バルフレア・ハイン 17
脱出。
ようやく、脱出だ。
佐倉は、雲ひとつない空を見上げて歓喜した。
太陽はすでに位置を大きく変えていた。ガクジュツトケンキュウノギルドの内部で、佐倉が叫んだり怒鳴ったり膝蹴りしたり追いかけたりしている間に、時間はそれなりに経過していたらしい。
だが、それでもまだまだ日が沈むような時刻ではない。
ギルドに戻って一息ついた頃が、空が朱色に染まるぐらいの時間だろうか。
「それで、君はいったい何をしにきたんだ?」
佐倉の背後で、凜とした声が響く。
「終わってから来る、というのが、まさに君らしいね」
振り返れば、盛大につっかかってくるミカエルの姿があった。
今日は、ずっとこの調子。いや最近、ずっとこの調子。以前は無視が8割、残りの2割が嫌味だったけれど、今は逆転した。今は8割が嫌味。残り2割が鼻で笑う音だった。
着替えてろ、とラックバレーが言った部屋へやってきたミカエルは、こちらを見つけた瞬間、部屋に入りかけた動きを止めた。まるで粗大ゴミと同じ部屋に入るのは法律で禁止されています、というような制止だった。そうして部屋には入らず、みるみるうちに顔を真っ赤にしたミカエルは、ラックバレーにどういうことか、と食ってかかった。
ラックバレーはラックバレーで、白冑の美童を相手にする気が無かったらしい。
むしろあの時、部屋へと戻ってきたラックバレーは、佐倉が抱えていた紙袋を注視していた。佐倉のいつもの格好と、胸に抱えた紙袋を見て、結論づけたに違いない。例のブツ、その中だ、と。その眼が怒気をはらんで伝えてきた。『燃やしてねえじゃねえか!』
いや、燃やせるわけがない。
佐倉だって処分したい。でも、ここに捨てていくわけにはいかない。悪さをしにきた人間が着ていたものを置いていくなんて、○○怪盗参上ってカードを残すような自己主張の激しい犯罪者か、ただのアホかどちらかだ。ラックバレーが推奨するように燃やそうとした場合、人様のギルドで真夏の暖炉に火を入れるか、真夏に焚き木をするか、ボヤを起こすか、という選択になる。常識で考えて、制服は紙袋へ入れて持って帰るのが一番だ。
佐倉とラックバレーは『燃やしてこい』『できるかバカ』の念波を送り合い、ミカエルがその両方に食ってかかる―――延々と続きそうなこの状況、救ってくれたのはチロだった。遅れてその場へやってきたチロは中にいるこちらを発見し、
「わあ、ササヅカ君!」
と、なんとも素直にそう言った。
晴れやかなその声は、見事にあの部屋の状況を読んでいなかった。そして誰よりも佐倉を歓待していた。素直に、会えたことが嬉しいとばかりの笑顔に、佐倉の心が一瞬でとろけた。
佐倉はすぐさまミカエルとラックバレーを押しのけて、チロの隣に収まった。この建物から出るまでの間、チロの側を片時も離れず、佐倉は終始、穏やかな気分でいることができたのだ。そうだよ。世の中って怖い人だけじゃないのだ。草食動物みたいな子だってたくさんいるのだ。忘れていた。大切なことを忘れかけていた。世の中ってもっとこう、ピュアなんだよ。ピュア。―――誘拐に未成年への性的プレイチックな何かに、器物損壊、不法侵入、人の首に人が噛りつく暴力行為、あとは、略奪。うん、今日という日が異常だっただけだ。異常事態が起こりすぎて、これが普通と感覚が麻痺しかけていた。
いかがわしい外観のこの建物を出る際に、白冑の美童が嫌味を言っても、佐倉は軽く受け流した。ホント、チロ偉大すぎる。一家に一台、置いたほうがいい。清浄機みたいに。居るだけで癒されて、争いごとが減るに違いない。
もちろんチロのほんわか笑顔に癒されたこと以外にも、ミカエルに飛びかからない理由はある。
まず、この心臓に悪い建物から脱出できたこと。これが多大な安堵感につながっていた。
そして、このつっかかってくるミカエル自身。このミカエル自身の存在ですら、今の佐倉は歓迎だったのだ。いや、マゾだから罵られたいということでは断じてない。見知った顔が側にいる、というのが心強かったのだ。
青灰色の目の男は、笑うかもしれない。だが、何も知らない所で一人で行動させられるのは、やはり神経を使う。そして物凄く怖かった。今は、見知った顔に囲まれている。心底、ほっと息がつける状況だった。たとえ、ミカエルの嫌味でも歓待できる気分だ。
心穏やかでいられる最後の理由は、と佐倉はミカエルの背後を見やった。
背後で、猫背で痩身、病的に白い男が、外の暑さに一瞬でやられたような顔をした。太陽うぜえ……と呟くのもしっかり聞きとれた。うん。ラックバレーが後ろにいてくれる。目が合ったら、何故か睨まれた。紙袋を抱えていることを、根に持っているのかもしれない。
「何ヘラヘラしてんだてめえ?」
「いや、ヘラヘラっていうか、うん。ラックバレーがいて良かったなあって」
隣のチロに癒されすぎて、佐倉は素直に言って笑った。
ラックバレーが目に見えて、固まった。
まるで毒を浴びたみたいな反応だった。
「ラックバレー?」
異変を感じて、佐倉は笑いを引っ込めた。どうしたんだろう。そういえば、先ほど再会してからラックバレー、ちょっと変な気がする。思い当たることといえば……佐倉は考えを巡らし、紙袋を抱きかかえなおした。思い当たることと言えば、制服だ。そうかー、制服、そんなに気持ち悪かったのかあ。燃やせって言うくらいだから、相当の拒絶反応だと思う。いや、制服が似合わない女子高校生って、それ、致命的だろ自分。少なからず女の子としては傷ついた、気もしたが、うん、あんまり考えないことにしておこう。
それよりそんな不快な物を見せられたラックバレーの心のほうが心配だ。佐倉は不安になって再び声をかけようとした。
痩身猫背の男は口を開きかけ、静かに閉じた。それをもう一度繰り返し、その後、手を伸ばして肩を掴んできた。――――ミカエルの。何故かミカエルの肩を、掴んだ。
「ハヅィ、キスさせろ」
痩身猫背の男は白冑の美童にそう言った。
今、何抜かしたかこの男。
ミカエルに、キス?
一瞬の沈黙後、肩を掴まれたミカエルが、ゆっくりとラックバレーと対峙した。
「そうか、頭が腐っているのか」
ミカエルが、静かに剣に手をかけた。ちょ、ミカエル。成敗すんの。腐った頭の持ち主は成敗すんの!?
ラックバレーは、殺気立つ美少年に頷いた。
呪いがひとつ解けたみたいなあっさりした顔だった。
「だよなあ。言いながら萎えた―――男色の気はねえんだって再認識した」
つまりおれはせいふくぷれいがしたかったってわけだなあ。うんうん、まちがっても―――ラックバレーはだらだらと歩き出し、佐倉の顔面を片手で引っ掴んだ。
そのまま歩くラックバレー。佐倉は後退するしかない。顔面掴まれたまま。
「おら、帰るぞ。きりきり歩け」
いや、きりきりしてんのはどっちかって言うと顔だ。ちょっとこの人、何がしたいの。ミカエルとキスしたがったり、こっちの顔掴んできたり……!
「し、支離滅裂すぎるでしょラックバレー!」
「てめえが言うな!」
「えええええ? 私に飛び火すんの!? なんで!?」
引きずられるように歩き続ける佐倉の耳に、ミカエルの動揺した声が飛び込んできた。
「帰るって―――どうやって!?」
その声は、ラックバレーのセクハラ発言の切りかえしの時より、数百倍動揺して上擦った声だった。
なんでそんなに動揺しているんだろうミカエルは。顔をきりきり絞られながら、佐倉は転ばないように懸命に後退し続け、考えた。どうやって、って、そりゃ来た時と同じように帰るに決まって―――
脳に衝撃が走った。
帰る、ってまさか。
佐倉は風も吹いていないのに、強い風を感じた。居もしない緑色が、視界の隅を凄まじい速度で通り過ぎていった気がした。帰るってまさか。
「徒歩で帰る!」
突然、ミカエルの声が上がった。ラックバレーの細い指の合間からどうにか見れば、ミカエルが颯爽と歩き始めていた。佐倉は悟った。この流れに乗り遅れたら、とんでもない乗り物で帰ることになる。
佐倉はもがき、ラックバレーから逃れると、すぐさま叫んだ。
「み、ミカエルと一緒に歩く!」
金髪のオカッパ頭が振り返った。心底、嫌そうな顔。あ、一緒が嫌なのか。しかも歩く速度が上がった。そんなに一緒が嫌ってことか! だが佐倉としては緑の乗り物のほうがミカエルよりもっと嫌だ。
すなわち佐倉は小走りでミカエルに追いつこうとした。美童は肩越しに追いつこうとしているこちらを確認し、すぐさま駆け出した。そうくる!? なるほど、そんなに一緒に帰りたくないと!! 佐倉も負けじと駆け出した。
二人が弾丸のごとくバルフレア・ハインの正門から飛び出したその背後―――タイミングを完全に逃したもうひとりの同期少年が困惑し、先輩隊員を見上げた。猫背の痩身男は、強い日差しに顔をしかめ、あっという間に米粒大になった駆ける二人を眺め、それからゆっくりと横の少年を見つめ返した。
「こんなクソ暑い中、夕街から徒歩で帰るとか、市民だったら絶対考えない、甚だバカげた行為って、あいつらいつ気付くと思う?」
「ふ、ふたりとも、イグラン、今日初めて乗ったなら、知らないんじゃ……」
「そうだよなあ。超快速じゃなくて鈍行なら、すげー安全、とかそういうことも知らねえんだろうなあ」
「……普通の人は鈍行に乗るもの、なんだけど」
「何だその超快速に乗る奴は普通じゃない、みたいな発言。あー、チロ、責めてねえぞ。びいびい泣くな。騒ぐな。怯えんな。―――俺は、鈍行ののったりとした動きのほうが酔うんだよ」
ラックバレーは首を振った。チロも横の男の言うことに異論がなかった。鈍行は命を損なうことはないが、たいていの人間が体調を損なうし、中には三時間くらいその場を動かないのんびり屋のイグもいるのだから、時間も相当損なうおそれがある……なんて、もう姿形の見えない彼らは知らないのだろう。
「ど、どうしよう……追いかけたほうが」
「いや、いい。先に向かおう。ハヅィが気付くだろ。馬鹿げた行為だって」
ああ、ササヅカ君は気付かないのかー。
なんて、下がり眉の少年はさすがに言えずに黙り込んだ。