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白天祭 ―寝台にて 6―

 くい、と服を引っ張ってくる指先を、佐倉は身じろぎひとつできずに――まるで数時間、いや数ヶ月間、思考停止状態に陥ったみたいに、ただただ眺めた。

 佐倉の着ている服を引っ張るこの指先の持ち主は、いったい何とおっしゃられましたこと……?


 こちらの服を指で引っ張る男――ハーヴェストは、そうだ、こう言ったのだ。


 脱いだらどうか、と。

 お前も脱いだらどうか、と。

 崇拝すべき部屋の主が半裸なのだから、お前も脱げ、と。

 

 指先の持ち主の言っている言葉が頭の中で意味を成す。

 佐倉は洋服を弄ぶ指を見つめた。

 自分とは違う骨張って硬い大きな手を、佐倉はよく知っている。

 

 この指先が洋服に接触している時は、『駄目』だ。

  

 以前この指が洋服に触れた時、どうなったか。幸いなことに、佐倉の記憶にはあの時の衝撃が薄れることなく鮮明に残っていた。夕街。バルフレア・ハイン。教授と呼ばれる大きな狼がいた部屋。両手が動かせない状態で、この指が、しかも左手が、佐倉の服に触れた時。

 剥かれかけたのだ。つるんと。ゆで卵の殻を片手で剥きますみたいな器用さで。

 あんな妙技を炸裂させる指を、自分の服のそばで自由にさせていてはならない。

 佐倉はハーヴェストの指を勢いよく両手で掴んだ。そして息を吸った。肺に空気をこれでもかというほど溜め込む。この溜め込んだ空気を使って、ハーヴェストに向かってまくしたてようとして―――


 覗き込む青灰色の瞳と目が合った。

 瞬間、力が抜けた。

 何の言葉も吐き出さず、ただ息だけを吐き出す結果となった。


 叫んではいけない。


 佐倉は悟った。このタイミングでハーヴェストに食ってかかっても、それは単に悦ばすだけだ。この男は言葉遊びが大好きだ。ノー、と抵抗されるとその青灰色の瞳が愉しげに輝くのを何度、目にしてきたことか。今だってそう。このタイミングでこちらが大騒ぎしたとして……どうなる?


 頭の中で、紆余曲折すったもんだの末にベッドに組み敷かれ、アルルカ部隊長の腕を必死に掴んで助けを求めている自分が思い浮かんだ。何故そうなった想像上の自分……!


 佐倉は恐ろしい未来に身震いした。強く強く己に言い聞かせる。冷静になろう。ぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃなくて、賢く振舞わなければ。冷静に。冷静に。口の中で念仏のように唱えれば、それなりに効果はあった。


 佐倉は、ハーヴェストの指を自分の洋服から、静かに、引き離した。

 その後、慎重に自分の手をハーヴェストの手から離した。

 佐倉は様子を窺うように、青灰色の瞳を観察した。

 面白がる様子も、怒らせた様子も無かった。今の佐倉の対応の仕方を吟味しているようにも見えた。そんな相手の様子に、佐倉はある答えを得た。分かった、かもしれない。そうか。この難しい男の掌の上で転がらずに済むには、こういう対応をしなければならなかったのだ。抵抗するとか、反抗するとか、頭がおかしいと騒ぎたてるとか、そんな対応ではいけなかったのだ。


 ハーヴェストと接する時の基本はこの三つだ―――ハーヴェストは頭がおかしいという主張を強く押し出さない、ハーヴェストの前でドタバタ駆けずりまわらない、ハーヴェストに向かってぎゃあぎゃあ喋りたてない。


 つまり、ハーヴェスト対策方法を合言葉で表すならば、『オ・カ・シ』である。

 小学生時代に学ぶ避難訓練の合言葉、『押さない、駆けない、喋らない』だ。

 まさか避難訓練の合言葉がこの世界では対人対策として活用されることになろうとは。―――ハーヴェストは頭がおかしいという主張を強く『押し出さない』、ハーヴェストの前でドタバタ『駆けずりまわらない』、ハーヴェストに向かってぎゃあぎゃあ『喋りたてない』。おおぅ、見事にオカシだ。なんか避難訓練の合言葉の内容より61字くらい合言葉の内容が長くなっているけど、そこを気にしたら負けだ。うん、見事にオカシ!

 佐倉は咳払いをし、もう一度、冷静に、口の中で呟いた。

 ハーヴェストと会話をするときは、『オ・カ・シ』。とにかく、冷静に。気が動転すれば相手の思うツボ―――



「なんだ、脱がないのか」

 脱がないのか?

 その言葉に、佐倉は冷静という単語が蹴っ飛ばされた気分を味わった。

 脱がないのか?

 ハーヴェストを見つめれば、先ほど手を離した時と同じように、何の表情も浮かべてはいなかった。そう、面白がってもないし、怒ってもない。つまり『至極当然』という顔をしている。

 至極当然という顔で異性に向かって、”なんだ、脱がないのか”という発言をするのは、いったいどういう意味なのか。

 佐倉は頭の中で蹴っ飛ばされて見失った単語を探した。頭の中でようやくその単語を見つけた時には、その言葉に必死にしがみついた。冷静に。冷静に。『オカシ』の合言葉を忘れるな。


「脱ぎません脱ぐわけないですここで脱ぐのは間違ってます」

 おおー! 自分に感動。見よこの悪徳セールスも寄せ付けないであろう完璧なお断り文句!

 ほらハーヴェストの追撃が無い。やっぱり、『オカシ』はハーヴェスト対策としてかなり使えるってことだ。

 ハーヴェストは視線を外した。


 しばらくして彼は、こう呟いた。

「なんだ、脱がないのか……」


 これはいったいどういうことか。佐倉は我が目を疑った。しょんぼりして見える。ハーヴェストが、しょんぼりして見える。威圧感を自由自在に出せる人は、しょんぼり空気まで自由自在に出せるらしい。しかもこのしょんぼりハーヴェストを見ていると、な、なんでだろう。罪悪感がずきゅん、と胸を打つ。いや、うん、なんでこっちが悪いみたいな気になってるんだろう。間違ってる。絶対間違ってる。 


「ぬ、脱ぐわけない、でしょ……?」

 ケツに疑問符がついたのは、相手が当たり前のように脱衣を推奨して、しかも大人の対応で断ったら、間違いなく大人であるはずの人がしょんぼり空気になったからだ。え、もしかしてこれ、脱ぐのが正解なのか。尊敬すべき部屋の主が脱いでいたら、異性だろうが同性だろうが問答無用で部屋の主に従って真っ裸になれ、が正解?



 佐倉は助けを求めるように、視線を漂わせた。

 ベッドの横に腰掛ける半裸の部屋の主は、佐倉にとって、誰よりも正しい道徳心を体現している人だ。この御方なら佐倉とハーヴェスト、どちらが常識があるのかきちんと説明をしてくれるに違いない。脱ぐが正解か、脱がざるが正解か、アルルカ部隊長ならきちっと説明してくれる。もちろんこの眼前のしょんぼり空気を醸し出す人に向かって、脱ぐのは不正解だ、と懇切丁寧きちんと指導してくれるはず。


 期待をこめ、半裸の部屋の主を見た瞬間、佐倉は、自分の中の冷静という単語に、再び攻撃を加えられそうな気がした。ベッドの縁に腰かけた御方は、半分程度こちらへとその逞しい戦士の身体を向けていた。その表情が―――


「ア、アルルカ部隊長……」

 この顔は見たことがある。倫理や道徳というものから、激しくかけ離れたアルルカ部隊長のこの表情。ぼう、と黒い瞳が濡れたように紗がかかった様子。それはまさしくこの部屋で、佐倉をベッドの上に転がした人の顔だった。

 

 佐倉がアルルカ部隊長のほうを向いたことで、同じ色の瞳が絡みあった。目が合うと、アルルカ部隊長は顔を歪めた。苦しそうに、ゆっくりと顔を背け、半分こちらへと向けていた身体を戻し、完全に背を向けてしまう。その背中は、何かの痛みに耐えるように、筋肉を硬直させていた。

 どこか怪我でもしているのか。

「ササヅカ隊員」

 噛み締める奥歯の隙間から絞りだされるように呼ばれる。

「すまない。誤認していることは重々承知している」

「ごに、ん?」

「分かってはいるのだ。理解しているはずなのだ。常であればこんなこと考えるわけもない。だが、すまない。私は今―――熱に、浮かされた状態だ。箍の外れた私の目が、君という存在を冒涜しているのだ。私には、君が、」

 弾丸のように早口に紡がれる言葉が、一度、途切れた。

 荒い呼吸が二呼吸。

 次の言葉は、さらに嗄れていた。

「君が。私には、君が、グリ……いや、ハーヴェスト殿と話す君が―――女性に見える」


 苦悩を全身から発散する外遊部隊長は、こちらに背を向け頭を抱えて、そう告白した。佐倉は動けなかった。熱って何。タガがはずれるってなに。いやそれより何より、誤認している?

 女性に見えるのが、誤認?

「視覚から得る君とハーヴェスト殿の体格差の情報が、私の頭を惑わせているらしい」

「アルルカ部隊長、あの、合ってます」

 佐倉はぼんやりと、佐倉という存在を冒涜する目を持っているという外遊部隊長に告げた。言いながら、ついにこの時が来たのだと知った。今までの誤解が解ける瞬間である。佐倉は思っても見なかった展開に、呆然としたまま、呟いた。

「アルルカ部隊長、合ってます」

 言いながら、興奮と歓喜が体内をかけ巡った。解ける。これで誤解が解ける。

 佐倉はアルルカ部隊長の背に手を伸ばしながら、もう一度、その言葉を口にした。

「あ、合ってます、すみません今まで言うタイミングが……!」

「ササヅカ隊員、すまない、明確に否定してくれ」

「いや、でも、否定も何も」

「そうでなければ、私は君を襲いかねない……!」

 その逞しい背に触れようとした手が、瞬時に固まった。


 襲いかねない?

 …………今の、どういう意味?

 襲いかねない、って、何。


「ああ」

 何かに納得するような声が、ハーヴェストの口から漏れた。

「成程、当たりは外遊か」

「当たり……?」

「媚薬のせいで、頭が飛んでるんだろう」

「当たり? び、媚薬……?」

 おお、今、人生で初めて、そんな言葉を口にした。佐倉は妙に感動した。そして大いに納得した。なるほど! この壮絶な色気を背負った夜の帝王みたいなスケコマシ部隊長状態は、媚薬のせいなのか! うんうん、けしからん空気がダダ漏れなのも、媚薬のせいなら頷ける。そうか、媚薬か! うん、媚薬!

 佐倉は自ら、頭の中の『冷静』という単語を、蹴っ飛ばした。

「なななななななんで、アルルカ部隊長が媚薬を!?」

 こちらの動揺全開の問いかけに、ハーヴェストは一拍置いた。

 やがて彼は、こう言った。


「そういう日もある」

 どういう日だそれは。媚薬を使いたくなるような日があってたまるか。


 あからさまにアルルカ部隊長が媚薬を摂取した経緯を省かれた。と、いうかそもそも、なんでそんな経緯をハーヴェストが知っているのか。……なんだか、何を問いただしても地雷を踏みそう。佐倉は呻いた。とりあえず、まずはじめにやるべきなのは。


 アルルカ部隊長の背に伸ばしかけた手を、引っ込めることである。


 媚薬摂取中の御方に、触れるなんて自殺行為も甚だしい。襲ってくれ、と自らにリボン巻いて贈呈しているようなものである。腹が切れてないかとアルルカ部隊長の腹筋を撫でさすった記憶がおぼろげながら蘇った。うわあ、自らにせっせとリボンを巻く行為を繰り返したような……。間違いなく進路相談をしている場合じゃない。アルルカ部隊長の鉄壁の自制心に涙が止まらない。


 これ以上、この御方に負担をかけるわけにはいかない。佐倉は強く誓った。うん。そうだよ。そう。これ以上、アルルカ部隊長を悩ませないようにしなくては。襲われるのも困るし、自らにせっせとリボンを巻くような行為は絶対にダメだ。だから―――


 女である、とアルルカ部隊長に、言ってはならない。


 脳内でそんな結論がはじき出されて、佐倉は焦った。あれ、おかしい。何故そうなった。せっかく今、アルルカ部隊長が女に見えると、言ってくれたのに。アルルカ部隊長の誤解さえ解ければ、グレースフロンティアでは簡単に誤解が解けていくはずだ。この団体、アルルカ部隊長信仰が根強い。この人が自分を女性と認めてくれれば、あとはもう芋づる式に「ササヅカ=女」と認めてもらえるに違いない。


 こんな絶好の場面、二度と来ないかもしれないのに。

 佐倉は迷った。やっぱりちゃんと誤解、解いたほうがいいんじゃない?

 アルルカ部隊長と次、いつ会えるか分からないのだ。この性別のことを、このままなんとなくウヤムヤにしていくわけには行かないし、誤解が長期に渡ってこじれていくとどうなるのか見当もつかない。

 や、やっぱり言おう!

 アルルカ部隊長は鉄壁の自制心の持ち主だから大丈夫だ!

 こっちが女だって分かったって、たいしたことはないに違いない!


「あの、アルルカ部隊長……!」

「ササヅカ隊員、大丈夫だ」

 背を向けたままのアルルカ部隊長が、疲弊しきったようにそう言った。

「私は、男に手を出すような嗜好を持ち合わせていない。ハーヴェスト殿が言ったような、確かにそのような興奮剤の類のものを口にした状態ではあるが、君は間違いなく安全だ」

「…………あ、の、ええと」

「ここにいるのが男だけで救われた。ここに女性がいたならば」

 アルルカ部隊長は深く息を吐いた。


「過ちをおかしていたに違いない」


 常に沈着冷静なアルルカ部隊長が、心の底から安堵するような声音でそう言った。

 ハーヴェストがこちらをしばらく見つめた後、視線を漂わせ、天井付近で小さいものがふわふわしているのを捉え、この場で言ってはならないようなことを言いたそうな顔で、再びこちらを見たが、佐倉はガンを飛ばして黙らせた。睨みを利かせれば、数秒、ハーヴェストは押し黙った。だが佐倉のガン飛ばしなんて、この人に通用するはずもない。彼は低い声でこの奇妙な展開の感想を述べた。


「だから、脱いでおけば誤解の余地が無かったのに」


 衝撃発言だった。しかも、なんか妙に説得力があった。確かに! 佐倉は魚みたいに、口を開閉することになった。確かに脱いでおけば、アルルカ部隊長が佐倉を男と勘違いしたままにならなかった。そうか脱ぐのが正解だったのかあ……。

「いやいやいや、違う違う」

 服を脱げば、確かに誤解は発生しない。だが服を脱いだら、アルルカ部隊長がおっしゃる「過ち」とやらが発生したに違いない。絶対服を脱ぐのはダメだ。絶対ダメだ。

 一瞬、ハーヴェストの言葉に納得しかけた自分を叱咤する。何、納得しているんだ自分。


「危うくハーヴェストの言葉に丸め込まれそうに……」

「確かに、ハーヴェスト殿の言葉も一理ある」

 佐倉は声がしたほうを反射的に見つめた。

 アルルカ部隊長が、その黒い御髪をかき上げながら、疲れたようにこちらへと振り返った。


「君が少女に見える。今も、何故か、私にはそう見えるのだ。違うと分かっているのに。―――この熱に浮かされた脳に理解させるには、ハーヴェスト殿の言葉のように」

 聞きながら、佐倉はぼんやりと思った。なんだかめちゃくちゃ嫌な予感しかしないのは何故だろう。

 ハーヴェストの言葉って何。

 たぶん、あれだ。

 脱いでおけば、誤解の余地が無かったって、やつだ。

 その言葉に、アルルカ部隊長が何故か賛同しているように聞こえるのは気のせいですか気のせいですよね気のせいであってほし――


「君が男だと言うことを、はっきりと認識できるよう、君も上着を脱ぐべきだ」


 佐倉は呆然とその言葉を聞いていた。

 頭の中は蹴っ飛ばして見当たらない『冷静』という単語を、必死に探している状態だったけれど。

 あれ、おかしい。本当に、おかしい。どうしてこうなった。


 女と分かっているハーヴェストが、女と証明するために脱げ、と言う。

 男と思っているアルルカ部隊長が、男と証明するために脱げ、と言う。


 なんで二人とも言っている内容が全く真逆のはずなのに、脱げ、で統一されてるんだろう。

 佐倉はもう一度思った。

 どうしてこうなった。

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