蝶のはばたき 2
獅子門から、暖められた風が流れこんでくる。
医務棟から提出されたファイルに目を通していたバラッドは、その成分分析に口元を歪めた。――ソマグラハとリコデフェリン。毒、ではないが、こんなの体内に取り込んだ日には、そりゃ盛る。身体中が熱くなって、とりあえず服を脱ぎたくなるし、異性がそばにいたら相手の服もひん剥きたくなるに違いない。その成分濃度からいえば、依存度は低いし長期連用しなければ、身体への影響は無さそうだが、連用となると話は別。心臓に負担がかかって、腹上死が現実を帯びてくる。
媚薬として売り出されているなら、たいして咎める必要も無い。違法薬が流行しているのが夜街だったなら、愉しく逝け、と笑って一蹴したことだろう。だが、これが出回っている場が夜街ではなく、昼街なのが問題だった。昼街の問題は、グレースフロンティアの問題だ。うちの縄張りでこそこそと、栄養ドリンクを騙って観光客を釣る輩がいる。誤飲する観光客が後を立たず、白天祭が間近に迫った今、被害届も数を増していた。
観光客への注意喚起と、小銭稼ぎの鼠の炙り出しを早急にしなければならない。ただでさえ、クソ忙しいこの時期に、こんなトラブルを持ち込む鼠は、歓待してやるべきだ。事後処理なんて面倒臭いものを受けさせるつもりは無いし、本部地下の牢番長の手を煩わせるようなことにもしない。鼠は手厚く、その場で、後腐れ無いように、喰らい尽くしてやればいい。
幸い、誰もが殺気だってくるこのクソ忙しい時期に、手持ち無沙汰な男が数人いた。特に、街の外の警備が主な仕事である外遊部隊は、街の祭は全く関係の無い部隊だ。この時期に街にいるような外遊部隊員は観光客なみに暇と見ていい。バラッドは外遊部隊所属の人間を見るやいなや、私用任務を押し付けていた。――この件も、すでに外遊部隊の人間に押し付け済みだ。事件を無かったことにしてくれと伝えてあるから、優秀な男は跡形も無く、この事件を葬り去るだろう。
祭も間近だというのに、やることは山のようにある。どれも愉しいことばかりだ。今日はその山の中に、夕街最大手ギルドの情報流出問題が投げ込まれた。バラッドの口元が弧を描く。S1情報を流出させるはずが、終わってみれば夕街の最大手ギルドを丸裸にしていた。丸裸された奴らは、丸裸にしたこちらに助けを求めてきている。明日には隊長が動くだろう。あの男、嬉々として夕街のバルフレア・ハインへ乗り込むに違いない。
こうなれば歴史ある一流ギルドの情報というものを、早く見てみたいものだ。
バラッドは顔を上げ、開放したままのロビーの入り口に目を向けた。チップを持ち帰ってくるであろう子供の姿はまだ無い。変わりに獅子門を通り抜けてくる風は、夕立を予感させる湿った熱さをはらんでいた。この季節、日が暮れる前に雨が降る。夏の終わりの嵐の季節が来るまでは、ほぼ毎日、夕立が街を襲う。白天祭の当日も、きっと夕立は来るに違いない。去年の祭を思い出す。去年はこの豪雨のせいで、イグが一頭逃げ出して―――
その時だ。
ロビーに雪崩れ込んできた男の剣幕に、バラッドは記憶を辿る作業を中断した。
ラックバレー。
痩身の男が血相を変えて、本部に駆け込んできたのだ。血の気の引いたその形相。こいつの顔色悪いのはいつものことだが、その両腕が抱きかかえてきたものが、何かがあったことを知らせていた。
ラックバレーは、ヒトを抱きかかえていた。紙袋を腹の上に載せ、ラックバレーに抱きかかえられているその子供は―――ササヅカ。
痩身男の胸に抱えられたササヅカの腕が、するりと落ちる。腕の落ち方からして、意識が無いのは明らかだ。ラックバレーが抱きかかえ直し、早足でこちらに近づいてきた。
バラッドもカウンター席から立ち上がった。
カウンターから身を乗り出して、問いかけた。
「いつから意識が無い」
「帰りのイグラン。寝てんのかと思ったら、着いて起こしても起きやしねえ」
バラッドは、ササヅカの顔を覗きこんだ。寝顔、に見えた。すやすやと気持ち良さそうに眠っている、ように見えるが……。
バラッドは、ラックバレーへと視線を移した。
「寝てるんじゃねえの」
「いや、殴っても起きないってのは、眠りとして深すぎじゃないスか?」
「でも、こいつ、異常に寝汚そうじゃねえ?」
イメージだが、バラッドの中のササヅカのイメージは、ベッドから転がり落ちても、幸せそうに眠っているイメージがあった。あくまでもイメージだが。
バラッドに言われ、ラックバレーが口を閉じた。
沈黙が落ちる。
バラッドの眼前でササヅカを抱える痩身男は、ゆるゆると顔をしかめた。
「あれ、俺、今、もしかしてやらかしたッスか」
こちらの顔を見て、気付いたらしい。ちょっと、常より騒ぎ過ぎている、と。
「ササヅカ抱えて、走って戻ってきたのか?」
バラッドは口元が歪むのを抑え切れなかった。
ラックバレーはしっかりとその表情を見たらしい。心底、嫌そうに、ササヅカを抱え直した。
「確かにこいつは異常に寝汚そうに見えますけどね、たいていいつも叩き起こす時には、一発殴れば起きてるわけで――やっぱり、こいつ、何か異常があって目を覚まさないと……おい、アンタ、笑ってんじゃ」
ねえよ、という暴言は、一応ラックバレーも飲み込んだようだ。
バラッドはにやにや笑いを引っ込めずに、ラックバレーのいつもより紅潮した顔を見上げた。
「後輩想いのいい先輩じゃねえか。ラックバレー?」
眼前の痩身男が呻いた。
「とにかく、診てもらったほうがいいスよね。事実、目を覚まさねえんスから」
ラックバレーはそう言いおくと、ササヅカを抱え直し、カウンターの背後の通路へと足を向けた。
バラッドは、目でその男の背をにやにやと追いかけた。
それから、はたと気付いて、小首を傾げた。
「診てもらう、ね」
ラックバレーが向かっているのは医務棟だ。意識の無いササヅカの処置に駆け込もうとしている。
バラッドの脳内で、ラックバレーがササヅカを抱きかかえたまま、医務室長の部屋のドアを蹴破る姿が浮かぶ。医務室長は、急患がいなければラックバレーの行動も穏やかに受け入れるだろう。そして、医務室長は診察ベッドにササヅカを横たえる。聴診器で心音を確認しようとササヅカの胸元に手を伸ばし、ラックバレーが医務室長の肩越しに覗き込み――――
バラッドは自分の城を眺め直した。
こいつは困ったな。
ラックバレーが駆け込む医務棟は、この後、絶対に珍妙な状況に陥るだろう。これを見逃すのは、惜しいな、と思う。ササヅカのことで引っかかっている例の一点に関しては、確かめようと決めていたわけだし、医務室長があれの服を剥くのなら、この機を逃したくは無い。
だが案内カウンターから見渡すロビーは、常より大勢の客と屈強な鎧兜が行き交っている。祭を間近にして、街全体に人が溢れている。しかもロビーにいる大半が、最終的に案内カウンターへやって来る。ここにバラッドがいなければ、誰もさばけないのだ。
見渡すロビー、先ほどのラックバレーのように駆け込んでくる者がいた。少年だ。抜きん出て目立つ少年だった。周囲が振り返るほどの整った造形は、カウンターで立っているバラッドを発見するや、大股で近づいてくる。乱れなく肩で揃った髪が、揺れて輝いていた。
絵になる容姿。
白冑の美童だ。
ミカエル・ハヅィは両手をカウンターにつくと、荒い息のまま、こちらを睨みつけた。
「ササヅカ、は!?」
バラッドは、荒い息の金髪の美童をまじまじと眺めた。
さっきのラックバレーといい、このミカエル・ハヅィといい――――
バラッドはにっこりと微笑んだ。
「ようし、ミカエル・ハヅィ。お前に責任重大な任務を与える」
そしてバラッドは美童の大きく上下する両肩を、がっしりと掴んだ。
「お前、俺が戻るまで、カウンター、な」