白天祭 ―寝台にて 3―
そうか、アルルカ部隊長はお腹が空いているのだ。
佐倉は、視界の中ですいすい動く物を目で追いながら、納得した。そうだよそうすっかり忘れていた。お腹が空いた人間は、奇行に走りがち。前にも一度体験したではないか。食堂で。そこで、たいそうお腹が減っているのであろう人と遭遇したことがある。腹の音を聞かせるくらいに空腹を訴えた人と、今、眼前で人を食いたいとおっしゃられた御方は、共通点がある。佐倉は皮膚と筋肉と体温を手の平に感じながら心底納得した。
究極に腹が減ったら、ここの人達は―――
「脱ぐのか……」
究極にお腹が減ったら、ここの人達はおもむろに服を脱ぎ、鍛え抜かれた肉体を他人に見せつける。……うわあ、なにその珍妙すぎる文化。鍛え抜かれていない、ちょっと贅肉のついた肉体だったらどうしたらいいの。恥ずかしげにお腹空いたんだって服を脱いで主張しろってことなのか。
「あの、何か、食べ物、持ってきますか」
真上を見上げたままの人に向かって、佐倉は訊ねた。こちらと同様、上で漂っているものに向かって、視線が完全固定されている。このままでは、上でふわふわしている生き物は、本当に食べられてしまう。
「迅速に、かつて無いほどの速さで、食料を調達してきますから」
「ササヅカ隊員。それは、ありがたい申し出だ」
「あ、それじゃあ、急いで―――」
「できる限り、時間を置いてくれ」
そう言われ、佐倉は心底、心配した。そんなに時間を置いてしまったら、この御方、こっちが戻る前に飢えて天国へ旅立つとか腹切って天国へ旅立つとか舌噛み切って天国へ旅立つとかしてしまうのではないだろうか。
「でも、お腹、空いているなら」
声に反応するように、アルルカ部隊長が、ゆっくりとこちらを見下ろした。途端に、得体の知れないフェロモンを浴びる破目に陥った。これは間違いなく、スケコマシフェロモンだ。顔をそむけて回避することもできず、佐倉は浴び続けることになった。おそるべしスケコマシフェロモン。この部屋から出た後、この人が天国へ旅立つかどうかなんてどうでもよくなった。逃げよう。とにかく逃げよう。なんだか、今、恐ろしいフェロモン攻撃をこの身に受けている。逃げ出さなければ。さもないと、こんなにも清らかで品行方正な御方に向かって、不届きすぎるどえろい感情を持ちそうだ。
「私は」
スケコマシ部隊長が、かすれ声で言葉を発した。
「一度、仕切り直したほうが良いように思う」
佐倉は、スケコマシ部隊長から目を離せないまま、小声で賛同した。
「そうですね。時間も距離もたっぷり置くべきだと、たった今、思い直しました」
「意見が一致したようで何より―――」
その時だ。アルルカ部隊長の声が途切れた。同時に、佐倉は頭の上に重みを感じた。眼前の人の顔は、自分の頭部に固定されている。目が離せない様子を見れば自分の頭の上に何がいるのかは、誰に教えてもらう必要も無い。分からないのは、これ一点のみだ。
佐倉は、頭を凝視するアルルカ部隊長に尋ねた。
「フィフィ、今、どんな悩殺ポーズですか」
女豹ポーズですか腹這いで頬杖をつき谷間強調ポーズですかそれとも仰向けで両手広げて「きて」ポーズですか。惜しいことに、どんなに素敵な悩殺ポーズでも、頭の上では見ることができない。フィフィの様子を教えて欲しかった佐倉は、眼前の御方が質問に答えてくれるのを待った。見上げて返事を待つ佐倉の上で、魅力的な小さな姐さんが佐倉とそっくりな表情でアルルカ部隊長をじっと見つめた。
大きな潤んで濡れた瞳が、見上げている。アルルカ部隊長がすっと息を吸った。やがて、噛み締めた歯の隙間から擦り切れた音が漏れ出した。
「手に、負えぬ……!」
掠れたその声が合図となる。
「え、手に負えないぐらいの悩殺ポーズって――ぅわあっ」
佐倉の身体が浮いた。脇に抱えられたのだと気づいた時には、すでにベッドの上にはいなかった。ベッドの上にいないと気づいた時には、すでにベッドのある部屋から出るところだった。ベッドのある部屋から出たと気づいた時には、アルルカ部隊長は四階通路につながる扉を片手で開けていた。
「ササヅカ隊員。当初の予定では、今日、この場で、君の、これまでの街での生活を訊ね、そして今後はどうするか、私個人の意見を伝えるつもりだった。だが、」
アルルカ部隊長は、佐倉を扉の外へと下ろした。
「すまない。今日はまともな話し合いになりそうにもない。日を改めさせてほしい」
アルルカ部隊長の言葉に、佐倉は、背筋を伸ばした。
やはりアルルカ部隊長は、そういう話をするつもりだったのだ。
今後についての話。
そうだと思っていたが、アルルカ部隊長の口から聞くと、よりいっそう現実味を増した。うん、今日行なわれた話し合いは、確かにまともではなかった。ひとり半裸で切腹準備しながら、ベッドの上で展開される進路相談、とか。絶対、まともじゃない。
「はい、ぜひ、日を改めて。ちゃんと、お話したいです」
ぜひとも、アルルカ部隊長が素敵な美髪をひっつめて結い上げ、服どころか甲冑も着込んだ状態の時に、ベッドの上以外の場所で、今後について詳しく話し合いたいものである。アルルカ部隊長は短く頷いた。すまぬ、また連絡する、と告げるやいなや、扉が閉ざされる。部屋を追い出された形になった佐倉は、その場に立ち尽くした。
扉を見つめたまま、部屋での出来事を思い出す。
なんだか夢の中にいたみたいだ。突拍子が無かった。最初にこの扉の前に立った時は、まさかベッドの上でアルルカ部隊長が切腹しだすとか、想像もしていなかった。むしろ部屋に足を踏み入れるまでは、先ほどアルルカ部隊長自らが言ったように、『今後の話し合い』をするのだと思っていたのだ。
さて、これで、『今後の話し合い』は先延ばしとなった。
これまでの緊張も威勢も勇気も、全部、肩透かしをくらった気分だ。でも、話し合いが先延ばしになってしまった以上、ここで出来ることは何も無い。
仕事に、戻ろう。
案内カウンターが復活したとはいえ、今日も祭だ。グレースフロンティアの末端部隊員たちは、今日も街中、駆けずりまわっていることだろう。
やや気の抜けた状態で、扉の前から階段へと向かう。一度、二階の新兵部隊の駐在室に顔を出して、今日の予定を先輩たちに確認し直して―――ちょうど真横の扉が、がちゃん、と解錠される音がした。佐倉はほぼ無意識に、歩きながら横を見た。扉が開く。その隙間を見た瞬間、やはりこれまた無意識に、首の角度を真上に修正した。―――その上半身の持ち主には、これくらい首の角度を上へ修正しないと、目が合わない、と知っていたからだ。
首の角度を修正して、見事に目が合った。
―――青灰色の瞳と。
扉が開いたから無意識に横を見て、目が合いながらも歩き続けた足は、ゆっくりと動きを止めた。扉を開けた人物も、視線を絡めたまま扉の外へ姿を現した。扉が閉められた。
四階の通路に、今、「彼」と佐倉だけが立っている。
ふと、頭によぎったのは以前、四階に行く階段を見上げて考えていたことだった。『四階で、三番部隊長に出くわしたら、どうすればいいのか』という悩みのこと。死んだフリでもすればいいのか、と思っていたが、あの時、どうして自分はちゃんと考えていなかったのだろう。頭のおかしな三番部隊長のことなんてどうでもいい。自分が考えていなければならなかったのは―――
四階で、ハーヴェストに出くわしたら、どうすればいいのか、だったのだ。
間違い無く死んだフリは、ハーヴェスト相手には不正解だ。
この人に、意識放棄なんてとんでもない。
視線は依然として絡めとられたままだった。吸い寄せられて、外せない。この存在がすぐ近くにいる、と気づくごとに、足先から動けなくなっていく。青灰色の瞳の持ち主は、腕を組み、扉に肩を預け、悠然とこちらを見つめていた。
やがて、彼は言った。
「よう、ササヅカ新兵部隊員」
重低音。でもどこかいつもの彼と違う、気がした。いったいどこが? 分からなくて、違いを知ろうと意識がさらに彼へと向く。なんだろう。何かが、いつもと、違う……?
「お、はよう、ハーヴェスト」
「おはよう?」
ハーヴェストはその言葉を反芻するように呟き、窓の外を見つめた。眩しそうに、目が細められる。
「眠い」
窓外の清々しい陽光を捉えながら、なんて発言。
「眠ってないの?」
視線が戻ってくる。
「眠ってない、な」
そう答えたハーヴェストは、首をゆっくりと回す。
「いつから眠ってないの」
簡単な質問だったはずなのに、答えはしばらく返ってこなかった。
やがて彼は、小首を傾げる。
「忘れた」
何この可哀相すぎる答え。案内カウンター不在の被害者がここにもいたってことだろうか。
「バラッドさん復活したし、眠ってきたほうがいいんじゃ」
ハーヴェストは動かなかった。でも明らかに、ハーヴェストは気怠い雰囲気を身に纏っていた。疲れているように見える。佐倉はさらに言葉を紡いだ。
「部屋、戻りなよ。ちゃんと、眠らないと」
視線で扉へ促せば、ハーヴェストは首を一振り。
「ここは、四番の部屋だ。俺の部屋じゃない」
「あ、そうなんだ―――え、と、四番?」
四番、って何。
こちらの疑問をハーヴェストは面白がった。気怠げな雰囲気が少し払拭される。
「四番は、内部監査だ――会うか? 四番部隊長、今なら中にいるぞ」
「いや、うん、会う必要、全然無いから遠慮するけど」
ぼろりと出た言葉は、さらにハーヴェストの笑いを誘ったらしい。何がそんなに面白いのか。そもそも、この組織、内部監査なんてあったのか。いったい何を取締っているのだろうか内部監査は。グレースフロンティアは、監査を受けているとは思えないほど、無法地帯だと思うのだが。
それにしても。
佐倉は相手をぼんやりと見つめたまま、思った。
何で、普通に、会話を、しているんだろう。
人は、驚きすぎると、平常運転に戻るらしい。この人とは、再会したらいろいろ話さなければならない気がしていたのに。あの夕街にあった研究機関のこと、とか。持たされたチップのこと、とか。あらゆる大事なことが抜け落ちて、日常会話を平然と交わしているこの状況。
ハーヴェストの視線が揺れ、佐倉の真上をすいと、真横に動いた。おそらくフィフィを見たはずだ。しかし、ハーヴェストからフィフィに関しての質問はこなかった。
それどころか、欠伸をひとつ。
「眠い」
「だから眠ってきなよ」
「ああ―――寝るか」
「うん」
それは、突然、やって来た。
恐ろしいほどの圧迫感に食らいつかれて、佐倉は棒立ちになった。青灰色の瞳が明らかな意思を持って、こちらを見つめている。そうだよ。また騙された。ま た こ の 穏 や か そ う な 空 気 に 騙 さ れ た ! 何で普通に会話をしているのか? どうして、この人がいつもと違って見えるのか? ―――そりゃ、ハーヴェストが、こちらを威圧してこなかったからだ。
青灰色の瞳から目を離せなくなる。呼吸が浅くなり、熱いのか寒いのかも混乱してよく分からなくなる。ハーヴェストが扉に預けていた身体を起こす。
視線を絡めとられたまま、重低音が鼓膜を揺らす。
「ああ、寝たい、な」
これは、なんだ。
佐倉は口の中がカラカラになるのを感じた。
いったい、何の欲を。
ハーヴェストは、何の欲を、訴えているの。
二重の意味を感じて、顔が熱くなる。やだ。佐倉は強く思った。いやだ。今、赤くなったら、気づかれる。相手の単純な睡眠欲を、勝手に勘繰って、勝手に意識して、勝手に動揺して―――気づかれたくない。絶対に、気づかれたくない!
佐倉は叫んだ。
「い、忙しい!」
根が生えたように動かなかった足が、動く。ハーヴェストの前を通りすぎながら、佐倉は隣の部屋の扉を指差した。
「私、アルルカ部隊長に、会う、約束が、あるので!」
災いの口よ、万歳。言いながら、自分で固まった。アルルカ部隊長が街にいるって、口外しちゃいけないことだったのに、今、思いっきり言ったねこのお馬鹿すぎる口が!
「外遊に?」
フィフィの時同様、やはりさして驚いてもいない様子で、ハーヴェストが言った。ハーヴェストは、アルルカ部隊長が街にいることを知っている、のかもしれない。良かった。救いようのない口が、救われた。
「へえ、外遊に、会う、ねえ」
ハーヴェストは小首を傾げた。
「何故?」
「なんで、って、進路相談?」
「進路相談?」
ハーヴェストはまたしても面白がった。
「何故、外遊部隊長に、新兵部隊員が、進路相談?」
佐倉は唸った。
ここで語れと?
うまく説明できない事情を抱えているのに?
「なんでも。外遊部隊に、新兵部隊員が、進路相談してはいけないって決まりはない」
「ああ、決まりはない、な? ―――だが何故と思う、組合せではある、よな?」
しつこい。
この人特有の言葉遊び、を感じた。何が面白いのか知らないが、やけに疑問符をつけて、聞いてくる。
佐倉は、外遊部隊長の部屋の扉の前で、顔をしかめ、さらに唸った。
「うっさいなあ! いいからハーヴェストは寝てきなよ、ひとりで!」
言って、自分で衝撃を受けた。あれ、今、あれ? な、なんだろう。あれ、気のせい、かな。今、私のおクチ様、け、喧嘩をふっかけなかった……?
言ったあとに固まったこちらに向かって、飛び切り魅力的な八重歯の笑顔が返ってきた。もちろん背中から痺れて動けなくなるような、素敵な威圧付きで。わあ、素敵。素敵すぎて、惚れる。自分のおクチ様の学習力の無さに心底、惚れる。
しなやかに、獰猛に、彼は動いた。
佐倉のすぐそば、外遊部隊長の部屋の前に、ハーヴェストも共に立つ。
彼は、こちらを面白そうに見下ろした。
「では、俺は寝てる―――お前が進路相談をしている、その横で」
不吉な言葉を、聞いた、気がした。
どん、と真上で扉を雑に叩く音がした。荒く、もう一度。だめ。佐倉は慌てた。今日の進路相談は延期になったのだ。この人に反抗しようとこの話を持ち出しただけで―――
施錠が解かれる音がした。
重々しく扉が開き、真上でハーヴェストの手がドアの板を掴んで押し広げる。
出迎えてくれたのは、素敵な美髪の半裸の御方だ。
その御方に向かって、佐倉の背後の男は無邪気に言った。
「よお、外遊。これ、」
頭部を掴まれた。思いの外、優しい手つきで撫でた手は、こちらのうなじを柔らかく揉んだ。
「俺の抱き枕なんだが、この抱き枕が、お前との進路相談があると主張した―――だから」
獰猛に、心底、愉しそうに、獣様がおっしゃった。
「ベッド貸せ」
―――凄いなって、佐倉は思った。
驚きすぎると、人間、平常運転になるって再認識した。扉前での押し問答の末、佐倉は本日二度めの柔らかで質の良いベッドの上にいた。自分の背後が温かい。後ろから腕を回されている。こちらの首の後ろに顔を埋めた男は健やかな寝息を立てている。よく眠れているようで良かった、良かった。抱き枕として、ちゃんと役目を果たせているようで、万々歳だ。うん、状況に驚きすぎて、叫び声も出なかった。
だが、ベッドに腰掛け、そのぴんと伸びた背筋から、『忍耐』という空気を発している御方を見たら、全然、万々歳とか言っている場合じゃないと思った。
佐倉は背後で自分の身体を抱きすくめている男への雑念を全力で締め出し、ベッドを占領された部屋の主に声をかけた。
「日を改めるどころか、より一層、状況が悪化していませんか」
「そうだな」
アルルカ部隊長は、素直に認めた。ぴん、と伸びていた背筋が丸くなる。両膝上に肘をつき、頭を抱えた外遊部隊長は深く、深く、嘆息した。
「ササヅカ隊員」
「はい」
「今後の話合いでも、するか」
佐倉は黙って、相手の背中を見つめた。
う、わあ。この状況で、進路相談がやって来ました。この部屋から一度、追い出される前はベッドの上で、半裸の人が切腹準備をしながら進路相談するとか、まともじゃないって思っていた。だがいまや状況はその上を行く。ベッドの上で、すやすやと眠る男の抱き枕になりながら、ふわふわ漂う魅力的な小さい姐さんを時々視界の隅に入れながら、自分の今後について、半裸で絶望中の御方と話し合うとか―――
「わあ、なんて斬新な進路相談」
新しすぎる面談の形に、佐倉は感動して呟いた。