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白天祭 ―迷いし者の行方 4―

 中腰だったのだろう。

 猪の頭部が、建物内へと入る。入り口枠をくぐった頭部が、ぐう、と天井に近づいた。つられて佐倉の目線が上へ、上へと移動した。猪と目が合うことは無い。突き出した犬っ鼻のせいで、佐倉の目には猪の顔全体が良く分からなかったのだ。日ごろ、頑強な男達を見慣れた目を持ってしても、眼前の個体はあまりにも巨体だった。そして何よりも、発散している獣臭が凄まじかった。

 なんていうか、そう。馬糞に顔を突っ込んだ感じというか、ひょうたん池の青緑色の水面に鼻を近づけて嗅いだ感じというか、野性味溢れた香りが鼻腔を盛大にくすぐってきた。爆発するかと思った。鼻腔あたりを爆心地として、後頭部方向から頭蓋骨に収まっているものがすべて吹き飛ぶかと……。


 嗅ぎ慣れない匂いを感じているのは、佐倉だけでは無い。

 凝視していた犬っ鼻が、建物内の空気を嗅ぎ分けるように、ひくり、と動く。

 お椀型にした佐倉の手が、一度静かに、ぺちり、と叩かれた。手中の小さな姐さんが何を言いたいのかは、その一度のぺちりで充分に伝わった。はよ行け、である。フィフィは、さっさと逃げろ、とおっしゃっておられる。その指示に従い、佐倉はおそるおそる後退した。

 上へと進む階段へは、あと半歩後退すれば足をかけられる。

 

 だがすぐさま歩みは停止した。

 猪が動きを追うように、犬っ鼻をこちらへ向けたのだ。

 猪の帽子についた羽飾りがふぁっさふぁさと揺れるのを視界に捉えながら、佐倉はその動きに目を動かさないように注意した。石像であるかのように直立不動。お椀型の手の中で、ぺちり、ぺちり、とその後の展開を危惧するような続けざまの『はよ行け』指示。いや、姐さん、今動くのは自殺行為だと思うんだ――するり、と視界の隅で動く影。ハーヴェスト。思わず佐倉の目は釣られ、男の動きを追う。彼は常では考えられないくらい存在感を消していた。目が合う。口の動きで伝えられた――先に行け。

 とうてい分かるはずの無い口の動きを、佐倉は不思議と読み取った。

 肉食獣が狩りをするような滑らかな動き。異形の巨体の足元で、彼は折れた片刃の剣の切っ先を、地面に垂直に突き刺した。


 どれが合図だったのか。

 地面とともに、お綺麗なブーツを縫いとめた、鋭利な刃の動きか。

 それとも続く獣の咆哮か。

 はたまたフィフィの『はよ行けぺちり指示』三連打か。

 どれが引き金となったのか佐倉自身にも分からなかったが、弾かれたように身体が動く。身を翻し、階段を二段飛ばしで駆け上がる。背後で怒り狂った獣の声。壁が粉砕されるような音。斧だ。おそらく猪男の持っていた武器の音。その破壊音に混じって、ハーヴェストの、子供が遊んでいる時みたいな無邪気な笑い声。佐倉は無我夢中で逃げた。一階で行われている行為のどれが一番恐ろしいのか、判断できなかったのだ。


 階段を駆け上がる。次の踊り場には、扉が開け放たれた部屋があった。逃げなきゃ。佐倉は上へと続く階段に向かおうとして逡巡し、視線を室内へと走らせた。逃げるんじゃなくて、隠れるべき? 隠れる場所を探して、室内を覗きこむ。部屋の内部は、開放的すぎた。窓枠から窓が無くなり、壁が半壊している。穏やかな陽光が差し込む廃墟の一室。隠れられそうな所は何もない。何より――佐倉は室内を覗く頭を引っ込めた。何より、隠れるっていう行為が怖い。この部屋に隠れて、猪頭の巨体が行き過ぎるのを待つ? 見つかって、部屋の入り口を巨体に塞がれたら、逃げ場無しなのに? 怖い。怖すぎる。じっとしているなんて、無理だ。身体を動かして、逃げて逃げて逃げて、走り続けて、死の恐怖を発散させていないと、どうにかなってしまいそうだ。

 佐倉は、再び階段へと足をかけた。

 しかし一段上がるごとに、愚かなことをしているのでは、という別種の恐怖が湧き上がってくる。

 出口。

 自分は今、出口を探しているはずなのだ。

 裏門の出口を探しているはずの人間が、何故、今、階段を上っているのか。再び踊り場。同じような室内。隠れることも叶わず、また階段。塔のような構造。階段を駆け上がり、荒い呼吸。でも、どこまで? どこまで上ればいいの。


 出口って何。


 出口は、今いる場所から外へ出るための出入り口ってことだ。裏門内にいる佐倉は、裏門の外へ出るための出入り口を探しているわけである。外に出たいはずの人間が、階段を上がっているのだ。当たり前のことだけれど、塔の上へと向かっても敷地の外には出られない。今いる塔がどれぐらいの高さがあるのか、佐倉には分からない。だが塔をのぼり続ければ、最後は最上階にたどり着く。それって、行き止まり、ではないのか。最上階にたどり着いてしまったら、引き返すか、もしくは――窓から外へ飛び降りるしかない。再び踊り場に到達し、佐倉は周囲を見渡した。踊り場の壁、踊り場の向こうの室内、階段の壁。幸い、どこの窓も開きっぱなしだ。階段の窓も、踊り場の窓も、部屋の扉も、ここから見える室内の窓もすべて、気持ちいいくらいの全開。バンザイやったね。最上階でなくとも、いつでもどこからでも、フライアウェイできる。


 佐倉は息を整えながら、お椀型にしたままの自分の手を見下ろした。

 見下ろす谷間は絶景――いや、注目すべきはそこではないんだけれども――手を持ち上げ、小さな小さな生物と目線を合わせる。


 ハーヴェストは言った。

 人を相手にしないフィフィが、佐倉を追ってきたのだと。


 フィフィは人に大半間違った情報を授けるんだそうなオチャメな生物だ。

 そうなると、人である佐倉にも間違った情報しか与えてくれないのではないか。 

 その彼女が、今再び、はよ行けとばかりに佐倉の手をぺちりぺちりと叩いている。指し示される方向は、相変わらずの天井方向。人に大半間違った情報を授けるんだそうなイタズラっ子の言い分としては、出口はやっぱり上、らしい。

 佐倉はフィフィに頷いた。

「信用、するからね?」

 信用して、ぺちり指示に従って、上へ向かおう。上に出口があるってどんな状態なんだ、とわめき散らしそうになっても、こらえよう。そんな決意を固める佐倉を、フィフィは宝石のように美しい翠色の瞳で見つめ返してきた。こちらの言った内容が気に入らなかったらしい。す、と半眼にして透かし見るようにこちらを見つめ、その後、む、と蠱惑的な唇を尖らせた。気持ちがおさまらなかったのか、しまいには佐倉の手をデコピンするように指で弾く。まるで、この私を信用しないなんて! とばかりの怒り方だ。あ、うん。ぺちり指示の時よりもさらに、全く、痛くない。でも死ぬかと思った。萌え死ぬかと。

 

 よし、フィフィを信じる。

 

 佐倉は再び階段へと足を向けた。

 そこで階段を数段飛ばしで駆け上がってきた男と鉢合わせた。

 ハーヴェスト。

「怪我は――?」

 思わず掠れた問いかけに、返ってきたのは笑い声。

「内臓をぶちまけたように見えるか?」

 いや断じてそうは見えない。見えてたまるか。そんな怪我人を引き連れて走ったら、誰から逃げているのか、よく分からない構図の出来上がりである。


 珍妙な答えに、佐倉は言葉を詰まらせた。言葉に詰まった分、自分の中に吐き出されない言葉が滞った。あれ、私、今、怪我の心配をした? ハーヴェストの怪我の心配をした?


 なんで、怪我の心配なんてしてるの?


 狼教授と出会ったあの学術と研究のギルド――バルフレア・ハインで、互いに単独行動をすることになった時、佐倉はこの男の身を案じることは無かった。むしろこの男が、周囲の誰かを害するのを自重するように願ったくらいだ。

 佐倉はそのことを思い出し、自分の先ほどの「怪我は――?」という問いかけに、よりいっそう混乱することとなった。そうだ。バルフレア・ハインの時、私、心配なんて全然しなかった。それなのに。――それなのに、今は、この男に怪我がないか、心配した。


 何故、不安に感じたのだろう。

 バルフレア・ハインの時より、状況が緊迫しているから?

 二足歩行の猪なら、ハーヴェストに怪我を負わせることもあるかもしれない、と思ったから?

 いや、でも。混乱する頭の中で必死に感情を整理する。あの巨猪のところにハーヴェストを残して行った時、この男は放っておいても大丈夫だと思ったのだ。絶対、怪我なんてしない。そう思っていた。だから佐倉は階段を上がったのだ。

 

 佐倉は、バルフレア・ハインの時は、この男の心配なんてしていなかった。

 猪男相手でも、ハーヴェストが負けるはず無いって今も思っている。

 それなのに自分の心は、この男が負けるはずない、絶対大丈夫、怪我なんてしないと、自信を持っているのと同時に、無事でありますように、怪我しませんように、怪我したらどうしよう、と心配もしているらしい。

 

 佐倉は顔をしかめた。

 あきらかに……バルフレア・ハインの時と、違う。

 心が、感情が、変化しつつあるのではないか。

 佐倉は怯えた。この感情の変化の兆しを歓迎するわけにはいかなかった。この気持ちを突き詰めていくと、奥底の不都合な感情にぶつかって、すっ転びそうな気がしたのだ。

 奥底の不都合な感情――その感情に落ちると、心はそれ一色になる。わずらって、盲目になって、特定の人物の一挙一動にすべての感情が乱高下のお祭騒ぎ……とても厄介極まりない精神の病だ。


 バルフレア・ハインの時との感情のズレ、ハーヴェストの身を案じること。些細な変化だ。些細な変化だけれども、結びついてはいけないその感情と結びつきそうな気がする。佐倉は恐れ慄き、自分の心にブレーキをかけた。ちょっと待って。その感情とぶち当たるわけにはいかないのだ。そんな気持ちが心の奥底から見つかって、すっ転んでいる場合じゃない。絶対ダメ。だってここは。



 私がいた世界じゃない。



 ここで――この世界でその感情に落ちたら、恐ろしいことになる。

 願い叶うならば、帰る、と決めているのに。

 そうだよ。帰れるならば帰るのだ! こんなわけのわからない場所で、妙な感情を抱え込んでいる場合じゃない! その感情は、抱え込んだら最期、離したくても離すことはできない子泣きジジイやRPGの呪われた装備品ぐらい厄介な感情なのだ。ここでそんな感情にすっ転んだあとで、うちに帰れるって分かったら、抱え込んでしまったその感情、いったいどうすればいいの? 子泣きジジイかRPGの呪われた装備なみにくっついて離れない感情なのに?

 佐倉は必死で、発見してすっ転びそうになった感情を否定した。自分の寝起きする部屋に、私物がほとんど無いのと同様のこと。



 ここに、この世界に、ここに生きている人に、多分に心を傾けてはいけない。



 佐倉は自分の横を通りすぎ、踊り場の向こうの一室を覗き込んだ男の背を見つめた。

 ハーヴェストは、危険だ。

 彼は塔の一階でこう言った。――『今後のお前が、役に立つ存在、役に立たない存在、はたまた害となりうる存在、そのどれに分類されようとも、俺は、お前を引きずって歩くと決めている』

 それは『今後の話』である。

 先の話。未来の話。将来の話。どんな言葉に置き換えてもいいけれど、『今ではない、これから先の話』であることには間違いが無い。

 佐倉にとって、『今ではない、これから先の話』は禁忌の話だ。『今ではない、これから先の話』は、叫びだしたくなるような恐怖を伴う。帰れる? 私、ちゃんと家に帰れる? それとも――このままここで、この世界で老いて死ぬ?

 昨日の本部四階でのムドウ部隊長との話し合いも、今日の本部四階でのアルルカ部隊長との話し合いも、心の拒絶が強すぎて頓挫した。『この世界でのこれからの話』は、今の佐倉にはまだとうてい受け入れることができない。

 そのはずなのに、塔一階でのハーヴェストの言葉に、自分の心はどう反応したか。


 怖い、と感じなかったのだ。


 『この世界でのこれからの話』をされているのに、心は拒絶しなかった。『先の話』をされているのに身構えることなく聞き、しかも過酷そうな内容にも関わらず嫌だとは決して思わなかった。

 それはハーヴェストの使った言葉が、ムドウ部隊長やアルルカ部隊長の使った言葉と違ったせいだ。ムドウ部隊長やアルルカ部隊長の示す将来の話は、具体的で、佐倉自身の行動を促すものだ。この先、佐倉自身がどこの部隊へ行きたいのか。その為に、佐倉自身が何をするのか。まだまだ受け入れることのできない話を、地面に無理やり頭をこすりつけるように突きつけてくる。一方、ハーヴェストの言葉は、同じように未来の話をしていても、向いている方向が異なっていた。『今後のお前が、役に立つ存在、役に立たない存在、はたまた害となりうる存在、そのどれに分類されようとも、俺は、お前を引きずって歩くと決めている』――この言葉、この先の話をしているのに、佐倉自身の行動をほとんど要求していない。彼が、この先、そう行動をする、と宣言をしているのであって、佐倉自身に、この先、ああしろ、こうしろと強いてきてはいないのだ。

 それゆえに佐倉の心は、ハーヴェストの言葉を受け入れやすくなる。

 佐倉が心に幾重にも張り巡らせた防御壁――この世界と一歩距離を置くための壁を、彼は巧みに易々とかい潜り、心へと侵入してしまった。あげくの果てには奥深くで眠っていたこの世界で抱くには厄介極まりない不都合な感情にまで、無遠慮に手を伸ばしかけている。

 佐倉は、自分の心を叱咤した。心の中で発見しそうになったこの世界で抱くには厄介極まりない不都合な感情に囚われている場合じゃない。その感情を掬い上げて、胸に大事に抱いて、ぽうっとこの男にのぼせ上がっていたらどうなるか。そんな自分の様子を冷静に想像し、佐倉は答えを導き出した。


「食われる。のぼせ上がってぽうっとしてたら確実に猪に頭部を食われる……」


 うん。ぽうっとしていたらダメだ! 絶対に、そんなことしている場合じゃない!

 佐倉は、厄介極まりない不都合な感情にすっ転ぶ前に、自ら蹴っ飛ばして心の隅へと追いやった。


 

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