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白天祭 ―迷いし者の行方 3―

 黒色に飲み込まれたら、あとはもう、あやふやだった。

 足裏から、地面を蹴っている感覚が失われた。

 眼球は黒に侵食され、目を開いているのか閉じているのかも分からなくなった。 

 呼吸をする度に、黒色を体内に摂取している気がした。


 全身が空間に溶けていくような感覚に襲われる。


 佐倉は暗闇に怯んだ。それでも足が前に出たのは、隣の男のせいだ。ハーヴェストはこちらの腰にまわした手を離さなかった。全く何も見えないけれど、見えないからこそ、隣の男の存在を痛烈に感じた。

 闇の中でも決して混ざらない強烈な存在感の持ち主は、佐倉が立ち止まることを許さなかった。

 強靭な腕が、問答無用で前へと引きずっていく。

 黒色に身を浸していたのは、ほんの数秒のこと。突然、雲が風に吹かれたかのように、闇が全身から拭い去られた。


 靴裏に硬い感触が戻ってきた。石畳だった。勢いよく蹴る。

 視界が開けた。視界の真ん中は渡り廊下だった。左隅の景色は渋みのある濃緑色。庭。たぶん庭。渡り廊下の横は庭がある。でもゆっくり眺めている暇は無い。緑色はあっという間に流れていく。

 肺が酸素を要求した。佐倉は大口を開けた。取り込んだ空気はひんやりとした冷気を帯びていた。


 全力疾走。腰を掴まれたまま必死で足を動かす。目に飛び込んできたものが、脳内で言葉にかわる。日差し。眩しい。右、壁。煉瓦。壁の亀裂。隅、枯葉。廊下。その先に、開け放たれた扉。壊れかけ。風化しかけている建物。どこ。ここ。いや。その前に。


 フィフィ―――!


 佐倉は自分の足に急ブレーキをかけた。腰を掴む腕のほうが勢いがあった。止まれない。走らされる。ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返し、佐倉はもう一度、棒を川の流れの中に突き刺すように、足を突っぱねた。引きずられる。ばたばたと小幅に足を動かす。だが、地面を蹴るような前進する動きではない。全ての一歩が、その場に止まることを要求する動作につながった。

 失速。

 ついに、足が止まる。

 腕が、腰から離れた。

「ササヅカ新兵部隊員」

 数歩、先へと進んだ男が、振り返ってこちらを見た。

 右手で持っていた刀の鞘を、左手に持ちかえた。

「走ったほうがいい、と俺は思うがな」

 ハーヴェストの口調は忠告といったような感じだった。

 分かってる。分かってますとも! 佐倉はハーヴェストの忠告を肯定した。もう裏門の中だろうし、つまりのんびり歩いている場合じゃないのだ。なんたって裏門の中には、骨の髄までしゃぶりつくす何かがいるわけで、こんな場所でのんびりしているわけにはいかない。走ったほうがいい。ハーヴェストのおっしゃるとおり! 全力疾走、どんと来い! 大賛成! でも、その前に、絶対必要なメンバーがいるでしょう!?


 ハーヴェストはゆっくりと小首を傾げた。

「目で何かを訴えようとしているのは感じるが、俺は他人の機微を察しても踏み倒す性質だ」

「その性質、深く反省したほうがいい、と私は思う」

 全力疾走の影響で、まだ息を継ぎ継ぎであったが、ようやく言葉が口から出た。うん。落ち着こう自分。本当に言いたかったことは、そんなことじゃない。


 佐倉は、ハーヴェストを見つめ、今、走った廊下を指差して主張した。

「フィフィがいない!」

 あの小さな姐さんがいなければ、危険な裏門に突入した意味がないではないか。竜やムドウ部隊長がどこにいるのか、佐倉にもハーヴェストにも分からない。すべては、非常に視力の良いのだそうなフィフィ頼みだったはずなのに。

「なんで役に立たない私を連れてきて、一番重要なフィフィを連れてくるのを忘れるの」

 佐倉は今、走った廊下をさらにさらに強調して指差した。

「本末転倒! 愚の骨頂! ユーは何しに門内へ! お散歩ですかランニングですか門内観光ですか骨髄液の提供ですか!」

「違うな」

「そりゃ違うでしょうよ。むしろ違わなければ困るでしょうよ!?」

 肯定されたら、門の中の骨の髄までしゃぶりつくす何かに、仲良く一緒に骨髄液を提供する羽目になる。

 ハーヴェストが首を振った。

「違う、そうじゃない」

「じゃあ、何が違――」

 背後を指差すその先端に、ふわりと重みが生じた。まるでふわふわと宙に漂っていたものが、その指に止まったかのような重み。そして、ぺちん、と第二関節を叩かれた。佐倉は自分が指差していた背後を見た。


 

 いた。いらっしゃった。光沢すら感じられる黄金色の垂涎の谷間の持ち主が。

 こちらの指にまたがり、麗しのご尊顔をぷくりと膨らませ、こちらの指の第二関節をもう一度叩いた。

 佐倉はぐらりと傾いだ。

 自分の指にまたがり、両手で佐倉の第二関節をぺちぺちと叩く姿。悩殺ものである。まるで、置いていくなんて!と頬を膨らませる姿。悩殺ものである。両腕を前に出すから、二の腕でかっちり挟まれた谷間がさらに麗しい渓谷を作っている。なんなのこの小さな姐さま。女子力の高さに涙出てきた。かたや傭兵ギルドで少年に間違われる身としては、完膚なきまでに叩きのめされた状態だ。美女とはこういう仕草が似合うものなのかと妙に納得しながら、ぼやける視界で顔をあげる。風景もぼやけていた。


 いや、涙のせいでぼやけているわけではなさそうだ。

 渡り廊下が歪んでいる。

 仄暗く、判然としない歪み。

 佐倉たちが通り抜けた暗闇がそこにあった。

 フィフィもそこから追いかけてきてくれたのだろう。

 そして暗闇は、今、緩やかに消失しつつあった。


「一番重要なのは、風の眼じゃない」

 背後から重低音。うなじを親指の腹が撫でた。

 熱源が近づいたのを感じた。

 重低音が耳元に落ちた。

「重要なのは、人を相手にしない風の眼が、追ってくるような存在だ」

 佐倉は歪む渡り廊下から目線を横へとずらした。すぐ横に、男の顔があった。青灰色の瞳に圧倒され、動けなくなる。彼は笑わなかった。笑っていないのに、目線だけでこの男特有の言葉遊びの世界に迷い込んだ気がして、息がうまくできなくなる。



「風の眼に裏門の出口まで案内させろ。それはササヅカ―――お前でなければ、できないことだ」

 


 心臓が大きく拍動した。

 ハーヴェストは、自分を、役に立たない存在だと思ってない。しかも、私にしかできないことがある、と言っている。そんなこと、今までの人生、一度だって無かった。当然だ。20にも満たない子供に成し遂げられることは多くはなく、成し遂げさせようとする人間もまた少ない。


 なんで。

 佐倉は自分の中に湧き上がった感情に困惑した。

 なんでハーヴェストに、重要な存在と思われていることが、こんなにも―――

 

 嬉しくて誇らしく感じるのだろう。



 佐倉の唇が震えた。

 そっと小さな声が出る。

「私が、フィフィを、裏門の出口まで、案内させるの?」

 至近距離。見つめる青灰色の瞳にそう訊ねた。

「風の眼ならば、出口が見つけられる」

「ハーヴェストでは、出口が分からない?」

「出口は見つかる。だが俺では、行きたい場所には辿りつけない」

「私がいれば、行きたい場所に行けると」

「そうだな」

「つまりハーヴェストには、その、私が、必要……?」

 青灰色の瞳が、少しだけ見開かれる。

 うん、何言った。自分。

 佐倉の眼はハーヴェストよりさらに大きく見開かれた。

「いや、うん! ええと! 説得要員として! フィフィの説得要員として、私が必要かどうかを再確認したわけで!」

 なんで、そこに再確認が必要なんだろう。必要じゃない。佐倉は気付いた。この人の口から、ほんの少し、あともうちょっとだけ心地良い言葉を聞きたかったのだ。



 必要だって言って欲しかったのだ。



 ハーヴェストもこちらの感情に気付いた。

 彼は佐倉の感情を笑った。

 すぐ近くにあった彼の身体は、佐倉から少し離れた。

 距離が置かれた、と思った。佐倉はハーヴェストを追わないよう、目をそらした。どうしよう。もう一回、言ってほしいと期待したことに気付かれた。何言ってんだこいつって思われた。ああもう、やだ。


 佐倉は知った。

 心の奥底で常に、必要とされたいと我が侭な自分が喚き散らしていることを。

 それは、無意識下、この場所に来てから、ずっと存在した気持ちだ。

 ずっと、ずっと、誰かに必要としてもらいたかったのだ。

 重要な存在だって、思っていて欲しかったのだ。

 だから、モントールが、アルルカ部隊長の帰還や彼自身が街から去ることを、すぐに話してくれなかったことに気落ちした。蚊帳の外の存在と云われているような気がしたのだ。

 だから、アルルカ部隊長の部屋で、案内カウンターに最後に言われた言葉が、ちょっと心に引っかかっている。

 

 だから―――必要とされて、こんなに嬉しく感じた。



 必要とされたいというのは裏を返せば、相手が必要だと思っていてくれれば、その間は放り投げられることは無いという感情につながる。要するに、捨てられたらどうしよう、この知らない土地で放り出されたらどうしよう、と心の奥底で怖がっていたのだ。あああああ、猛烈に恥ずかしい。捨てないで。頑張るから捨てないで。役に立ってみせるから放り投げないで。って、なんだその謎の思考。卑下しすぎ。不安定な思考回路を突き詰めると、心の奥底で怯える迷子の子供を見つけた気がして居たたまれない。


「確かに、説得要員は必要だ。風の眼は俺には懐かない」

 ハーヴェストは渡り廊下を歩き出した。損傷し、開け放たれたまま扉に向かっている。

 先を歩く男の背に向かって、佐倉は、うん、と返事をした。威勢のいい言葉が出てこない。佐倉は自分の両手をお椀型にしてフィフィを運びながら、視線を落とした。なんでだろう。こちらの望み通り、ハーヴェストは必要だと繰り返してくれた。でも心はちっとも躍らなかった。


 渡り廊下の先の両開きの扉は、間近で見れば片方の蝶番が外れて立てかけてあるだけだった。もう片方は鍵をかけたままなのか、開かない。ハーヴェストが中を覗く。佐倉もそれに続いた。中は狭い踊り場だった。左には上へ繋がる階段。右は下へと繋がる階段。螺旋状、壁伝いに続く階段の先はどうなっているのかここからでは分からない。

 ここに裏門の出口があるんだろうか。

「ササヅカ新兵部隊員」

 ハーヴェストは中を覗きこむ佐倉の横で、同じく中を覗きこんだまま、こちらを呼んだ。佐倉はその時、裏門の出口のことを考えて、しかめっ面の真っ最中だった。そもそも、だ。裏門の出口ってなんぞ。よくよく考えれば、ここ、どこだよ、という話である。裏門の中、広すぎはしないか。どう見ても立派な建造物である。城。かぎりなく城っぽい。グレースフロンティアの本部より、広い気がする。裏門よ、どうなっているんだ。


「今後のお前が、役に立つ存在、役に立たない存在、はたまた害となりうる存在、そのどれに分類されようとも、俺は、お前を引きずって歩くと決めている」

 

 佐倉は内部を覗き込んでいた首をゆっくりと引っ込めた。

 横、さらに上へと顔を向ける。 

「それは……また、なんとも」

 佐倉は一瞬、言葉を詰まらせた。

「一緒に泥の中這い回る予定だったり、引きずって歩かされる予定だったり、ハーヴェストの見据える将来設計が常に苦行チックなのは何故なんだろう」

 悟りか。その苦行を経て、自分は悟りでも開けばいいのか。

 そうか。うん。引きずって歩かされるのか。

 佐倉はハーヴェストを見上げながら思った。そうか。どんなに迷惑をかけようとも、害になろうとも、必要じゃなくても、ハーヴェストは引きずって歩く気でいるらしい。そうか。うん。


 佐倉は再び視線をそらす。

 ハーヴェストは、今後も一緒にいてくれる。

 口がむずむずした。下を向いたら、口角が上がった。真下でこちらを見上げるフィフィが、こちらの表情を見て、何か面白いことがあったのかときょろきょろとあたりを見回した。な、なんでもない。なんでもないから、小さな姐さん。



 その時だ。

 佐倉の両手の中から、きょろきょろと、周囲を見回したフィフィが、びくり、と身体を硬直させた。

 あまりにも不吉な硬直だった。

「―――来たぞ」

 ハーヴェストが短く言い、抜刀する。

 彼は、渡り廊下のほうへと顔を向けている。だから佐倉もそちらを見た。渡り廊下で生じていた仄暗い歪みは消失していた。かわりにそこにいたのは、明らかに異形の者だった。


 長い柄の斧を担ぐ肩が、異常に発達している。逆三角形だ。普通なら、その表現は広い肩幅から引き締まった腰あたりにかけての説明として使われることだろう。今、斧を担いでこちらへ近づいてくる異形の逆三角形は、足先まで含めてだった。発達しすぎた肩幅。厚みのある大胸筋。引き締まった腹部。腰から下は成人一般男性よりも細身で、奇妙なことに白タイツ。王侯貴族の間で流行しそうな洒落た刺繍の入ったブーツを履いている。下半身と上半身が同じ生命なのかを疑いたくなるほど異なっていた。その頭部は、上半身と下半身のアンバランスさと同等に、凄まじく奇妙。紺の帽子につけられた立派な羽根飾りが、異形の者が動くたびに、大きく揺れた。

 その帽子の下の顔は―――猪だった。

 佐倉は呆気に取られて、いびつすぎる存在を眺めた。


 羽根つき帽子の猪顔の上半身異常発達した巨躯が、斧を担いで二足歩行でやってくる。


「あれが例の、大好物は骨の髄っていう人……いや、人、じゃないよね。あれは人じゃないとは思うんだけども」

 なんとも形容しがたい存在だ。

 シルエットが逆三角形で……そう、ハト胸のカメムシみたい。顔は猪だけれども。

「もうすぐ気付かれる―――上へ行くか、下へ行くか決めろ」

 ハーヴェストは建物内へと入って行く。佐倉も慌てて中へと足を踏み入れた。

 上へ行くか。下へ行くか。

 あれ、私、決めていいの。


 佐倉は、階段を見比べた。どちらも行きたくない場合はどうしたらいいのか。できれは地上で、あの異形の者に対処したほうがいい気がする。階段を上がっても、下がっても、追い詰められた時にどうしようもないではないか。

 佐倉は下へと進む階段を見た。下へと進む階段のほうが、上へと進む階段より細い。ハト胸のカメムシ猪はその体躯のせいでこの階段を使えないのではないか。


 渡り廊下で獣の咆哮。猪の鳴き声とはまったく別種の、獅子でもいるのかと思わせるような鳴き声だ。

 気付かれた。

「と、りあえずっ下ーッ!」

 佐倉は叫んだ。ハーヴェストは佐倉の声に瞬時に反応した。こちらの肩を押し、先に下への階段へと促した。今までに無かった獣の臭いが漂ってきた。

 薄暗い階段を、佐倉は駆け下りる。

 駆け下りる佐倉の背後に、ハーヴェストの少し愉しそうな声が届いた。

「ササヅカ新兵部隊員、確認するが、この判断、ちゃんと風の眼に聞いたか?」

 不穏すぎる問いかけだった。佐倉は、ばっと自分のお椀型にしている両手へ目線を落とした。顔面から血の気の引くのを感じた。


 フィフィは、佐倉の両手を叩き、上を指差していたのだ。


「ぎゃあああああ上でした上ーッ!」

 踵を返す。ハーヴェストの背を、三段飛ばしで追う。先ほどの踊り場にたどり着いたところで、ハーヴェストが立ち止まる。勢い余って、佐倉はその背に額をぶつけた。再びの獣の咆哮。先ほど佐倉達が踊り場を覗き込んでいたように、獣が建物内に頭を突っ込んで周囲を見回していた。

「階段へ走れ!」

 鋭い命令。ハーヴェストが片刃の剣を閃かす。狙いは飛び出しているその首か。佐倉は踊り場を突っ切る為に、ハーヴェストの横を潜り抜ける。お椀型の両手からフィフィを落とさないように気をつけながら、横目で異形の者へのハーヴェストの一刀を見た。


 振り下ろされる剣の一閃は、速すぎて見えない。

 がらん、と乾いた音を立てて、それは落ちた。

 佐倉は呆気に取られて、立ち止まる。


 落ちた。

 獣の首が、じゃない。

 落ちたのは、アルルカ部隊長の―――

 佐倉とハーヴェストは顔を見合わせた。

 

 佐倉は口の中に渦巻いていた、うおおおぉぉぉ……といううめき声を漏らした。

「即折れ! 即折れだよ! 一回の使用で壊すとか!」

 佐倉は恐怖を顔面に貼り付け叫んだ。

 ハーヴェストは折れた剣を一瞥し、まるで使えねえな、とばかりの不服そうな舌打ちをした。いや、ちょっと待って。待ちなさいハーヴェスト。それ、借り物だからね!? ハルトの腕を切り落とすぐらい安定した強度を誇る、アルルカ部隊長の持ち物だからね!?

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