白天祭 ―天蜘蛛の糸 1―
グレースフロンティア本部の入り口を抜けた時、佐倉は外のまばゆさに立ち止まった。人の波の中で立ち止まれば、当然すぐさま背中を押されてしまう。バランスを崩し、慌てて一歩を踏み出そうとすれば、鋼に包まれた掌が肩を支えてくれた。
獅子門を抜け、人の波に埋もれる前に、モントールが本部の外壁前で居場所を確保してくれた。
「すごい人の多さだね」
予想はしていたが、大通りは人で溢れかえっていた。これでは流れに沿って歩くことはできても、立ち止まって、通り脇に立ち並ぶ露店を眺めるのは大変そうだ。でも人の多さは祭が盛況な証とも云えるだろう。大通りは、陽気な音楽と人の笑い声と美味しそうな香りに満ちていた。
「ムドウ部隊長に、感謝だな」
モントールが佐倉とともに往来を眺めながら、そう言った。
「新兵部隊員が例年より忙しいことは分かっていたから、交渉、どんなに粘ってみても断られると思っていたんだが」
「モントールが休日のお願いをしてくれたの?」
「休日のお願いというか、こちらが始めに言っていたのは、祭の時に一時間でもいいから時間をくれってことだな。それが休日になったのは、ムドウ部隊長が方々に気をつかってくれた結果だろう」
「方々に気を……でも、ラックバレー、ものすごく不機嫌だったよね」
佐倉は、心に引っかかり続けている四階での出来事を、ぽつりともらした。
ムドウ部隊長は、モントール曰く『方々に気をつかってくれた』らしいが、どうやら、ラックバレーには気をつかわなかったようだ。結果、ラックバレーは棺桶に片足突っ込んだまま、仕事続行である。そりゃラックバレーだって怒るに決まっている。最初、その話が出た時は、ムドウ部隊長にちょっとゴネる程度だったように思っていたのだが、扉の向こうにこの隣の男――モントールが登場してからは空気が一変した。
ラックバレー、本気で怒っていた。
佐倉は思い出して、気落ちした。
いつもの絡んでくる感じでも、ぐだぐだぐだぐだ文句を言う感じでも無かった。今起こっていること全てがどうでもいいとばかりの沈黙と何かへの嫌悪感が全身から発せられていた。ラックバレーはそこで起きている状況、全てを拒絶していた。佐倉が何より動揺したのは、こちらが見ても、視線が一度も合わなかったことだ。痩身猫背の男は、黙って申請書を記入していた。決してこちらに目を向けなかった。そのいつもと明らかに違う様子に、佐倉の方が動転した。――さっさと行って、楽しんで来い。ムドウ部隊長が、いつもと変わりなくこちらを急きたててくれなければ、一歩も動けずにオタオタとそこに座り続けていたことだろう。
「ラックバレー、そんなに休日が欲しかったのかなあ」
それなら本当に申し訳ないことをした。祭と降ってわいた休日を安易に喜んでしまったが、そんな姿見せるべきじゃなかったのだ。祭の後、本部に戻ってきても、ラックバレーがあんな状態のままだったら、どうしよう。佐倉は不安に陥った。
ラックバレーとあんな状態のままでいるのは、嫌だった。
「大丈夫、じゃないかな」
モントールが穏やかに言った。
「おそらく今日のあの様子も、ササヅカが原因じゃないと思うし、ね」
「え?」
顔をあげて隣を見れば、鎧兜の男はこちらの頭を優しく撫で叩いた。
気にしなくても、大丈夫。
そう言われた気がして、ちょっと不安が軽くなった気がする。ゲンキンだなあ自分。佐倉は呆れた。この隣の男の『ぽんぽん』は、最初の大混乱時の刷り込みが効いているのか、安息効果がハンパない。これひとつで、気分が上向くんだから、自分の単純さ加減が分かるというものだ。
「それに少々こちらも――」
モントールが言葉を切った。ゆっくりと首を傾げて何かを考えているようだった。
「ああ、そうか。うん。これは、気に食わない、だな」
「ええ?」
穏やかに物騒な発言をしだした隣の男に、佐倉は呆気に取られた。
「な、何が気に食わないの?」
「大事な弟が目に見えて気落ちしているのが、ちょっと、ね」
「あ、ちが、祭が楽しみじゃないわけじゃなくて……!」
佐倉は慌てて言った。せっかく誘ってくれたモントールにも失礼な態度だ。こちらが必死で言い募ろうとした時、モントールが頭に置いたままだった掌でぐしゃぐしゃと撫でまわしてきた。鋼の指の関節部に、髪が少し引っ張られる感触が頭皮に残る。
「違う違う。ササヅカに文句をつけたいわけじゃない。むしろそういう顔をさせている相手に、というか――おかしいな。以前はあの態度でも特に気にならなかったんだけど」
再び考え込むように小首を傾げた兜の兄さんは、ゆっくりと首を振った。
「まあ、いいか――ササヅカ、もし気になるなら、四階に戻ろうか?」
佐倉は怯んだ。そりゃラックバレーのあの様子は気になる。だが、今、四階に戻って、ラックバレーが再び、あの調子だったら、自分は立ち直れるだろうか。
ちょっと時間を置きたかった。
佐倉は首を横に振った。モントールは「うん」と穏やかに言った。
「じゃあ四階に戻らないのなら、俺と一緒に祭を楽しんでくれって、お願いしてもいいか?」
さすがは「兄さん」だった。
モントールは、こちらが今すぐに四階に戻るのは怖いと思っていることに気が付いている。それに、ラックバレーが仕事なのに、自分だけが祭を楽しんでいいのかと悩み始めたことにも気付いているのだ。
だからこうして、こちらの悩みが軽くなるように、こんな言い方をしてくれる。佐倉が自発的に楽しんだのではなく、相手にお願いされたから祭に参加したという言い訳の余地を残してくれているのだ。
「うん、ありがとう」
佐倉は素直にお礼を言って頷いた。
「でもそういう言い方しなくても大丈夫。せっかくの休日だもん。祭は全力で楽しむ。むしろ、こっちのしたいことばっかり言って、振り回すからそのつもりでいて」
そう言ったら、頭が鳥の巣になるくらいかき混ぜられた。
ええと、まずはこの撫で回し方について、文句を言ったほうがいいかもしれない。兄さんよ、若干、最近、加減知らずで、首が折れそうだ。
「王城騎士団のパレードまでには――まだ少し時間があるな」
モントールがのんびりと周囲を眺め、それからこちらへと兜の正面を戻した。
「時間まで、祭、見てまわろうか」
「何か食べ物とか飲み物とかお菓子とかわたあめとかかき氷とか串ものとか林檎飴とか買っていい?」
気合を入れる時は、食べるのが一番だ。
モントールが兜の中で朗らかに笑った。
「つまりお腹が空いているってことだな」
「いや、あのね。単純にお腹が空いているってわけじゃなくて、こっちだって少しはちゃんと考えて……」
でもよくよく考えたら、今日の朝は何も食べていない。あれ、それに、昨日の夜、何か食べたっけ?
考えていたら、余計にお腹が空いてきた。
「よし、それなら露店巡りで気になるものを食べていこう」
モントールのその声で、佐倉たちは壁から離れた。大通りの中心は、パレードの為の整備が始まっていて、通行スペースは通りの両脇に限られていた。道規制がされている上、脇に立ち並ぶ露店に足を止める人や向かってくる人の流れもあって、二人で肩を並べて歩くことは出来そうにもない。自然と佐倉が後退し、鎧兜の男を前にして歩く形になった。
「ワターメ、カキゴーリが何を指しているか分からないが、ゲテモノ、というか変り種の食べ物と言えば、『天蜘蛛の糸』とかは一見の価値があると思う」
モントールが肩越しにこちらに向かってそう言った。
どうやら、佐倉が先ほど挙げたわたあめやかき氷は、モントールには通じなかったらしい。つまり、この祭には、それらが存在しないってことだ。佐倉は少し落胆した。いや、そもそも、ワターメさんやカキゴーリさんはゲテモノでは断じてない。祭のド定番である。それなくして、いったい何を楽しめというのだ白天祭。
「一見の価値がある食べ物、って、食べ物としてはどうかと思うんだけど」
モントールが先ほど言った『天蜘蛛の糸』なる食べ物のことを思って、佐倉は言った。
一見の価値があっても、結局それは、一食の価値は無いってことだろうか。そもそも、ゲテモノとして挙げられた食べ物に、『蜘蛛』という名前が入っている時点で、佐倉は一見もしたくなかった。
「『天蜘蛛の糸』は、なあ。体験するとなるとオオゴトで、まあ、一見するだけなら祭っぽくていいと思うんだが」
「いやいやいや蜘蛛を食べるのはちょっと……というか絶対、ヤダなあ。だって蜘蛛って……」
思わず、両指をわきわき動かし、蜘蛛の動作をしてしまった。それを口に入れるとか――
「普通のもの食べよう! ね、普通のもの! ゲテモノに挑戦したいわけじゃな、ぅわっと」
横の人にぶつかって、その拍子に眼前の男の鎧の背に手をあてた。
前へと少し押された形になったモントールは、肩越しにこちらを確認した。
「ごめん、ちょっと躓いて」
「ササヅカは、気付いたら後ろからいなくなって、人込みで埋没してそうだなあ」
少し心配そうな声音だった。
「抱き上げて運ぼうか」
その言葉、冗談には聞こえなかったから、この人、本気だと思う。
「だ、大丈夫だから。ちゃんと迷子にならずに歩く」
兄さん、それは「弟」にはやりすぎだ。佐倉は即座にお断りした。モントールは出会った時から、過保護な人だった。こちらを「弟」として存分に甘やかしてくる。でも抱き上げて運ぶのは、兄弟としてはやりすぎだし、そもそもどんな関係の人にだって、「道が混んでいる。よし抱っこだ」とはならないはずである。
佐倉としては、この年齢で、「運搬」ではなく「抱っこ」なんてされたら、恥ずしさで軽く死ねる。だから、モントールの申し出は丁重にお断りして、かわりに上鎧と下鎧の継ぎ目、可動できるよう鋼で覆われていない腰部分に指をつっこんだ。その隙間から上鎧を手で掴む。よし、ここを掴んでいれば、絶対にはぐれることはないだろう。
佐倉はモントールの鎧の感触を指に感じながら、自分の行動をマジマジと振り返った。
随分と鎧の扱いに慣れたものである。以前なら、こんな所に指をつっこんだりしなかったはずだ。どこか変な所を触って指を潰されたらと思うと怖くて、自分から鎧に手を伸ばすことなどできなかったはずなのに。
鎧磨きやら、鎧兜の先輩方と訓練するうちに、そういう感覚が麻痺してきたらしい。今なら鎧の着方だってちゃんと分かるし、モントールの着ている鎧が目が飛び出るほど高そうなこともなんとなく分かった。
「――あいつら」
歩きながら、モントールの鎧に視線を落としていた佐倉の耳に、鎧を着込んだ当人の呆れたような声が入ってきた。
「ササヅカ悪いんだが、あそこの露店、覗いて行っていいか?」
モントールが軽く振り返りながら、指差したのは、道の先にある円形広場の露店だった。露店の後ろには大きめの天幕が張られており、ちょうどタオルを頭に被ったお姉さん二人組みがふわふわとした雲のようなお菓子をカップに載せて天幕から出てきた。佐倉は目を奪われた。あれ、そのカップの中身、さっきゲテモノ扱いされかけたお祭代表ワターメさんに見えるんだけど、気のせいですか。
頭にタオルを被ったお姉さん達は、そのカップのふわふわを摘んで、美味しそうに口に入れている。
やはりそのカップの中のふわふわは、祭りには無いと思って落胆した例の物のように見える。いやそれにしか見えない。
佐倉は思わず、掴んでいる鎧を引っ張った。
「モントール、モントール! あれ! あのお姉さん達が持ってる――あのふわっふわで、出来たてはあったかくて、きっと食べると口の中でふんわりしつつもサッと溶けて甘みが広がる――祭ド定番なあの食べ物は、わたあめでもワターメでもないとしたら、ここではいったいなんて呼ばれてるの!?」
佐倉は、タオルを頭に被ったまま、今ローブを露店商に手渡したお姉さん達を指差した。
モントールは佐倉の視線を辿り、再び露店へと兜を動かした。
「あれは――さっき話した『天蜘蛛の糸』だな」
あれが、『天蜘蛛の糸』。
佐倉は呆気に取られた。
なんとまあ。祭のド定番、ワターメさんはこの街では、ゲテモノ、変り種の食べ物扱いをされているらしい。一見の価値あり、じゃない。あれには一食の価値、確実にあるでしょ。
「少し話をしてくるだけだから、ササヅカは近くで待っていても――」
モントールの言葉に佐倉は激しく首を振った。
「一緒に行くよ。『天蜘蛛の糸』食べてみたい」
モントールが驚いたような様子で振り返った。
「食べるの? 『天蜘蛛の糸』、さっき、けっこう拒否反応を示していたように思ったけど」
そりゃその名前から、どうやってワターメさんを連想しろ、と。
「うん、食べてみたい!」
佐倉は今度は激しく頷いた。
モントールがこちらを見下ろし、うーん、と唸る。
「そうかあ、あれが食べたい、かあ。『天蜘蛛の糸』は相当……」
モントールは呟きかけて、その後、首を振った。
「まあ、いいか。ササヅカが経験してないものなら、悪くはない、か。よし、露店商との話が終わったら、『天蜘蛛の糸』、体験してみような」
「やった、うん!」
佐倉は大喜びしながら、はて、と思った。
ワターメさんって、何か『体験』が付随するもの、だっただろうか。