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始まりはあの道徳の時間だった。
担任の小嶋先生が連れてきた耳の聞こえないおじさん。
生まれつき全然耳が聞こえないのに、そりゃ多少聞こえる人とは違う部分があるけど、上手にしゃべるおじさんだった。
そのおじさんが、4年2組の教室でお話をしてくれた。
11月のあの日がすべての始まりだったと、後で原田健介は思い返す。
「最近は、携帯の、メール機能で、文字で、気持ちを、伝えられるから、若い、人は、あまり、しゃべらない」
「携帯が、ない時も、手話だけで、しゃべらない人も、いた」
「でも、努力、すれば、私のように、しゃべれるんだ」
「まわりの、協力も、あった」
努力
協力
それがなかった、って言うこと?
道徳の授業が終わって拍手でそのおじさんを送り出しながら、健介は橘朱鷺のことを考えていた。
橘朱鷺は父の友人で、耳が聞こえずしゃべらない。
朱鷺ちゃんの努力と、家族やまわりの僕たちの協力がなかったせいで、朱鷺ちゃんはしゃべれないの?
今から間に合うだろうか?朱鷺ちゃんはしゃべれるようになるだろうか?
健介は席を立ち、去っていったおじさんを追いかけた。
小嶋先生と並んで歩いているおじさんに追いつき、まず先生の名前を呼んでおじさんに質問していいか訊いた。
「なんだ?健介。ゆっくりしゃべったらだいたい並木さん口を読むから大丈夫だぞ」
しかし健介は手話を交えて訊いた。
「えっと、僕の知ってる人で、聞こえなくて、しゃべらない人がいるんですけど、大人だけど、これからでもしゃべれるようになりますか?」
並木さんという名前のおじさんは、にこりと笑って頷き、口を開いた。
「大人だと、もっと努力が、必要だけど、できると思うよ」
健介は頷いて、はっきりとお礼を言った。
「ありがとうございました」
それから頭を下げた。
並木さんはニコニコ笑って、立ち去った。
もっと努力が必要。
朱鷺ちゃんはどうしてこれまで努力してこなかったんだろう。
しゃべれるようになるなんて思わなかった。
僕は朱鷺ちゃんの声を聞いたことがない。
朱鷺ちゃんはどうして努力しなかったんだろう。
健介は心の底に少しだけ怒りを覚えた。
努力を怠った朱鷺への怒りと、知らなかった自分への怒り。
だから、その後の帰り道で友達とふざけながら歩いていると車道を挟んだ反対側の歩道を朱鷺が歩いているのに気付いたのに、
健介は無視した。
気付いた朱鷺が笑って大きく手を振ったのに、健介は顔を背けた。
その後朱鷺がどんな顔をしたのか、もちろん健介は知らない。
健介の父は10歳児の親としては若く、朱鷺はその父よりも年下で、小学生の身内としても知り合いとしても半端な年齢差。
しかも朱鷺は栗色の髪を長く伸ばしていて、色白の端正な顔立ちは女性的で美しいのだけれど、それでも女性に間違われないのはその長身のため。
そんな目立つ外見なので、健介の友達も顔見知りだ。
朱鷺とすれ違った後に、今のって健介の友達だったんじゃね?と友達に訊かれたが、それも無視した。
玄関の鍵を開けて健介がドアを開けると、飼い猫のマックスが待っていた。
待っていたが、健介だと分かるとフンと鼻息を吐いて立ち去った。
このブサイクなブチ猫を拾ってきたのは健介だと言うのに、この恩知らずは父にしか懐いていない。