白天祭 ―迷いし者の行方 2―
『へえ、フィフィがそこに?』
案内カウンターの声に佐倉は我に返った。や、固まってる場合じゃない。もはや無意味となった通信機の受話器からそっと手を離し、自分の両耳に触れて何度も引っ張る。とりあえず、真正面を見るのを避けた。真正面の男の表情が毒だと思ったのだ。
「昨日、天蜘蛛から連れてきちゃったみたいで」
『モントールとお愉しみ中だった時な』
佐倉は肯定も否定もせず耳を引っ張り続けた。今、目をそらしたのとは別の理由で、真正面が向けない気がしたのは何故だろう。
『なるほど、フィフィねえ。風の眼がいりゃ、確かに間に合うかもな?』
間に合うのだろうか。佐倉は眉根を寄せた。フィフィは目が良い、と皆が云う。部屋を漂っているこの小さな小さな美女様が、ムドウ部隊長と竜を探すことを手伝ってくれたとして、それで問題が全て解決した、と言えるのか。
「フィフィが助けてくれたとしても……」
昼街は広い。
竜なるものが、佐倉と同じように二足歩行する生き物で、体格も同じ程度の大きさしかなくて、移動手段が空を飛ぶことではなく、徒歩だとしたら?
竜が、以前佐倉も利用したあの正体不明の緑色の乗り物で昼街入りしていれば、まだいいほうだ。パルテノン神殿みたいなあの駅は、グレースフロンティア本部からも比較的近い。もしも、だ。もし竜がパルテノン駅を利用せず昼街入りしていたら、どうだろう。――例えば、街同士を分断する長壁に設置された数十の国営門を利用していたとしたら? その門の中でも、昼街でも隅の隅にある32番門だか33番門だか数字も曖昧な門から昼街入りしたとしたら?
昼街でも隅の隅にある32番門だか33番門だか数字も曖昧な国営門に竜がいるとしたら、フィフィが助けてくれたとしても間に合わない。32番門だか33番門だか数字も曖昧な国営門に着く頃には、二時間という時間制限はとうに過ぎ去り、パレードはグレースフロンティアの本部前あたりまで到達していることだろう。
そう考えて佐倉は不安を口にした。
「場所によっては二時間じゃ、間に合わないんじゃない……?」
「歩けばそうなる」
ハーヴェストが肯定した。
歩けばそうなる?
歩く以外の選択肢がこの街にあっただろうか。馬の利用は定められた通り以外では認可されていないし、その通りは、一定のご身分じゃなければ立ち入ることすら許されてない。
「歩く以外の方法を、何か知っているってこと?」
問いは真正面のハーヴェストに向けてだった。だが、背後の通信機から、おい、と制止の声がかかった。
『その方法しかねえってのは分かってる。が、その方法は、聞いていい奴といけない奴の線引きがあったはずだ』
その言葉で、佐倉はハーヴェスト達が『歩かない』何らかの方法を持っていることを知った。そして聞いてはいけないのは、間違いなく自分だった。新兵部隊員だからか。うん。どうしよう。部屋を出るべきか。
戸惑うこちらを青灰色の瞳が見下ろした。
「今からやることは忘れると言え」
え、それでいいの。
迷って彷徨う視線は、真正面の視線に絡めとられる。
「イ、今カラヤルコトハ忘レマス……」
心を全くこめずに繰り返すこととなった。
「と、いうことだ。問題ない」
ハーヴェストの宣言。
本当にいいのそれで!?
『よくねえだろ!』
爆笑が背中から返ってきた。あ、良かった。やっぱりよろしくないようだ。
『俺たちがそれでよくとも』
「いいんだそれで……」
『それじゃあ門番が納得しねえ。門番が納得しなけりゃ、扉を通れない』
―――門番。
佐倉は考えを巡らせた。門番、なんていたっけ? グレースフロンティアの表門、獅子門に門番がいたことはない。表門は施錠されておらず年中無休四六時中、開放されている。獅子門裏手の医務棟側の出入り口にも門番がいたことはない。どこを守ってるんだ門番よ。すると、『どこにいるのか分からない門番』のことから、自然と『どこにあるのか分からない門』の話を思い出した。
グレースフロンティアには、どこにあるのか、そもそもあるんだかないんだかもはっきりしていない門がある。昨日、四階で部隊長クラスと鉢合わせたらどうしようと怖気づく佐倉に向かって、病的に細い先輩隊員が言ったのだ。グレースフロンティアの上層部は、どこにあるのか不明の出入り口を使っているらしい、と。
「門番って、裏門の?」
『噂、聞いてんのか?』
「あ、はい。なんとなく」
佐倉は間横に顔を向けた。
「あるんですか、裏門?」
そこに、グレースフロンティアの上層部のひとり、外遊部隊長がいらっしゃる。
裏門があるならば、間違いなく使用しているであろう人だった。
「ある」
アルルカ部隊長の肯定は絶大だった。佐倉はすぐに外遊部隊長の言葉を信じた。
あるんだそうな。裏門。
「だがこの事態が収拾された後は、存在を信じてもいいが使ったことは忘れなさい」
アルルカ部隊長の忠告の後、案内カウンターの言葉が続く。
『裏門は便利すぎるんだ。ヒトって弱えだろ。便利なら使いたくなるし、使い続けたくなるし、裏門はいいもんを見せてくれるもんだから、ついつい見たくなって、依存して、中毒になって、それしか考えられなくなって、こうなった奴は扉の中のもんに魂を奪われて、骨の髄までしゃぶられて、戻ってくるものは何もねえ』
「……へえ」
案内カウンターの親切な忠告の後半部分は、耳の奥に到達せずにこぼれ落ちた。
うん、骨の髄……?
『門番は、扉の中がオイタをしすぎてヒトをすり潰さないように見張る監視者ってわけだ。門番は決められたルールを遵守してる。門番は、裏門のルールに異常に忠実だ。決められたヒト以外は扉の中を案内しない。つまり、ササヅカ、お前は決められたルール内に存在しないから、門番が裏門を通しちゃくれねえってことだ―――どうするつもりだ?』
通信機の質問は、佐倉の眼前の男への質問だ。
ハーヴェストはさして考えたふうもなく答えた。
「門番に黙って、裏門を使えばいい」
佐倉は顔をしかめた。
「今、裏門のルールに異常に忠実な門番さんが、一生懸命、遵守してきたルールとやらが、蹴り倒されたような……」
『その裏門のルールを守ってきたのは門番だけじゃねえぞ。俺達、使用者だって同じだ。数十年、このルールを真面目に、ひたすら真面目に遵守してきたわけだ。おい、このなんとも言えねえ気持ちをよ、どう表現したらいいんだろうな? 俺はあのめんどくせえ性格の門番なしで裏門を安全に使う方法があるなら、あの門番、即刻クビにしたいんだが』
「門番がいなくとも、裏門は開けられる。開けられれば、問題はないだろう?」
『そりゃ裏門は開けられるだろうよ。だが門番を通さずに裏門を開けたら、生きて戻ってこられねえだろ。行き先の扉が見あたらねえだろうし、門番以外は中のものに対処できねえ。お前、門番なしで使ったこと、あるのか?』
「何度か」
『一度じゃねえのか。何度もか。俺の門番クビ説を肯定してんのか。それで、中のものにどう対処した?』
「別に、たいしたことは無い」
佐倉は顔をさらにしかめた。
「今の、たいしたことは無いは、本当にたいしたことが無い……?」
『ササヅカ、よく気付いたな。そのたいしたこと無いは、常人のたいしたことオオアリだと思っていい』
やっぱりか。
これ、やっぱりダメなやつか。
裏門を使うと、徒歩二時間以上の距離が、二時間内で行けるようになるらしい。もはやこの時点で、佐倉が想像できる裏門は、耳無し猫型ロボットが腹のポケットから取り出す、ピンク色のあの扉のようなものでしかない。例の、どこでも行けちゃうドアである。裏門が、あのドアのようにどこでもいけるかどうかは分からないが、徒歩二時間以上の距離を二時間内におさめる力があるとすれば、裏門は非常に便利な代物だ。ただ扉の中には、魂を奪い、骨の髄までしゃぶる何かが、いるらしいけれども。
門番に会わずに裏門を使うのは、この扉の中の、魂を奪って骨の髄までしゃぶる何かとのご対面を意味するのだろう。つまり、裏門の便利さに依存して帰ってこられなくなった人達と同じってことだ。命の危険を伴う裏門の使用方法が恐ろしい。できるだけ安全に裏門を使わせてもらいたいけれど、どうしたらいいんだろう。
『まあ、別にササヅカを連れていかなきゃいいんだよな』
通信機が言った。
『必要なのはフィフィであって、ササヅカじゃねえんだから、ササヅカをそこに置いていけば、門番は裏門を安全に使わせてくれるわけだろ』
両耳を両手で触りながら考え込んでいた佐倉は、背後の通信機の言葉に目を瞬かせた。まともな意見だった。まずそのことに驚いた。
確かに案内カウンターの言う通りだ。必要なのはフィフィであって、自分ではない。別に自分が無理して着いていく必要はない。なんで当たり前のように、着いていくつもりで考えていたんだろう。ちょっと自分にびっくりだ。自分がいないことで裏門が安全に使えるなら、それに越したことはない。別のことで役立てることもあるはずだ。例えば、ハーヴェストがフィフィを連れて裏門を使って竜を探しに行っている間に、自分はムドウ部隊長を探しに街に出ればいい。見つかるかどうかは分からないが、まだ本部からそれほど遠くへは行っていないはずだ。
うん、そうしよう―――と、決意した瞬間、耳から両手が離れた。
両手首が、掴まれていた。
真正面の男に。
「門番は今どこにいる?」
『門番は、今朝、牢番長に会いに行くって騒いでたな。門や牢を見張ることの重要性を熱く語り合ってくると張り切っていた』
「つまり裏門は誰も見ていない。決行するなら今だな」
佐倉は腕を引っ張られて、慌てて一歩足を前へと踏み出した。え、え、ちょっと。
「あれ、結局一緒に行くんだ!?」
と、いうことは門番よ、門や牢を見張ることの重要性を牢番長と熱く語り合っている場合じゃない。今まさに、熱く語り合っている自分が守るべきその門が、門破りされそうな状況だ!
『なーんで、面倒くせえほうを選ぶかねえお前!』
通信機から笑い声。背後からそんな笑い声がかかる頃には、両手首を掴まれて2歩、片手を離され、連行されて1歩めを踏み出していた。
『ササヅカ連れていって何になる。ただのガキだ。ただのヒトだ。ただの新兵部隊員だ。何の才能もねえ非力な―――』
こちらの腕を掴んでいる男の哄笑が、通信機の声を遮った。
掴まれた手首に、ぐ、と力が込められる。
「切れ、外遊!」
まるで今までの穏やかな空気を切り裂くように、一声。
鋭い声に立ちすくむ。怖い圧迫感に逃げ出したい衝動に駆られたが、手首を掴まれたままだった。引き寄せられ、再び一歩。救いを求めるように背後を見やれば、アルルカ部隊長が受話器を通信機本体へと戻すところだった。案内カウンター、強制退場。通信機は沈黙した。
「得物を」
ハーヴェストが部屋を横断しながら、アルルカ部隊長に言葉を投げた。
「片刃でも良ければ」
「構わない」
「嵐姫に接触した一振りが手入れから戻ってきていたが、それでも?」
淡々とした呟きに、ハーヴェストが部屋の扉を閉めながら笑った。
「良い物を貸すと後悔するぞ。俺は片刃をたいてい折る」
壊す気満々の借りる人って、いかがなものか。いや、何も言わずに貸した後、壊されるより良心的か。いや、まずは壊さない努力をしたほうが……。そもそもだ。そもそもハーヴェストが武器を携帯している所を、佐倉は見たことがない。この人、まさかいつでもこうやって人から武器を借りてその場を凌いでいるんじゃなかろうな。
佐倉の疑惑の目も気にせず、ハーヴェストは閉めた扉を叩いた。
どん、どん、と二度。
佐倉は眼前の閉まっている扉をまじまじと見つめた。
あれ、あの、これ、今、何してるとこ?
疑問の答えは、叩かれた扉からだった。
トン、と内側から、小さな小さな音が、した。
「これを」
背後でアルルカ部隊長の声。隣のハーヴェストが佐倉から手を離し、声をかけてきた男のほうへと身体を向けた。ちょっと、待って。この状態でこの扉から目を離していいのか。佐倉は誰もいないはずの部屋からのノック返しに、目を離せずにいた。目が離せなかったから、気付いてしまったのだ。
ドアノブが、ぎこちなく緩やかに回る瞬間に。
「……これ、嵐姫と接触した一振りじゃねえだろ」
「前後の話を加味したうえで、こちらに切り替えたまで」
「最近、使っていたやつだよな」
「嵐姫の一刀は刀身がやや細身、こちらのほうが貴殿の使い方でも折れはしない」
「どれくらいのもんが切れる」
「人形の腕ぐらいは切り落とせる一振りゆえ、ある程度は斬れるかと」
「むしろ昔見た曲刀に興味があるんだが」
「あれは駄目です」
「俄然、借りたくなってきた」
「断る」
……男ども、何をノンキに刀談議をしているのか。
佐倉は恐怖で目を見開き、眼前の扉を凝視していた。大人の野郎どもが話に夢中になっている間に、扉のドアノブが回りきった。きぃ、という軋んだ扉の動き。佐倉は、その隙間から何かが飛び出してくるのではないかと緊張し続け、ドアノブ周辺をじっと見つめ……視界の端、扉の上部で何かが揺れ動いているのに気付いて、飛び上がらんばかりに驚き全身を硬直させた。
戸板の上、開けられたほんのわずかの隙間から、ぬ、と現れたのは赤黒い女の手だった。なぜ女性と思ったか。皮膚剥いだようなグロテスクな指先に、それはそれは美しいネイルが施されていたのだ。五指全てに淡いピンクと白のローズ、そのうえ中指には大きな白蝶まで施された圧巻の3Dネイルである。盛りに盛った乙女チックな3Dネイルと生皮剥いだような赤黒い皮膚のギャップの凄まじさ。ファンタジーなのか、ホラーなのか、いまいち判断につきかねる。ただどんなジャンルに分類したとしても、扉の上の隙間から登場した指は、間違いなく佐倉の目を釘付けにする代物だった。
「外遊はここで待機だな」
まるで死後何十時間も経った関節を無理やり動かすように、ぎちぎちと痙攣を繰り返しながら、女の指が扉の上部を掴む。女の中指が持ち上がる。激しい痙攣を伴った。中指に施された白蝶も揺れ、まるで暴風の中のローズ一輪にとまった蝶が、必死に風に耐えているかのようだった。
中指の震えがぴたりと止む。
蝶が身体を休める中指が振り下ろされた。
「そういうわけには」
トンと戸板が叩かれる。すると振動で、ぼろり、と中指の蝶が剥げ落ちた。
ひ、と佐倉の喉が張り付いた。
蝶が落ちた。指から。一輪のローズとともに。中指の「爪」も引き連れて。
爪も蝶と一緒に落ちていく―――
「今の外遊の状態は、竜に食えと身体差し出すのと同じ―――」
「ぃいいいいいいいいっ」
ひ、は口の中に飲み込まれたままだったから珍妙な声が部屋中に響き渡った。隣の男の服に縋りつこうとした指が、布に触れずに皮膚に触れた。なんで肌。服、着てないからに決まってる。縋りつこうとした指を熱源に触れたかのように瞬時に引き剥がした。縋りついて抑えようとした戦慄にも、隣が見事な半裸だったという忘れかけていた事実にも、一人で対処するしかなくなって、佐倉は両耳を引っ張りながら飛び跳ね始めた。
首を巡らし、まじまじとこちらを見つめる青灰色の瞳。
「ササヅカ新兵部隊員」
彼は興味そそられたように、飛び跳ねるこちらを呼んだ。
「何をしている所だ」
佐倉を真似て、自分の両耳を抑えてみせる。
ホラーな指のせいで青くなっているんだか、自分の指が触れた場所のせいで赤くなっているんだかよく分からないまま、佐倉は両耳を抑えて飛び跳ね叫んだ。
「怖さを、打ち消すのは、身体を動かすのが、一番と言いますか! むしろ逆に、聞きたいんですけれども、この、この爪、この指、いったい、何!?」
「爪……?」
ハーヴェストの意識がようやく扉に戻った。この人、自らノックしておいて、あとはガン無視だったから、このホラーな扉に全然気付いてなかったに違いない。彼は、視線を投げ、ああ、と言った。ああ……? ああ、で済む問題ではない。佐倉は飛び跳ねながら、反射的にもう一度、扉を見た。見ちゃった。ぴたりと動きを止め、自分の行為を激しく後悔した。ハーヴェストの何でもなさそうな、ああ、に釣られて、まともに真正面からホラーな扉に目を向けちゃった……!
目を向けた扉の前で、ひらり、と白蝶が舞っていた。それはホラーな指先にいたはずの蝶に酷似していた。蝶はひらりひらりと舞った後、扉に止まる。すると白蝶の姿は曖昧にぼやけた。まるで温かい紅茶にいれる角砂糖のように扉の中へと溶けていく。霧散した白蝶のかわりに現れたのは、戸板上部の爪の色と一致する淡いピンクと白の掛時計だった。「12」の位置に短針と長針が合わさり、動いている気配は無い。
ハーヴェストの手が無造作に扉に伸びた。
時計の「1」に指が触れた。がちり、と長針が反時計周りに一秒分動いた。もう一度「1」に触れる。がちり、と長針が一秒分、同様の動き。続いて「2」。がちり。がちり。もう一度「2」。がちり。がちり。次は「3」。がちり。がちり。がちり。次は「9」がちり。がちり。がちり。がちり。がちり。がちり。がちり。がちり。がちり。「3」……
暗証番号、という言葉が浮かんで、佐倉は慌てて目線を外した。門を開けるための、大事な数字。今回限りで裏門のことを忘れなければならない佐倉にとっては、見てはいけないものだ。慌てて外した視線の行き先は、隣の男の横顔だった。視線に気付いたのか、彼もまたこちらを見た。
青灰色の目が、こちらを見て、こちらの行為の意図に気付いて、眇められた。
「11223939156425251059」
ハーヴェストが言った。
そしていい笑顔をこちらに向けた。
「覚えやすいだろ?」
問われて佐倉は呆気に取られた。
「いや、全然覚えやすくはないし、その番号はむしろ覚えちゃいけないわけで……」
「―――いい夫婦、さくさく、人殺し、にこにこ、投獄」
「覚えちゃった……! ちょ、バカ、なんで教えてんの、覚えちゃった……!!」
強烈に個性のある数字羅列は、脳裏にしっかりこびりついた。いやいやいや、覚えちゃいけない数字なのに。佐倉は涙まじりに懸命に忘れようとした。ハーヴェストが扉の数字に触れる。あ、今のとこ、「投獄」の「10」だね!
完璧に覚えたことを再確認し悶絶する佐倉の横で、要らないことを教え込んだ男は隙間分開いていた扉を閉めた。再びドアノブをまわす。
腰に、腕が回され、引き寄せられた。
触れた腹筋の感触と、包み込まれるような体温、その手に持つ刀一振りに、佐倉は身体を硬直させた。
「これで、用意は整った」
扉が勢いよく開かれた。
開かれたはずなのに、中は何も見えなかった。
黒かった。
中は、黒一色。
塗りつぶされたような黒だけしか無い。
怖い。佐倉は本能的に逃げ出そうともがいた。腰をまわった腕は、びくともしない。青灰色の瞳が、こちらを覗き込むように見下ろした。獰猛な笑みが浮かんでいる。
「では、泥の中を共に這い回りに行こうか――ササヅカ新兵部隊員」
強制的な一歩が踏み出された。
佐倉は黒い扉の中へと引きずりこまれながら叫んだ。
「いやいやいや用意整って無いでしょ全然整ってない……!」
身体が黒に呑み込まれる。
「用意全然……! まず服を着……! ……ハーヴェスト、大事なことを忘れ……! ちょ、フィフィがいねえええええええ!」