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白天祭 ―寝台にて 2―

 お髭でした。

 あごひげ。おひげ。おひげさま。

 ざらついた硬い感触が肌をこする事態に、遭遇したことがあるだろうか。

 首元から顎をかすめた御髭様の破壊力は、佐倉がこれまでの人生で一度も経験したことが無いものだった。衝撃に息を飲めば、ベッドに引き込んだ御方がこちらの顔を覗きこむ。

 記憶の中の瞳より、黒い瞳に熱がこもっている気がして―――

 低く嗄れた声が、静かに落ちてきた。


―――呼吸の仕方を忘れたか、と。

 問われて、佐倉は固まったまま、強く思った。

 呼吸の仕方を忘れたというより。

 

 目の前の御方が、記憶の中の御方と一致しません……!



 ここは、外遊のアルルカ部隊長の部屋だったはずだ。

 佐倉は四階通路で何度も確認した。四階は魔の巣窟。モントールに教わった扉以外をうっかりノックしたら、何が飛び出してくるか分かったものではない。だから何度も何度も確認してから、扉をノックしたのだ。

 武将式鎧を着込んだお団子頭の部隊長が、お出迎えしてくれるはずだった。出迎えてくれるその人は、ちっとも笑ってくれないに違いない。こちらをじっと見つめ、ひとつ頷く。厳格そうな表情を崩すことなく対峙することになる。


 そう思っていたのだが。

 扉を叩いた瞬間から、何度も思い描いていた予想図がほろほろと分解されていく。

 まず、お出迎えが無かった。

 不審に思って扉を押せば、容易に開く。ムドウ部隊長の部屋と同じ間取りの室内は、殺風景で物が無かった。物が無いと同時に、居るはずの人も居ない。室内には奥へと続く扉がひとつ。誘うように、かすかに戸が開いていた。アルルカ部隊長、いますか、と声に出したとは思う。部屋の奥へと一歩足を進めるごとに、隙間から室内の様子が見えてくる。


 佐倉は目を見開いた。

 ベッドの上に男の人が転がっていた。佐倉は叫んだ。アルルカ部隊長、と。甲冑兜はつけていなかった。特有のお団子頭でもなかった。でも佐倉にはベッドの上に倒れているのはアルルカ部隊長だと確信していた。ベッドの上の人物は、街の人とは、全く異なる服装をしていたからだ。白のざっくりとした上衣は太腿辺りまで丈があり、同じく白の下衣は足首の部分で絞ってある。この街でお目にかかったことのない格好だ。民族衣装、という言葉が浮かぶ。こんな独特な格好を貫き通している人、アルルカ部隊長以外のわけがない。


 佐倉はすぐさま緊急事態と判断した。あのアルルカ部隊長が、約束の時間になってもベッドに転がっているのである。単純に眠っているとか、朝が弱いとか、寝汚いとかそんな理由なはずがない。絶対に、緊急事態。


 佐倉はベッドに駆け寄って、ベッドの上に片膝をついた。アルルカ部隊長はこちらに背を向け、横向きで倒れこんでいる。肩を揺する。顔を確認しようとさらに身を乗り出した。常なら頭の上でまとめられた黒髪が解かれ、女性が嫉妬しそうな癖の無い美髪が表情を覆い隠してしまっている。美髪の切れ間から右頬の大きな傷跡が見えた。

 その傷跡には見覚えがあった。あの天幕での取調べの夜、眼前にいた人にも同じ傷跡があったのだ。

「アルルぅわあっ」

 身体が反転して、自分の背に柔らかいベッドの感触を感じたのはその直後だった。ぐるりと回った世界に目を瞬かせる。ベッドを見下ろしていたはずなのに、今や天井を見上げている。なぜ。あまりの早業に思考が追いついていなかった。目を丸くした佐倉の上に、影が落ちる。影を落とした主を見て、佐倉は自分の目を疑った。

 

 この人は、アルルカ部隊長、だろうか?

 

 つい先ほどまでは、髪を下ろしていても、戦国武将の鎧に身を包んでいなくても、この人はアルルカ部隊長で間違いがない、と思っていたのだ。だが、今は自分の目を疑っていた。違う人の部屋に入ったのでは、と。それほど頭の中のアルルカ部隊長と眼前の男の持つ空気が、違っていたのだ。


 脳内のアルルカ部隊長は、冬の明け方のぱりっとした空気のような存在だった。肺に取り込むのが恐ろしいくらい清々しい、身が引き締まるような空気を背負った人。そんな人だと思っていたのに、今の眼前にいる人は、全く別種の空気を纏っている。濃密に匂い立つような熱のこもった夜の艶―――佐倉は頭に浮かんできた考えにさらに身を硬くした。醸し出す空気はアルルカ部隊長とは思えない。でも、熱を帯びているように思える黒い瞳も、その右頬の大きな傷も、あの聡明崇高公正明大、グレースフロンティア一真面目真っ当マトモな御方のものに間違いがない。アルルカ部隊長に向かって、『なんかとてつもない色香が漂ってて、ムラムラして、私、鼻血がぶち出そうなんです』なんて発言したら、外遊部隊員総出で斬りかかってくるんじゃなかろうか。『アルルカ部隊長清らかイメージ破壊罪』みたいな罪名で。


 外見はアルルカ部隊長だけれども、ほらたとえば、アルルカ部隊長が双子なんてことは無いだろうか。

 佐倉は新たな仮説に辿りついた。厳格なる外遊部隊長には兄弟がいて、今、自分の上に乗っかっている壮絶な色香を漂わせるこのスケコマシは、アルルカ部隊長の双子のお兄さん、とか。そんな結論に至りかけ―――息を詰めている間にも、真上の御方の色香は増すばかり。黒髪をかきあげて息を吐き、睫毛の奥から透かし見るような視線が落ちてくる。頭が下がってくる。さっきより顔の距離が近づく。心臓が跳ねた。近すぎる。顎髭が自分の首をかすめて、衝撃。熱が移ったみたいに身体が熱い。思わず叫ぶ。佐倉は自分の仮説に飛びついた。そうだよ、そう。きっとこの人はお奉行様じゃなくて、お奉行様のお兄様のお代官様に違いない……!

 これで『アルルカ部隊長清らかイメージ破壊罪』を犯さずに済むと思ったが、かみ合っているのかいないのかよく分からない応答を終えたのち、真上の御方はおっしゃられた。

「介錯を頼む―――今、腹を切る」

 佐倉の上から退いた御方は、ベッドの上で胡坐をかき、上衣を脱いだ。口で鞘を押さえ片刃の剣を引き抜く。短刀の刃に脱いだ服を巻き、両手で掴んだ。あとは腹を切るだけですね分かります。露になった見事な上半身、鍛えぬかれた二の腕の筋肉が腹切りの為に動き―――

 

 脳内の「このスケコマシはアルルカ部隊長のお兄様」説は吹き飛んだ。

 腹切りなんて突飛な行動、あの聡明崇高公正明大、グレースフロンティア一真面目真っ当マトモな御方以外がするわけがない。真面目真っ当マトモな御方が突飛な行動をするって言うと、矛盾に満ちている気がするが、アルルカ部隊長が切腹するって言われると、矛盾どころか納得せざるを得ないというか、そんなこと考えている間に短刀の切っ先がお見事すぎる腹筋にあてらr―――ハラキリはだめえええええええええ


 佐倉は放心しきって寝転がったままだった身体を、勢いよく跳ねさせた。

「ちょ、お代官さっ―――おおおおおお侍様、お侍様、切腹はダメっ切腹はダメええええ―――!!」

 頼まれた介錯なぞそっちのけで、佐倉は相手の腹に飛びかかった。衣服の絡まった短刀を掴むアルルカ部隊長の手を掴む。だがこちらの腕力なんて、立派な体躯の外遊部隊長の前じゃ何の意味もない。制止しようと掴んだ手は、全く動かず、押しても引いても、びくともしない。

「ササヅカ隊員」

 口にくわえていた剣の鞘を落とし、掠れた声がそう言った。顔を上げれば、またしても目をみはる破目に陥った。いつもは厳格そのもの、という顔をしているアルルカ部隊長が眉根を寄せている。眉間に厳しい皺を作っているのではない。そうではなくて、この顔は。


 困惑、だ。


 戸惑っている表情で、こちらを見下ろしている。

「ササヅカ隊員」

 掠れた声が再び落ちた。

「は、はい」

 佐倉は、アルルカ部隊長の手に手を添えたまま、応答した。

「腹への助太刀ではなく、首への助太刀を頼みたいのだが」

 佐倉は、アルルカ部隊長の短剣を持つ手に、手を添えたまま、沈黙した。

 あれ、押し止めようとしているのに、お手伝いをしているように思われているのは何故だろう。そこまで考えて、ふ、と気づく。押しても引いてもびくともしないからといって、刃を腹から生やそうとしている人の手を押したら、自殺幇助になる。

 佐倉は真上を見つめ、ゆっくりと相手の手に添えていた手を離した。

「すみません。押しても引いても全然びくともしないから、間違って押したみたいですが、切腹の助太刀をするつもりも首の助太刀をするつもりも、全く無いです」

 アルルカ部隊長も、真下を見下ろし、掠れた低い声で言葉を紡いだ。

「腹を切るのを助ける算段で無いならば―――ササヅカ隊員、君は」

 何かに耐えるように、一瞬の間の後、言葉が落ちてきた。

「いささか危うい所に、飛び込んだことになる」

 危うい、所?

 佐倉は謎の発言をするお奉行様を見上げたまま、目を丸くした。

 危うい所って何。佐倉は今の状況を思い返した。切腹を止めようと、胡坐をかいた相手の膝に乗っかる勢いで飛び込んで……これ、だいぶ距離が近すぎる。佐倉は突然、自覚した。ご自害あそばされかけているのを止めようと飛びついたから、アルルカ部隊長の胡坐は崩れ、両足の間を佐倉が陣取っているような状態だ。これは、うん、近い。なんだこの位置。間違っても崇高なる外遊部隊長に挨拶をする体勢じゃない。


 ベッドの上で、こんな体勢で、こんなふうに見上げ見下ろされていると、妙な想像が頭をよぎる。実際の状況で言えば、切腹を止めようとして相手の胸に飛び込んだだけなのだが、もし第三者が見たら絶対そうは見えないだろうというこの体勢。しかも一人は半裸である。いたす所にしか見えない。いや、そんな状況じゃないのに、そう見えるだろう距離感。


 さらによく状況を確かめようと、眼前の相手を見上げていた目が、下を向きかけ―――顔を伏せかけた瞬間、顎の裏に何かが当たった。

 短剣の柄頭だった。切腹する為に鞘から抜かれた短刀の柄が、佐倉の顎を下から押す。短刀の柄で顎を下から押すとどうなるか。自然と顎が上がる。座ってる位置を確認しようとした佐倉は、顎を柄で押し上げられ、再び見下ろしている外遊部隊長を見るほかなかった。


「あの、なんで」

 自分、なんで、顎を押し上げられているのでしょうか。

「上を見ていなさい。下が、危うい状況だ」

 アルルカ部隊長の言葉が謎過ぎた。

 下が危ういって何。

「えっと、え―――腹、切ったってこと、ですか!?」

 まさか、無事切腹しました。血まみれだから下を見るなってこと!? 下を見ようとしかけ、顎に当てられた柄に邪魔され、顔を動かすことができなかった。ならば、感触に頼るしかない。佐倉はアルルカ部隊長の腹筋をまさぐった。腹筋に触れた瞬間、アルルカ部隊長は野生の動物みたいに、びくり、と身体を震わせた。指に濡れた感触は感じなかった。良かった。ハラキリは未遂らしい。

 這わせた手のひらの下で、腹筋が大きく動いた。

「ササヅカ、動くな!」

 鋭い殺気立った声が上から落ちた。

「ぅはい!?」

 驚いて相手を見れば、お奉行様が、お代官様の色香を再び発散させていた。スケコマシ再降臨。どうしてそうなった。またしても夜艶の色香に当てられ、さらにお代官様の顎髭が目に入り―――顎髭の感触を思い出したら、一瞬で体温上昇した。顔に熱が集まる。


 赤面症を発動したこちらを、アルルカ部隊長は見ていたに違いない。

 そりゃそうだ。見上げ、見下ろしていたのだから。こちらの動揺の一部始終全てを観察していただろう。そしてそれと同様、こちらもアルルカ部隊長を見つめていたのだ。


 だから、こっちの顔面が発火しそうになった瞬間、アルルカ部隊長が、目を見開いたのも。

 ぐらり、と頭が傾いだのも。

 天を仰いだ御方が「踏み外してはならない……」と凄まじく重々しい言葉を吐いたのも。

 その仰ぎ見た先に、人差し指大の艶かしい女性が漂っているのを発見したのも。


 天を仰いだ御方が、そこで完全に沈黙したのも。


 佐倉は、全部、見ていた。

 やがて、天を見上げるアルルカ部隊長は、静かに問うた。

「ササヅカ隊員」

「は、はい」

「あれは、なんだ」

 天を仰ぎ見る人の表情は伺い知ることはできない。

 でもアルルカ部隊長が訊ねてきた物体のことなら、多少なりとも説明はできる。なぜなら、あの物体は昨日から佐倉のそばを離れず、フワフワと漂っているのだ。今もベッドの上で、半裸の人の腹筋を押さえている子供と子供の顎を短剣の柄で無理やり上向かせている人間が、見上げているのも気にせずに、気持ち良さそうに空気中を泳いでいる。朝陽を浴び、いっそう輝きを増す黄金色の肌、細い首や女性らしい肩を強調する銀色の短髪、豊満な胸にくびれた腰……サイズさえ合っていれば、と世界中の男の人が悔やみそうな美女がそこにいる。


 フィフィ。


 どういうわけか、カップの中の甘い甘い糸がなくなったのに、お姐さんは帰らなかった。その上、終始上機嫌でこちらの世話を何かと焼いてくれ、こちらの目を和ませてくれている。

 いや、和ませる、というには語弊がある。

 今もそう。目を和ませてくれている、というより、漂う小さな姐御の流し目の破壊力が凄まじい。気持ち良さそうに泳いでいる姿なんて、もはや猥褻物である。気持ち良さそうとか、この艶かしい小さな生物に使うと、いかがわしさがハンパない。


 佐倉は、動かないアルルカ部隊長とともに、朝の一泳ぎを満喫中の小さな生物を目で追った。

 あれは何かと問われれば、モントールが教えてくれたことを思い出し、佐倉は答えた。

「あれは、もともとは風の中にいる生物で、とっても目が良くて、道を教えてくれたりくれなかったり、はぐれた仲間の場所を教えてくれたりくれなかったり、大半、間違った情報をくれたりする、どえろい、生き物です」

 アルルカ部隊長は、そうか、と小さく呟いた。

「そうか、どえろい生き物か」

「はい、どえろい生物です」

「そうか」


 厳格なるアルルカ部隊長は、天を仰いだまま、深く深く息を吐いた。

「ササヅカ隊員」

「はい」

「フィフィを食べたいと思うのと、少年を食べたいと思うのは、どちらがより罪が重いだろうか」

 佐倉は見上げる位置をずらし、マジマジと相手を見つめた。

「アルルカ部隊長―――それ、どっちも食べ物じゃないです」

 なるほど。再会からずっと、アルルカ部隊長の様子が変だと思っていたのだ。そうか、そういうことだったのか。この御方、どうやら、今、とってもお腹が空いているようだ。

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