蝶のはばたき 3
「お前なら、他の野郎どもの愛想笑いよりは、格段にマシだろ」
肩で息をしている美童は、こちらの言葉に目を丸くした。
バラッドは笑いながら、続けた。
「絶対、カウンターから離れるなよ―――このギルド、カウンターがいないと、マジでまわらねえから、な?」
「な、にを、言って……」
美童が、うまく息を継げずに言葉を切る。
その隙に、バラッドは自分の城から外へ出た。
ロビーで何気無くこちらを見た傭兵が、足の裏に根が生えたかのように立ち止まった。そりゃ驚く。バラッド自身も、その隊員の反応が当然だと思った。
案内カウンターが、カウンターの外にいる所は、早々拝めるものではない。
グレースフロンティアの隊員の大半が、そう思っているに違いない。
カウンターに手をついているミカエル・ハヅィは、入隊して日が浅い。だから、バラッドがカウンターから離れても、不思議に思わないのだろう。――――今、獅子門にへろへろと駆け込んできた下がり眉の少年も、だ。
そしてどちらの少年も、バラッドがカウンターの外にいることより、自分のことに手一杯になっている。
ひとりは、突然のカウンター職に対応しきれず、ひとりは、ようやく辿り着いたギルドの柱に手をついて、激しく咳き込んでいる。
バラッドはそんな少年達を残して、上機嫌でカウンターを離れた。
カウンター裏手に広がる通路は、医務棟に通じている。ギルド創設当初は、医務室が一部屋あっただけだった。その部屋に、医療ギルドの問題児を引っ張り込んで『医務室長』としたのが、この医務棟の始まりだ。グレースフロンティアの規模が大きくなるに従って、本部は建て増しを繰り返し、いつの間にか医務室一部屋だったカウンター裏は、三階立ての医務棟へと姿を変えた。今や、本部正面の獅子門の間逆に、医務門まで設け、観光客や街住人の緊急外来にまで対応するようになっている。
「許可した覚え、ねえんだけどなあ」
バラッドは、小首を傾げながら、医務棟に入った。中は白を基調とした清潔感溢れる通路が続く。白い壁にする、という話も聞いた覚えが無い。
つまり、改築時のどさくさに紛れて、医務室長が注文したもの、ということになる。さすがは元医療ギルドの問題児。高額請求と横領と賄賂で私腹をこやし、最新医療器具を購入して医療ギルドを追放された輩である。『グレースフロンティアは金銭のある奴からなら、どんどんぼったくっていい』と冗談で誘ったら、見事に釣れた男である。
傭兵ではない。
だが、あの医務室長は、疑う余地無くグレースフロンティア向きの性格だ。
バラッドの頭の中で、遠い記憶が鮮やかに蘇った。
その記憶の中で、銀縁眼鏡の美丈夫が「グレースフロンティアって、最高に働きがいがあるよね」と薄い笑いをその顔に貼り付けて言っていた。その脇のベッドで、縫合中の副隊長が「そぉね、さいこーよぉ……」と力無い発言をした―――あれは、そう。副隊長が切り裂き魔に腹をかっ切られて、生きるか死ぬかの瀬戸際だった時のことだ。運び込まれた医務室で、副隊長を待ち受けていたのは、まさかの治療費交渉だった。副隊長は価格交渉の途中で、涙した。常日ごろ操る得体の知れない女言葉も忘れ、懇願した。価格はどうでもいい。お願いだから、本当にお願いだから、戦場以外の場所で俺を死なせないでくれ、と。
副隊長は無事、生き延びた。その後、彼は火鉢通りの土地の権利を医務室長へ譲渡し、医務室長はその土地を売って、医務棟を建設したわけである。
さてその、全くもってウチ向きな性格の医務室長は、いったいどこにいるのやら。
バラッドは医務棟二階への階段を見上げた。それから、処置室へと続く一階へと視線を戻す。急患が無い時は医務室長は上の階にいるのだが……。
もう一度、階段を見上げ直した時、子供を抱えた痩身男が二段飛ばしで駆け降りてきた。
ラックバレーだ。目が合った。直後、痩身猫背のラックバレーは、階段中腹で立ち止まった。この男もまた、足の裏に根が生えたような止まり方だった。
「歩いてる」
ラックバレーは、魂を抜かれたように呟いた。
「カウンター内、ひきこもりが、歩いてる」
入隊八年目のベテランからすれば、これは相当の珍事だったに違いない。
バラッドは笑った。
「お前さらりとひでえこと、言うなあ」
「いやー、ずっと座ってるから、歩く筋力ねえのかと」
ラックバレーが口笛を吹いた。
「あとは、いつ食べてるのかと、いつ寝てるのかが分かれば、グレースフロンティアの七不思議のひとつは解決っスね」
そう言うと子供―――ササヅカを、抱え直して、階段をおりてきた。
バラッドから見るに、ササヅカはまだ目を覚ましていなかった。腹の上に紙袋をのせられ、すやすやと眠っている。血色はいい。バラッドはさっとその手に視線を投げた。片手は握りこんでいる。まるで何かを持っているかのようにだ。一瞬見えた親指の爪が、少し蒼い、気がした。
成程ね。
バラッドは、状況を把握した。
ササヅカが眠っている理由が分かったのだ。
こちらの見立てが間違っていなければ、ササヅカは、たっぷり眠ればそのうち起きる。
それが触診の前か後かは―――バラッドはラックバレーに気付かれぬよう、手の甲で口元の笑いを拭った。
願わくば、触診の後がいい。
このまま、すやすや眠っていてくれたほうが、断然面白い。
どうやら、抱えているラックバレーは、ササヅカの症状に気付いていないらしい。
「医務室長は、処置室らしいス。上の階で言われたもんで」
痩身男は説明をしながら、早足で処置室へと向かった。バラッドはゆっくりとその後を追う。―――まあ、見たいもんには確実に間に合った。こちらとしては、急ぐ理由は無い。
ラックバレーは、通路先の処置室の扉をノックしようとし、ササヅカを再び抱え直した。完全に弛緩している子供の頭部が揺れる。ラックバレーは顔をしかめた。抱えているものに、振動を与えないように、そっと足の先で扉を軽く蹴った。どうやら手でのノックは諦めたらしい。
そのまま、横に引く形のドアを、足で滑らせて開けようとし――
ラックバレーが唸った。
「クソ、鍵、かかってやがる」
「ああ、医務室長、処置中は閉じこもるからなあ」
バラッドがのんびりと答えた。
「――誰?」
室内から、涼やかな声がした。お目当ての相手の声だった。
医務室長だ。
途端に、室内から情けない男の悲鳴も上がった。
お前、それでも傭兵かと疑いたくなるような、情けない声で男は叫んだ。
「ちょ、医務室長、手! 手を止めないで! あんた今、俺の切開中……!」
いや、訂正する。そんな状況で手を止められたら、誰だって悲鳴をあげる。
バラッドは、その悲鳴に笑顔で、拳を固めた。
そして、強めに扉を叩いた。隣のラックバレーが、顔をしかめてこっちを見つめている。あんた、正気か。その目が言っていた。切開中の医者の手を止めさせるこちらの正気を疑っているらしい。勿論、正気に決まっている。こんな楽しい状況を見逃す奴のほうが、頭がおかしいのだ。
バラッドは、朗らかに室内へ呼びかけた。
「医務室長、忙しい所、悪いな。診てもらいたい奴がいるんだが」
「その声は――へえ、珍しい。カウンターが外にいる」
中の注意は、完璧に戸口に向いたらしい。
室内で男の怒声。
「今止めた刃先はさらに切るのか、それとも切らねえでそこで終わりか、どっちだ!」
バラッドは声無く、笑った。中の奴、どこの部隊の奴だろうか。ノリが最高にいいじゃねえか。
医務室長の声が、のんびりと続く。
「あ、うん。まだ切る」
「切るなら、一思いにやれえええええ!」
「一気にさばいたら、それこそ気持ちよく死ねると思うけど。ほらこの横、大事な血管が」
バラッドは、嬉々として口を挟んだ。
「なあ、医務室長。そいつ切り終える前に、できればこっちのを診てくれねえか。こっちも緊急かもしれねえんだ」
「ええ?」
医務室長の怪訝そうな声がする。
「せめて縫合してからにしないか。さすがにこのまま放置すると、一気にさばくのと同じくらい簡単に死ぬんじゃないかな」
その言葉に、バラッドは晴れ晴れと笑って言った。
「それだけ元気なら、大丈夫だろ!」
こっちの言葉に、室内が一瞬沈黙する。
続いて、椅子を引くような音がした。
「カウンターが、大丈夫って太鼓判を押したから、ちょっとあっち診てきていいかな」
「待て待て待て。おかしいだろ。おかしすぎるだろ! なんで医者が、事務員の言うことを真に受けてんだよ!」
バラッドはふき出した。中の奴は、本当にどこの部隊の奴なんだ?
バラッドは、新兵部隊最古参の痩身男のほうを向いた。中の奴、知ってるかと尋ねようとするのと、隣の痩身男の片足が持ち上がるのが、ほぼ同時。
次の瞬間、持ち上がった足が戸を激しく蹴った。
二度、三度。
蹴られた戸が、歪む。
「ぐだぐだ言ってねえで……」
ラックバレーの声が、食いしばった歯の隙間から、掠れてもれた。
もう一発、戸が被害に遭った。
抱きかかえた子供の頭部が、首の据わってない赤ん坊のように激しく揺れる。しかし抱えている奴は、もう気にかけるのを止めたらしい。
「さっさと診やがれこのヤブ医者が!」
室内が、完全に沈黙した。
続く金属音。トレイに何かの器具を投げつけるような音だった。こつこつ、という靴が床にあたる音が近づいてくる。内鍵が跳ね上がる音。そして、戸が―――開かなかった。ラックバレーが蹴ったせいで、戸が歪んだらしい。室内で舌打ち。続いて戸が一度、激しく揺れた。その一度の揺れで、窪んだこちら側が、出っ張った。医務室長が反対側から戸を蹴った、ということだ。
医者が、傭兵が四度蹴った戸を一発で直す、とか。
腹の中で笑いの虫が騒いだが、笑っている暇は無かった。
戸が開く。
赤茶色の長髪男の姿より先に、色鮮やかな赤色がラックバレーの顔面に投げつけられた。
さすがのバラッドも、予期せぬ『それ』に呆気に取られた。
『それ』は、まるでアイマスクのように、ラックバレーの目を覆っている。
赤色のアイマスクの正体は―――ゴム手袋だった。
処置用の、ゴム手袋。
しかも使用済みだった。
これは壮絶。
常に蒼白な顔は、血まみれ手袋で半分覆い隠されている。ラックバレーは口をかすかに開き、何も語らず、再び閉じた。血まみれ手袋を浴びた男が、何を思ったか、バラッドには分かりかねた。ただ、ラックバレーの腕が、震えている。どうやらすぐにでも拭いさりたい気分らしい。
当然だろう。
だがその腕は、今はすやすや眠るササヅカの為にある。
しかも、悪いことに、ぶつけられた処置用手袋は、ずるずるとラックバレーの顔から落ち始めていた。
そのまま、処置用ゴム手袋が落ちると、ササヅカの上に落ちることになる。バラッドの手が反射的に伸びかけ―――
その時だ。
ラックバレーが、ゆるゆると、上を向いた。
落ちかけていた血だらけの処置用手袋が、ラックバレーの顔の上に留まった。バラッドは感心した。見上げた根性だな、こいつ。本当なら、払い除けたいに違いない処置用手袋だろうに。首まで鳥肌立っているのが、ここからでも良く分かる。
「それで?」
ラックバレーに、血まみれ手袋を投げつけた男は、整った顔をこちらへ向けた。
「ヤブ医者に、診てほしいものって?」
バラッドは答えなかった。代わりに、隣の血まみれで上を向く男を指差した。
医務室長の銀縁眼鏡の奥の飴色の瞳が、ゆっくりと隣へ移っていく。
ラックバレーは上を向いたまま、医務室長がいると思われる扉前へ、抱きかかえている子供を差し出した。
血まみれの処置用手袋を顔に貼り付け、上を向く病的白さの痩身男。
その腕の中で血色良好な顔で、すやすやと眠る子供。
医務室長が、その二人をじっくりと眺める。
緩やかに、飴色の瞳がこちらへ戻ってきた。
「で、どっちが患者?」
思っていたことを真面目に問われて、バラッドはこらえきれずに吹きだした。
「ササヅカ、いや、子供のほうだ―――早く診てやったほうがいい」
バラッドは笑いながら言った。
「さもないと、死ぬぞ―――治療中の奴が」
医務室長の肩越しに見える治療用ベッド。
その上で、麻酔草の効力で動けぬ男が、縋るような視線をこちらに向かって投げていた。