蝶のはばたき 4
銀縁眼鏡の男は、バラッドの視線を追った。
だが、その長い足が、引き返すようなことはなかった。
医務室長は、戸口からベッドに横たわる男に声をかけた。
「意識が遠のきかけたら、大声で呼んで」
呼べるもんなのか? バラッドは首を傾げた。意識が遠のきかけているヒトってのは、果たして大声を出せるものなのだろうか。しかしバラッドは、眼前の男にそれを指摘したりはしなかった。晴れやかな笑顔を浮かべ、ベッドの上の『傭兵のヒラキ』がどうなるのか、今後の動向を見守ることにした。
医務室長がササヅカに手を伸ばす。指先が首に触れた。続いてその顔を覗きこみ、閉じられた目の下を軽く押し下げた。バラッドが予想するに、その目の縁は白い、に違いない。
「珍しい肌の色」
医務室長はそう呟きながら、ササヅカの手首を掴む。やはり次に見たのは、爪だった。
「どう、なんスか」
そう訊ねたのは、上を向いたまま、全く状況が見えていないラックバレーだった。
「生きてるね」
「いや、生きてるのは、素人でも、分かるんスけどね」
少し苛立った口調。
珍しい。バラッドはベテラン新兵部隊員を眺めた。
医務室長は、真面目に話していると頭にきて殺したくなる奴だ。
グレースフロンティアは上にあがるほど、頭のおかしい奴ばかりになる。そんな野郎どもに真正面から向かっていくと、たいてい相手にされずにいなされる。最古参の新兵部隊員は、そのことをちゃんと分かっているはずだ。―――いや、分かっているはず、なのに。
良く分かっているはずの男が、苛々しているのが伝わってくる。
バラッドは隣の男の様子をじっくりと眺めた。
焦れている。
そう見えた。ラックバレーは、性急に答えを欲しがっている。
思えば、ずっとそうだ。
こいつは本部に駆けこんでくるほど、答えを欲しがっていた。
今、その腕に抱え込んでいる子供が、無事なのかどうか。
ササヅカの命に、別状が無いのかどうか。
焦れて、苛々するほどに、医者の答えを欲しがっているのだ。
過剰反応、とバラッドは思った。
ラックバレーは、押し付けられた『世話係』としては、過剰な心配をしている。これがいつものラックバレーだったならば―――「世話係じゃ、ねえ!」と怒鳴りながら肩に担いで運び、医務室のベッドにササヅカをぶん投げたはずだ。そう。うちのギルドじゃ、失神する奴は見慣れたもの。たいていラックバレーは、派手な喧嘩をした奴らを医務室のベッドにぶちこみに行く係。ササヅカだって、常のような対応でいいはずなのに。
ラックバレーは、常のような対応をしなかった。
それは即ち、常のような対応では、自分の不安が拭えなかったからだ。
子供の『世話係』としては、過剰反応。
だがこれが、子供、ではなく―――
『女』と思っているのなら?
バラッドは、自分の考えを即座に否定した。
いや、ラックバレーはササヅカを女とは思っていない。腕の中の子供が、おそらく―――まだ未確認ではあるが、ほぼ間違い無く―――少女であるという事実を、ラックバレーが気付いているとは思えなかった。その事実に気付いているのなら、医務室長に診てもらおうと駆け込んでくるはずがない。
少なくとも自分なら、とバラッドは愉しげに思った。
少なくとも自分なら、別の女医のところへ行く。命に別状が無いのかどうか、焦れる程の心配する女の肌を、医師であれ他の男に拝ませてやる趣味は持ち合わせていない。まあ、育てる一環としてそういう戯れに走る可能性も無くもないが……育てる対象が、殴っても起きないくらいに眠っている場合、意味が無い。
隣の病的に白い痩身男が、複数で戯れる嗜好が無い限り、この整った容姿を持つ医務室長の前に女を連れてくることはないだろう。つまり……と、バラッドは、ラックバレーの現在の心について考えを巡らせた。
つまり、ラックバレーは、ササヅカを女とは思っていない。女と思っていないが、意識がなけりゃ不安に襲われる程、気にかけている。気にかけているにも関わらず、ラックバレー本人はまだ、自分がササヅカを気にかけていることにすら気付いてない。
自分の感情に気付いていれば、ラックバレーはもっと盛大に苦悩し、だが周囲には冷静に見えるようササヅカを連れて戻ったに違いない。なんせ、自分の感情に気付いた時には、「少年が好き」という不名誉な事実に辿り着くわけである。ラックバレーが自分の感情に気付いていたのなら、その不名誉な事実に周囲が気付かぬよう隠したはずだ。
結論。
ラックバレーは、自分の腕の中にいる存在に、無意識に惹かれている。
そして、ちょっと後押ししてやるだけで……きっと、面白い方向へハマる。
自分は男が好きなのか、と悩むはずだ。こいつ、きっとハマると相当悩む。バラッドは想像して、すでに愉しくなっていた。こいつが悩んだ時の、突き抜け方はもう常軌を逸している。最高に卑屈で、最高にひねくれて、最高に面白いに違いない。
バラッドの口が、弧を描く。
勿論、後押ししてやらなくてはなるまい。全力で。
そして事の成り行きを、しっかりと見守らせてもら―――「って、……しまった」
バラッドは、今、動向を見守っていたものがあったことを思い出した。隣の男が面白すぎて、すっかり忘れていた。医務室長の肩の先、室内へと意識を向ける。縋るようにこちらを見ていた目が、死んだ魚になりかけていた。
バラッドは吹きだした。
「医務室長、医務室長! 後ろ、死ぬぞ!」
ササヅカの爪に触れていた医務室長が、素早く顔を上げた。室内を一瞥し、呆れたように声を上げた。
「大声で呼べと言っておいただろうに」
いや、理不尽すぎるだろ。
バラッドは腹を抱えて笑った。
さすがは医務室長である。
「意識が混濁すると、大声は出ないって実証されたな」
見守り損ねたが、結果は分かった。そもそもあいつ、混濁するまで声をかけないとは、本当にケナゲな患者である。
医務室長はササヅカの手を腹の上に戻し、その頭を軽く撫でた。
「この子に必要なのは、睡眠だね。後で、もう一度詳しく診るよ。今は隣の部屋へ」
医務室長はそう言いながら、自分の両手をすり合わせるような仕草をした。まるで何かを探すように、視線が彷徨い、その銀縁眼鏡の飴色の瞳はラックバレーの顔へと向いた。
見つめる先に、鮮血に染まった処置用手袋がある。
「それはもう使えないね」
ラックバレーの顔の上を見つめて呟く。それから、鮮血に染まって上を向く男をマジマジと眺めた。自分が投げつけた物で真っ赤に汚れた男を見つめ、医務室長は首を振った。
「医務棟の白い壁を汚されては困る―――君は顔を洗ってくること」
そう告げると、医務室長はさっさと扉を閉めた。再び鍵のかかる音が続く。
これもまた、さすがは医務室長だった。やはり、究極に理不尽。その汚れた手袋を投げつけた本人が言う台詞じゃ、ねえだろ。バラッドが横を見やれば、ラックバレーは一切の動きを止めていた。しかし、血まみれのこめかみに、くっきりと血管が浮いていた。
ラックバレーはゆっくりと、バラッドのほうを向いた。
顔は上固定のまま、おもむろに、こちらへササヅカを差し出した。
バラッドは、差し出されたササヅカを見つめ、小首を傾げた。
「なんだそれ」
「いや、なんだも何も、ササヅカっス」
「いや、だから、なんでこっちに差し出してんの?」
「いや、だから、俺は顔を洗ってこなきゃ、駄目なんスよね?」
さしものバラッドも、一瞬、沈黙した。
「え、何、お前。俺に預けんの?」
思わぬ所で、思わぬ物が転がり込んできた。
バラッドは、ラックバレーの腕の中で眠るササヅカを眺めた。
「まあ、見てていいってなら、俺は構わねえけど」
そして、ある一点を、じっと、見つめる。
何が入っているのか、紙袋の乗った腹より少し上。その細い首よりは少し下。
じっと観察し、小首を傾げる。
哀れにも、判断つきかねた。
やはり、引っぺがすか。
バラッドは目線を跳ね上げ、上を向く男に頷いた。
「じゃあ、遠慮無く見てるぞ?」
「いや、遠慮する意味がわからねえ。こいつは、ぶっとんだ奴ッスからね。目を覚ましたら、いや覚まさなくても、絶対に何かやらかしますよ。何か遭ったら困るんで、凝視していてください」
バラッドは、再びササヅカの、鎖骨より下で鳩尾より上の部分を見つめ、晴れ晴れと笑った。
「分かった。何か在るかどうか、凝視していてやるから、行ってこい」
バラッドは、差し出された身体の背と膝裏に手を伸ばした。
ラックバレーの両腕は、反対側からササヅカを持ち上げている。
バラッドは、ラックバレーがこちらの腕にササヅカを落とすのを、待った。
だがササヅカの重みが、自分の腕にかかってこない。
微妙な一瞬に、バラッドはラックバレーを見やる。
ラックバレーは上を向き、こちらを全く見ていない。
バラッドは、揶揄するように口元を歪めた。
ラックバレーは無自覚だ。
だが無意識だからこそ、ラックバレーは感情を隠さない。
バラッドは笑った。
こいつ、無自覚に主張してやがる。
手離したくない、と。
バラッドは、同じ膝裏の位置にあるラックバレーの腕を、人差し指で軽く叩いた。
「ほら、寄こせ」
故意にこの言葉で、促した。
さらにもう一度、微妙な間が生まれる。一瞬の抵抗だった。その後、ラックバレーが腕を下ろし、バラッドの腕に少女一人分の重さがかかった。
ラックバレーは、数歩離れた。
そうして、自分の顔から血まみれの処置用手袋を引き剥がす。
「クソ、気持ちわりぃ」
赤い顔を拭い、手まで赤く染めあげる。たっぷりついた指先の血液に、思わず服で拭う。そして、顔をしかめた。自分が被害範囲を広げているだけだと気付いたらしい。
「洗ってこい」
こちらの言葉に、ラックバレーは頷いた。カウンター裏手の通路へと向かい始め、何かを思い出したかのように、ぴたり、と足を止めた。こちらに背を向け、結局そのまま歩き出す―――かと思いきや、血まみれの手でその髪を掻き乱し、悪態をつく。そのまま踵を返し、大股にこちらへ詰め寄ると、ササヅカの腹の上へと手を伸ばした。
そのまま、腹の上の紙袋を鷲掴む。
目が合う。
血まみれのラックバレーが、カッと目を見開いた。
なんだその鳥的威嚇方法は。
「いや、これがここにあるのは非常にマズイだろうってだけで、つまり、俺にそういう趣味があるわけじゃねえ……!」
そう怒鳴ると、痩身男は猛然と去っていく。
バラッドはその背を黙って見送った。
完全にラックバレーが姿を消した後、バラッドは抱えているササヅカを覗き込んだ。
「なあ、今のはどういう意味だ」
返ってきたのは小さな寝息だけだ。
腕の中の子供は、こちらの胸に頭を預けて眠っている。
すやすやと。
安心しきった小さな寝息と、温かな体温。
バラッドは、むにゃむにゃと動いたその口に、思わず柔らかな笑みを浮かべた。
「そんなに安心してる場合じゃあ、ねえんだけどなあ―――お嬢ちゃん?」
バラッドはそう呟くと、その髪に唇を落とした。
髪に触れたまま、そっと囁く。
「よし、ササヅカ。寝心地の良いベッドへ案内してやろう」