にしながら、ちらりと健介に目をやる。それを見て、宮下刑事がわずかに笑んで頷いた。
「はい。犯人のことですね?」
原田が頷いた。
「健介君には聞かれたくないということですね」
原田がまた頷いた。
「では、手短に。質問してください。それに答えます」
奥からは健介の笑い声が聞こえている。
「鷹村の会長は、本当に健介の父親ですか」
原田は、まずそれを訊いた。
「被疑者はそう主張しています。正確な所はDNA検査でもしなければはっきりとはしないでしょうが、そうでないとしたら被疑者もわざわざ健介君を探し出したりはしなかったでしょうから、少なくとも母親がそう確信していたことは間違いないと言えます」
「その、母親がわざわざ健介を探し出した、探し出せた方法っていうのは、何だったんですか」
「それは、」
宮下刑事が言葉を止めて首を振りながら答えた。
「被疑者は、血の繋がった母と子の絆だとか自分の努力の結果だとか言ってるんですが、確かに探し出すまでに結構掛かったようですが、その方法っていうのもほとんどあてずっぽうに健介君と同じ年代の男子に声を掛けただけのことで、それで健介君に辿り着いたことは不幸な偶然としか言いようがないのですが、」
わずかに躊躇ってから、宮下刑事が続けた。
「……自分としては、被疑者が健介君を見つけたことよりも、原田さんが健介君を被疑者に渡したことの方が、どうも納得できない」
原田が首を傾げた。
「いや、その後の様子も知ってますしね、どんなに健介君を心配してたかも高速でどんなに必死に健介君を取り返したのかも見てますしね、原田さんを疑っているというのではないんです。
そりゃ最初はその、事情がさっぱりわからないまま現場に出されて、実の母親と思しき女が養育している男から息子を奪ったっていう名目ですからね、母親が奪われた息子を取り返しただけじゃないのかとかね、考えたわけです。
榎本刑事部長の暴走じゃないかとか茶番じゃないかとか、ずっと疑ってました。健介君を引き取ったいきさつもなんとも嘘臭くて、バイバスで健介君がトランクに入れられたって情報が来るまでは申し訳ないけど半信半疑でした」
確かに、今思い返せばそうだったかも知れない。
自分は健介と血縁もなければ書類上も繋がっていない。
そのせいで事件自体を疑われていたのだ。
それに気付いて原田はいまさら、悪寒を覚える。
警察の力がなければ恐らく健介は取り戻せなかったはずだから。
「しかしその、実の母親である被疑者の健介君に対する仕打ちの冷酷さに比べて、あなたたちは一睡どころか微動だにせずに健介君の情報を待っていた。
文句も言わず泣き言も言わず警官に八つ当たりもせず、一切の飲食もせずにただ待っていた。そして居場所がわかれば躊躇せずに飛び出す。こんな家族は、ここまで冷静で勇気があって判断力のある家族は、そうはいないです。
あんな事件の最中でしたけど、自分たちは実は感動してたんですよ。まだ若いあなたたちがそういう子を、その可哀想な子をそんなふうに大事に育ててきたんだとやっと理解しました。
だからこそ、どうしてそんなにも大事にしている健介君をあんな母親に渡したのかがどうしても、」
「自信が、なかったのかな?」
榎本が、原田を見詰めてそう言った。
「血縁がないことが、健介君への負い目になってたんじゃないのかな?」
負い目?
その言葉の意味が頭に入ってこないので、原田は榎本を見た。
やっと自分の目を見た原田に、榎本は笑いかけた。
「つまり、自分よりもいい親がいるはずだと思っているんだろう?実の親の方が健介君を幸せにできると思ったんだろう」
その通りだ。
そしてこんな結果になった今でもその意識にはあまり変化がない。
健介のいい親になる自信は全くない。
これまで通りにただ傍に置くだけだ。
二度と誰かに渡そうとは思わないが、立派な親になる自信は微塵もない。
そう考えながら原田は顔を顰める。
「心配いらないよ、浩一君。君は頑張らなくてもちゃんと健介君が君を立派なお父さんにしてくれるよ」
「は?」
「健介君を傍に置いてるだけで君はいいお父さんなんだ。難しく考えなくていい」
「……全然、意味がわかりませんが」
「いいんだ。健介君が君を選んだんだから、君は健介君を手離さなければそれでいいんだ」
「……はい」
元々そうするつもりだったし、そうするしかないと思っている。
それでいいだろうとは思っていたけれど、それを他人に保証されるのは、
案外嬉しいものだ。
原田は頷いて目を伏せた。
そして、
この人が強行して捜査本部を作ったのだ。
だから健介は助かった。
原田はそれを噛み締めている。