白天祭 ―天蜘蛛の糸 4―
口の中が甘い。
佐倉は俯いたまま、口の中の甘さだけに意識を向けた。今は、眼前の人より食べた物に意識を向けたほうがいいだろう。そのほうが心の平穏を保てるに違いない。―――それにしても、わたあめなんて何年ぶりだろう。懐かしかった。去年は祭に行かなかったから、一年は口にしていない味だ。少し、ぼんやりと舌の上の甘さを味わった。……うん、懐かしい。
「美味しい?」
モントールの兜越しの穏やかな問いかけに、佐倉は上手く答えられなかった。顔のほてりはだいぶ落ち着いたけれど、今は顔を上げられない。掴んだままだった鋼の腕からそっと手を離し、なんとか返事をしようとして―――
その時、佐倉はようやく、手の平に感じる違和感に気がついた。
手の平になんとも言えない濡れた感触。
自分の手の平を見つめれば……
「べったべた!?」
佐倉は尋常じゃない手の様子に、思わず叫んだ。手の平全体に溶けた飴がついているような状態だ。タオルで拭けばいいなんてレベルじゃない。これは完全に手を洗わなければいけないレベル。
借りているコートを汚すのは悪いと、中途半端な位置に手を上げる。そこで再び気が付いた。借りた服が、手の平と全く同じ状態になっている。
はっとして顔を上げる。眼前を、白い綿と一緒に浮遊するお姐さんが通り過ぎて行く。目で追った。漂うお姐さんは、ラッコのようにくるり反転する。そのまま天幕の中心、吊り下げられた蜂の巣上の球体の下を背泳ぎで通過する。すると蜂の巣から別のお姐さんが、ぴょっこりと顔を出し、ふわり、と何かを投下した。それは白い綿だった。するとラッコ泳ぎだった小さな姐御は、投下された白い綿を抱きしめた。そしてショールがわりにしていた白い綿を放り捨てた。真新しい白い綿とともに、小さな姐御は悠々と泳ぎ始める。―――問題は、小さな姐御ではない。
捨てられた白い綿、である。
持ち主が不在なった白い綿は、天幕の中をふわりふわりと漂った。佐倉はその白い綿を目で追った。ふわりふわりと漂って、やがてその塊は着地する。鋼の上に。そう、鋼の鎧の上に、である。ぺったりと鎧につく白い綿を、佐倉はぬるぬるに汚れた手を開いたまま、茫然と見つめた。
頭の中で、露店商の言葉が意味を成す。
―――旦那ぁ、こうなったらもうどうにもならないです。覚悟して浴びてください。
それは天幕の入り口で、露店商がモントールに言った言葉だ。その時、こちらはすでに漂い始めたフィフィ姐さんに夢中で、服を着せられて天幕の奥へと踏み出したのだ。モントールは、そんな自分の為にフードを被せてくれた。
「あ……」
フードを被せるために、この鎧兜の男はそのままの格好で佐倉の後を追ったわけで……
佐倉の脳裏に、追い討ちをかけるように鎧兜の男の発した言葉が蘇る。―――『天蜘蛛の糸』は、なあ。体験するとなるとオオゴトで、まあ、一見するだけなら祭っぽくていいと思うんだが……
完全に血の気が引いた。おそるおそる指を伸ばす。
鋼に包まれた手の甲に触れる。案の定、ぬるり、とした。そうとしか言いようがなかった。ぬるり、だった。
「ぅあ……!」
指先で拭った飴を見つめて、佐倉はようやく完璧に把握した。
つまり自分が天蜘蛛体験に没頭している間、漂う天蜘蛛の糸から身を護る術のなかった男は『覚悟して浴び』続け、結果、見事に全身鎧が飴でぬるぬるにコーティングされるという―――
「ササヅカ……?」
飴でコーティングされた男が、訝しげな声をあげる。
佐倉は叫んだ。
「ふぎゃあああああ」
そのまま鎧兜の腕を掴む。ぬるりとなめらかに指が滑った。指先に少しも凹凸の感触がなかったのは、その鎧が丁寧に丁寧に匠の技術で作られた証だ。言い換えれば、べらぼうにバカ高い鎧ってこと。さらに言い換えれば、もし鎧に何かあったらグレースフロンティアの末端隊員では弁償できないくらいの一級品ってことだ―――佐倉は、一度切った悲鳴を再び上げた。
「ごめ、ごめんなさっ―――!!」
なんでこんな所に高級品を身にまとう人を連れてきているのか! 慌てた。かつて膨大な量の鎧磨きを行なったこの腕が言っている。このぬめり、完璧に落とすのは相当、骨の折れる作業だと……!
「出よう、モントール、今すぐ出よう!」
佐倉はモントールの腕を取った。無理やり天幕の入り口へと向かって歩き出す。
「まだフィフィが巣に戻っていないが、もういいのか?」
「もういいもういい! お腹いっぱいだから!」
漂う小さな姐さんたちが、こちらの動きを察知したのか不満そうな鳴き声を上げた。最初にわたあめを食べさせてくれた姐さんであろうか。引き止めようとするように佐倉の服の袖を引っ張った。何このシチュエーション。飴でコーティングされ男の腕を掴んで無理やり歩かせながら、どえろ可愛いお姐さんに腕を掴んで引き止められるとか。
どえろ可愛いフィフィにはおおいに惹かれたが、モントールの鎧の状態のほうが心配だった。
佐倉は天幕を払いのけ、外に飛び出した。
外では、モップ片手の坊主男がこちらを注視していた。
「今、中から天蜘蛛じゃありえんような叫び声が上がったから何事かと……」
「拭く物ないですか!?」
モップ片手の男は、佐倉の後ろの鎧兜を見て、瞬時に理解したらしい。
「こりゃヒデェ」
天幕外で確認すれば、よりはっきりと惨状が見えてくる。鎧兜は飴コーティングという表現が、決して間違っていない状態だった。
「旦那ぁ、浴びましたねえ」
のったり口調の露店商も露店から振り返ってそう言った。
「お連れさん、コートをこちらへ―――それじゃあタオルをどうぞ」
佐倉は露店商にコートと手に持っていたカップを渡した。引き換えに大判のタオルを受け取ると、モントールの兜にタオルを被せた。
「ササヅ―――っ」
佐倉はタオルの両端を自分の方へ思い切り引っ張った。こちらが引っ張れば、頭からタオルを被っているモントールも屈まないわけにはいかない。身長の高いモントールと佐倉が同じ目線になる。
屈んだモントールの兜の頬についた汚れを、佐倉はそっと拭った。
べとべとしている分、汚れが広がるばかりだ。
佐倉は呻き声を上げた。
「ごめん。これたぶん、拭くだけじゃ落としきれない」
もっとちゃんと天蜘蛛の糸がどんなものか、聞いておくべきだったのだ。
モントールは、佐倉が「こうしたい」と望めば、いくらでも付き合ってくれる。
それはこの街に来た時からずっと変わらないことだった。
常に佐倉が、早く街に馴染むように、悩みを抱え込まないように気を使ってくれているのだ。それもまたこの街に来た時からずっと変わらないことだった。
夕食に誘ってくれることだってそうだ。この鎧兜の男は『鎧』と『兜』だ。しかもその『兜』を決して外さない人なのである。その『兜』を決して外さない人と夕食に行くとどうなるか。
あら不思議。佐倉だけ食べ物をかっ食らうことになる。つまり奢ってくれるうえ、モントール自身はこちらの話を朗らかに聞くだけなのだ。勿論、最初は佐倉も面食らったし、それではあまりにも『一緒に食事をしている』とは言いがたいから、断ろうとした。しかしこの穏やかな男、なんとも不思議な交渉能力を持っていた。気付いたら佐倉だけがご飯をかっ食らう状況に陥っていることが何度も続き、そのうち佐倉が折れた。食費が浮くのは、素直にありがたい。それにモントールは聞き上手で話上手だ。一緒にいて楽しいと思える相手の誘いを断るのは、佐倉には難しかった。
だが、この一緒にいて楽しい男は、注意すべき相手でもある。
この男は、甘やかしてくる傾向が強い。その甘やかし方は際限が無い。「こうしたい」といえば、いくらでもつきあってくれるだろう。こちらで踏みとどまって断らないと、モントール自身がどう思っているかは分からないが、迷惑をかけてしまうことになる。
今も、だ。話を事前に聞いて、自分が踏みとどまるべきだった。モントールの鎧を汚しまくってでも、わたあめが食べたい、と我儘を言うつもりではなかったのだ。
佐倉は反省して項垂れた。
「ごめんなさい」
「ササヅカ、何に謝ってる?」
兜の顔を拭くこちらの両手を押さえ、モントールがさらに体勢を低くした。下から覗き込むようにこちらを見つめる。
「だって、こんなに汚れてしまって―――」
「大丈夫。こんなもの洗えば済む問題、だろう?」
「いや、洗えば済むってあっさり言うけど、今、強風が吹いて砂でも巻き上がったら、砂利が全部べっちゃりあますことなく鎧に張りつくからね? それを取ろうと思って払っても、腕や手もべたべたしているから、ジャリジャリが広がるよ? きっと関節部とかに砂が入ってギシギシして物凄く不快だからね?」
「悲痛そうな顔して、ものすごく細部にわたって不快さを伝えてくるなあ」
モントールはそう言って、手をこちらに伸ばしかけ、ぴたり、と止めた。
いつもの、ぽんぽん、は来なかった。
モントールは肩をすくめて、伸ばした手を降ろした。
鎧兜の男が身体を起こす。少し思案するように首を巡らせた。
「騎士団のパレードまで、あまり時間の猶予がないな」
まさかこの人、この甘い蜜でコーティングされた状態で観客ひしめくパレードを観るつもりだろうか。それはまずい。たぶん他の観光客の皆様的にも大迷惑だと思う。佐倉は懸命に首を振った。
「いや、そんなものより今は洗うことを考えよう、ね!」
「そんなものって、パレードの往路、復路は祭のメインなんだけどね」
モントールは再び手をこちらのほうへ伸ばした。
手が、ぴたり、と止まる。
兜から笑い声を上がった。
「確かにこれは困ったな。早急になんとかしなくてはいけないな」
「うん! そうしたほうがいい!」
佐倉は激しく頷いた。鎧に何かあったら、一大事だ。
「じゃあ、鎧を替えに行こうか」
「うん!」
「シャワーを浴びる時間もあるとありがたい。どうも中まで糸が入ったらしい」
「うん、大丈夫!」
「ササヅカも髪に少し糸がついてるな。洗ったほうが良さそうだ」
「うん、濡れタオルかなんかで拭くよ。それじゃ一度本部に」
「よしササヅカ。俺のアパートはこっちだ」
「うん! ……うん?」
佐倉は颯爽と歩きだした鎧兜の男を、目で追った。
うん。あれ、おかしいな……本部に一度戻るつもりだったんだけれど……あれ?
モントールが振り返った。佐倉が立ち尽くしているのに気付いて、彼は立ち止まった。
「ササヅカ」
朗らかであの陽だまりのような温かな声がこちらを呼んだ。
「早くおいで。間に合えばバルコニーで騎士団パレードを観られるよ」
「あ、うん」
柔らかな陽だまりのような声と手招きに、佐倉は素直に頷いた。
モントールの元へ行く前に、紺地の布を頭に巻いた露店商が露店から身を乗り出した。
「お連れさん、お土産をどうぞ」
先ほど、露店商にコートと一緒に渡したわたあめカップが差し出された。
モントールが再度こちらを呼んだ。佐倉は露店商にお礼を告げ、山盛りのカップを受け取ると、モントールの後を追って駆け出した。
露店商は、走り去る子供の背を目で追った。
「ササヅカ、ねえ」
珍しい名前と珍しい肌の色をしていた。名前は違うが……珍しさで言えば、合致するような気もした。外遊のモントールが連れている所も、あれが言った情報にかすっているような気がしなくもない。考え込む露店商の背後で、天幕内の床掃除に戻ろうとした坊主男が天幕の出入り口の幕を上げて、ぎゃあと叫んだ。天幕の入り口に、フィフィ達が大量に押しかけていたのだ。
な、何してやがる巣に戻れ、とモップの柄で追い払う坊主男の華麗に避けながら、彼女らは一斉に外に向かって手を振った。坊主男も釣られて振り返る。
先ほどの子供が、厄介なグレースフロンティアの男とともに歩いていくのが見えた。
別段、何も変わったところはない。
坊主男は、気付かなかった。
その子供の持つ白い綿が山盛りのカップが、ほんの少し揺れたことに。
そして、白い綿の中から、小さな小さな手が飛び出したことに。
その小さな小さな手が、ひらり、ひらり、と天幕の方へ振り返されたことに。
もしかしたら、そのまま目を凝らしていれば、坊主男もその異変に気付いたかもしれない。
だが、運悪く―――坊主男は露店商に呼ばれて視線をそらしたところであった。
「おうい、客さんと連絡を取ってくれ」
露店商がのったりと指示を出す。坊主男はモップ片手に、鋭く視線を投げた。
「客さんてぇーと、あれですか」
坊主男の脳裏に浮かぶのは、どうしても目につくその腕だった。その髪より、その均整の取れすぎた顔より、その恐ろしい瞳より、今はその隻腕が目につく客人だ。
「そう」
露店商が雑踏に消えた背を思い浮かべながら、のったりと口にした。
「探し物、見つけたかもしれねえってなあ」