白天祭 ―歓声の往路 3―
モントールは、ハルトを殺すのだ。
佐倉は固く目を閉じ、額を扉につけて項垂れた。
嫌だった。渦巻く感情は、そればかりだ。モントールが行ってしまうのも嫌。人形と外遊が争うのも嫌。ハルトが殺されるのも嫌。嫌、嫌、嫌。何よりも、嫌だと言うことしかできない自分が一番、嫌だった。
何もできないただの子供だ。
思い通りにならないことに、ただただわめき立てるだけ。
何かがしたい。どうにかしたい。でもどうしたらいいのか、分からない。ただ心は嫌だと叫んでいる。それだけでは、何の解決もできないのに。悔しい。
自分には、何もできない。
悔しい。耳元で歓声がする。
悔しい。自分と同じくらい平和ボケしたその音が不快だった。
そんな黄色い歓声をあげている場合じゃないのに。
祝えとでもいうのか。そんな風に。
モントールはもうすぐ行ってしまうのに。
くん、と頭皮が引っ張られる感覚。佐倉は額を扉に押し付けたまま、固く閉じていた目を開けた。やけに近くで歓声がしていた。まるで自分の真横にいるような近さで―――
顔が、黄色い声のほうへとゆるやかに動いた。
見つめた先にいた『それ』に、佐倉の眉間の皺が霧散した。
真横に、艶かしい女性がいた。
しかも、サイズが人差し指大。
非常に軽量な女性であった。
ベリーショートの銀の髪。黄金色の手でこちらの髪の先を掴んでいる。でもその顔はこちらを見ていない。視線は扉の先に注がれている。ふわふわと漂うその人は、再び興奮したように歓声の声を上げた。こちらの毛先を引っ張りながら、濃紺色の扉を指差して、魅力的な唇で鳴いた。わぁーお、と。
佐倉も、その魅力的な唇と同じように、口を動かした。
「ぅわあぁぁお!?」
あまりに驚きすぎて、心臓が口から飛び出すかと思った。扉前から飛び退く。ふわふわと空中に漂う『それ』は、佐倉の髪の先を掴んでいた。当然、引っ張られて、一緒についてきた。
向こうも、こちらの突然の動きに驚いたのだろう。勢いあまって佐倉のほっぺたと衝突した。おかげで、佐倉はほっぺたに女性の乳の感触を感じるというなんとも幸せな体験をすることになった。
佐倉は事態が飲み込めず、そのふわふわと漂う生物を注視した。
ほっぺたにぶつかった小さな姐御は、佐倉の眼前で頬をふくらませ、腕を組んだ。
たぶん、怒ってるんだと思う。突然動いたから。乱暴に扱うなって言いたいんだろう。間違っても、腕を組んでその素敵な胸を強調し、感触はどうだったか、感想を聞いているわけではない、と思う。たぶん。
「ふ、ふぃふぃいいー?」
驚きすぎて、声が上擦った。どうしてこんなところに。まさかついてきた、とか。あの天蜘蛛の天幕から、ついてきた!?
「ササヅカ……?」
驚き離れた扉から、声がした。
「どうした?」
低い声とともに、扉が開きかけた。
「わああっ、ダメ!」
飛び退いた扉に手をつく。勢いよく閉めた。
途端に斜め上から、ぶうぅぅぅぅっという不満の声が上がった。いや、正しい表記で言ったらBOOO……だ。いやいやいや、ちょっと待って。おかしい。ものすごくおかしいだろ。
佐倉は扉を抑えながら、斜め上を漂う『それ』―――フィフィを見上げた。
「なんで、扉を閉めたらブーイングなの」
その答えとして、フィフィから送られた視線は、哀れむような目だった。まるでオコチャマねえとでも言っているかのような一瞥の後、小さな姐御は扉に両手をつけた。鼻歌らしき何かを歌いながら。
佐倉には、扉の先は全く見えないのだが……
ふ、と小さなお姐さんに関するモントールの言葉が脳裏に蘇る。
―――自然のフィフィは風の中にいる。とても目が良くて、道を教えてくれたりくれなかったり、はぐれた仲間の場所を教えてくれたりくれなかったり、大半、間違った情報をくれたりする……
つまりフィフィは、とても目が良いわけだ。
それは、扉の先を透過できるくらいに……?
佐倉は叫んだ。
「ちょ、フィフィ、何を見てるの……!? 扉の先の何を見ちゃってるの!?」
佐倉が慌てて、フィフィを掴もうとした。フィフィは佐倉の手を煩わしそうに避けた。優雅に佐倉には届かないぎりぎりの位置へと泳いでいく。しかも扉を凝視したまま、である。
なんてことだ。モントールよ。今まさに、美しい痴女によって覗かれている。佐倉は慌てて、飛び跳ねた。見ていいって言われているわけでもないのに、人の入浴シーンを覗くのは失礼だ。いや、見ていいって言われる入浴シーンも意味が分からないけれども。なんにせよ、『覗き、ダメ絶対』である。
「フィフィ、ダメ……ッ!」
佐倉は飛び跳ねた。両手で掴みかけ、するりと、惜しいところで逃げられた。しかも今度はクスクス笑いつき。完全に遊ばれている。
「フィフィ?」
飛び跳ねた佐倉の背に、モントールの声がした。
扉を抑えていたはずの佐倉の両手が、フィフィを追って空を切るのと同時に、かちゃり、と扉が開く音がする。
あ、まずい。
佐倉は反射的に顔を扉へ向けた。
頭上でフィフィの黄色い歓声が飛ぶ。
浴室の湯気とともに現れた男は、その顔と身体を惜しげもなくさらして―――黄色い歓声は、モントールが姿を現すと、すぐさまBOOOO という音へと変化した。
―――モントールは、さらして、なかった。
扉の向こうにいた男は、腰にタオルを巻いていた。なんともありがたい配慮だ。ありがたいけれども……言いたいのはそこじゃない。それよりも遥かに上。完璧すぎる裸体でも、さらされた美しい筋肉でもない。それよりもさらに上。
その頭、だ。
「分からない……」
佐倉は茫然と呟いた。
見つめる先は、びしょ濡れの兜だ。しかも兜の中からも水が滴り落ちている。つまりモントールは濡れた状態で、兜を被って出てきたわけだ。
「本当にフィフィだな。ついてきてしまったのか」
斜め上を見つめる兜は、のん気にそんなことを言っている。
対するフィフィは、文句ありげにモントールに近寄ると、小さな手でぺちぺちと兜を叩いている。
そして佐倉は、小さな姐御と同等程度しか衣服を身につけていない男を、茫然と見上げた。
佐倉には、分からなかった。
男の大事な箇所と顔、いったいどちらがより重要な秘匿箇所なんだろうか。
何故この男、下が危うい丈のタオル一枚で、上が安定の兜なんだろう。
そもそもだ。この人、そんな格好で「ハルト、壊す」宣言をしていたのだろうか。いや、違う。きっと外に出るために、兜をかぶったのだろう。その美尻、眺め舐めまわした時にはそんな格好はしていなかった。もし浴室に突撃した時からそんな格好ならば、間違い無く美脚より頭部を見ていたはずだ。
……何にせよ、この人、ほぼ裸体で『人から託された想い』を語っていたということになる。裸体で語られる『人から託された想い』って、本気なのか冗談なのか、佐倉には判断つきかねた。この兜の人に限って、調子こいて言ってみました、なんてことは絶対にないだろうけれども。
ぐるぐると頭の中を巡る考えに囚われていて、佐倉はモントールがこちらを見たことに気づかなかった。気付いた時には、モントールの腕がのびてきていた。常とは違う温かな手が頭に触れた。
ぽんぽん、と優しいいつものモントールの触れ方だった。
それだけで、先ほどまで抱えていた問題が軽くなった気がしてくる。
「外遊に戻ることは、今日ササヅカと目一杯、祭を楽しんで、最後に言うつもりだった―――ササヅカに、伝えなければならないこともあったしね」
「伝えなければならないこと?」
佐倉は頭を優しく撫でてくれる男を見上げ、聞き返した。やはり見上げて思う。入浴して、水垂れ流したまま、兜をかぶるのはどうか、と。どれだけ兜好きなのか。拭く前に兜をかぶって、あとは自然乾燥させるというのがモントールスタイルなのだろうか。……グレースフロンティアの多くの鎧兜マニアの中でも、一際、奇抜だと思うのだが。
「そう。明日の朝のことなんだが」
そんな奇抜すぎる兜マニアの兜を剥ごうとするように、小さな姐御が先ほどから奮闘している。必死なお姐さんの奮闘虚しく、兜は全く持ち上がっていない。そもそも、フィフィは何故ここにいるんだろう。入浴シーンの覗きの為についてきたってわけではないだろうに。
「明日の朝のこと?」
鸚鵡返しに聞きながら、視線はフィフィを追ってふわふわと漂った。このお姐さんは、やっぱり返しに行ったほうがいいんだろう。ただ、部屋に置いてきたわたあめではなく、兜に食いついているあたりで、素直に天蜘蛛の天幕に帰ってくれるかおおいに不安だった。天幕の中の天蜘蛛の巣を見ても、この子、兜に首ったけなんじゃあるまいか。
「うん。明日の朝、本部四階でアルルカ部隊長に会ってほしいんだ」
佐倉の頭の中で、天幕の内装が変化した。中央に丸い蜂の巣のようなものが吊るされた天幕が、大きな木箱の上に灯籠が置かれた天幕へと変化した。灯籠の明かりは風に揺れ、木箱向こうにいる男の異質な鎧を浮き上がらせる。それは出会った当初の記憶だった。天幕の中、佐倉は初めてその男を見たのだ。
「そう、本部四階でアルルカ部隊長に……」
その男は、黒い髪を頭の上で団子に結い上げた独特の姿だった。それに右頬で目立つ大きな傷跡と顎鬚、今ではそのサイズ、見慣れてしまったが、あの時はとても大きい人だと思った。
「本部四階にアルルカ部隊長……」
佐倉はうわ言のように呟いた。射るような鋭さの眼光と、囁くような掠れた深い声が耳の奥に響く。あの掠れ声を最後に聞いたのは―――一ヶ月ちょっと前。
あの人が、街を去る直前のことだった。
去ったはずの人が。
今、どこにいるって……?
ようやく情報が脳に到達した。
佐倉は、驚いてモントールを見上げた。
「アルルカ部隊長、街にいるの―――?」




