蝶のはばたき 1
左脚を、上げているらしい。
佐倉の身体が、自然と右に傾く。
ボックス席で隣に座るラックバレーの骨張った肘が、腕にあたって痛かった。
そのまま、その角度でぴたりと止まる。
左脚を上げたまま、固まったようだ。
佐倉は、ラックバレーに寄りかかった状態のまま、行きとは全く異なる『鈍行』を体験していた。
数十秒後、のろのろと傾斜が緩む。振り上げた左脚が地面につく直後、ずしん、と振動が乗り物全体に伝わった。
そこで一回、胃が揺れる。
真正面のミカエルの顔が青くなる。
ミカエルの隣に座るチロが、不安そうに隣の少年の動向を見守っていた。
再び、のろのろと、今度は左に身体が傾斜していく。
外で、得体の知れない生き物の右脚が上がっているのだろう。
そこで、またしても、止まる。
ミカエルの美麗な顔が、次の振動を予期して歪む。
ずしん、という身体への振動。
ミカエルの顔がさらに青くなる。
「寝たほうがいいと思う」
佐倉は真剣に、真正面の白冑の美童を心配した。いや正しくは、彼の真正面に座る自分の身を心配した。
「炎天下走り回って、さんざん体力を使った後に、乗るもんじゃねえんだよ」
ラックバレーが窓枠に肘をつきながら言った。その視線が、隣に座るこちらを見ている。
何か言いたそうな目だ。あ、成程。言わなくても分かります。炎天下、あのいかがわしい建物から飛び出して、迷子になって、街中走り回って、結局パルテノン駅目印に戻ってきた片割れが、この『鈍行』で酔って憔悴しきっているのに、もうひとりが平然としていることに物申したい気分なんだろう。
体力バカ。
そう言いたいのがひしひしと伝わってくる。
「いや、疲れてないわけじゃないからね?」
佐倉は隣の視線に弁明した。
佐倉は疲れているが、なんだかすっきりしない疲れ方をしていた。
訓練で、身体を酷使した後の疲れ方ではない。訓練後の疲れというのは、歩くこともままならない疲れ方だ。その場でつっぷして二度と動きたくないという疲れ方。でも身体を動かした後の疲れは、気分的には爽快だ。
だが、今日の疲れは、そういう疲れ方ではない。
この後、訓練が待っていたとしても、佐倉は参加できる。参加した訓練も、そこそこにこなせるだろう。だが、これから頭に知識をつめこめ、と言われたら逃げ出す。もしくはその場で一分たたずに眠る自信がある。
きっと気疲れだ。
あのいかがわしい外観の建物でのことを振り返り、佐倉は目を閉じた。
抱える紙袋と、握りしめた円柱硝子の存在を強く感じた。
絶対、気疲れだ。
今は安心だった。見慣れた顔に囲まれている。そしてようやく見慣れた環境に戻れる。安堵していた。そして、自覚したら、倦怠感が眠気に変わった。
外の得体の知れない生き物がのんびりと脚を上げる。
ミカエルには気持ちの悪い揺れも、眠気に襲われた佐倉には、揺りかごのようなものだった。
猛烈に眠い。
全身の力が抜けて、頭を持ち上げていられなくなった。
右に身体が傾く。
側頭部が、骨張ったものにあたった。
しかもぶつかった瞬間に、より硬直したのが伝わってきた。
寝心地、最悪。佐倉はうつらうつらと思った。硬い。痛い。この枕、寝心地、めちゃくちゃ悪すぎる。身体を起こそうとしたけれど、眠気のほうが強かった。
すると、骨枕から声がした。
「おまえなあ。寝ろって言った本人が寝るってどうよ――いや、いい、寝てろ」
だったら寝心地いい枕をよこせよ。佐倉はそう言いたかった。だが口から出たのは、言葉ではなく唸り声だった。
骨枕が舌打ちした。
「うるせえ、黙って寝ろ――さもないと、夜の笛吹きに連れてかれるぞ」
骨枕はそう言った。それを聞いて、佐倉は思った。夜に笛を吹いたら、安眠妨害でしょ。そう思ったけれど、言葉にならず、そのまま意識を手放した。