バルフレア・ハイン 15
蝋燭灯りだけが頼りの、薄暗い石通路。
佐倉と猫背の男は、長い間、見つめ合っていた。
それは、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。だが、佐倉にとっては、とても長い間のことのように感じた。数分のことが、まるで数十日、いやほぼ一ヶ月くらい見つめ合っていたかのように、だ。
我に返って、すぐ思った。
どうしよう。この状況、どこから説明したらいいんだろう。
痩身で病的に白い猫背の男は言った。
―――ここで何をしてたんだ?
何をしてたか?
何をしていたかと言えば、こう言わざるを得ない。
佐倉はラックバレーの質問に、臆することなく堂々と答えた。
「まず、本部で舐められてからここに連行され、獣に襲われかけて、その後、机に拘束、背後から服を脱がされにかかったうえ、最終的には首をかじられたんだけど、一応、目的はここのギルドの情報を奪いにきたってことだったらしいよ。―――ああ、この制服は何かって?」
鼻で大きく息をする。
制服姿を見られたら、言える台詞はこれしかないと覚悟を決めていた。
だから意を決して、その言葉を吐き出した。
「制服は趣味、趣味! 潜入する時は女装って決めてるんだ!」
ラックバレーは佐倉の返答に、盛大に顔をしかめた。
肩を掴む手とは逆の手が口元に伸びてくる。
「お前」
細く骨張ったその指が、紙袋をつついた。
それは、佐倉が持っていた紙袋だ。すなわち、両手を空けて服のボタンをかけようと、口にくわえた紙袋だった。
ラックバレーは指で紙袋をつついてから、もう一度、口を開いた。
「とりあえず紙袋を口で持つのをやめてから話せ。フンフン説明されても全然わからん」
ラックバレーの言う通りだと思った。
紙袋を口からどかそうとして一瞬、ためらう。シャツのボタンがどこまで外されているのか、確認する気には、勿論ならなかった。紙袋をぎこちなくならないように慎重に、胸に抱きかかえた。
「それで、ラックバレー達はどうしてここに?」
気恥ずかしさを誤魔化そうと、早口で訊ねれば、答えは、まずは舌打ちだった。
「ほらな、お前、ここでハヅィに道を聞かれていい加減に答えたあの生徒だろ。お前のいい加減な道案内のせいで、行き着いたのが、本日二度目の食堂だった時には……ハヅィの血管がニ、三本逝ってたと思うぞ」
なるほど、階段を真っ直ぐ行って左に行くと、食堂があるらしい。
「チロ達は?」
「学長室で仕事中。白天祭の招待状を渡してる」
「その招待状を渡しているはずのラックバレーが、どうしてここにいるの」
「俺はそういう面倒くせえのパス」
「じゃあ、いったい何しにきたんだあんたは」
仕事せい、ラックバレー。
佐倉は思わず呟いた。
世間話をするみたいなのんびりした会話に、ちょっと驚く。すごくない? めちゃくちゃ普通。いつも通りすぎて、怖くなるくらいラックバレーと会話が成立している。もっとほら、お互いに、言わなきゃいけなこととか、慌てふためかなきゃいけないこととかあると思う。
例えば、この乱れた制服のこととか。
例えば、他のギルドで傭兵ギルドの隊員達が顔を合わせていることとか。
それなのに、ラックバレーは、こっちの格好に動揺したのは一瞬で、あとはもう驚くくらいいつも通りだった。まるでここがグレースフロンティアの本部の一角で、偶然会って立ち話をしているみたいに。そんなラックバレーの態度のおかげだと思う。おかげでこちらも全然慌てなかった。
もし、ラックバレーが「てめえ、モザイクかかりそうな女装で徘徊してんじゃねえ!」とか罵声を浴びせてきたり、「うおおおおおお!?」って肩を掴んでいる手をすぐさま離すくらい動揺して、悲鳴を上げたりしたら、こっちだってどうしていたか分からない。……いや、十中八九、同じようなテンションで声を張り上げていたに違いない。
うん、それまずい。今、鐘が鳴った音がした。その音が、ここはグレースフロンティアではないと佐倉に言っているような気がした。一応、ここに潜入している身だ。廊下でぎゃあぎゃあ騒ぐとか、ダメ絶対。目立つ行為、厳禁である。
佐倉は思案した。でも、潜入しているのは―――潜入しているのか誘拐されてきたのか判断つきかねるが―――自分だけで、ラックバレーは別段悪いことをしているわけではない。それなのに、この騒ぎたてないいつも通りな対応。ええっと、後輩が女装しているわけですが、なんとも思わないってどうなの。それって普通の対応だろうか。ラックバレーなら絶対、「な ん だ そ り ゃ !?」って言うと思っていたのだが。
まさか本当に、潜入するときには『子供は学生服(女子用)』がこの世界の常識なんだろうか。そんな常識、作った奴がいるとしたら、ド変態すぎる。
日常会話の延長のように穏やかなまま、ラックバレーが続けた。
「そもそも、俺が、お前に、ここで何をしていたのか聞いていたはずだがな。答えはさっきのフンフンで終わりか? 全然答えになってねえけど」
「いやだから――」
佐倉は、教授の部屋のドアを指差し、状況を説明しようとした。どこまで説明していいのか良く分からなかったが、できる限りちゃんと説明したかった。特にこの制服については、誤解の余地を挟まないくらいきちんと。あんまり気にしているそぶりを見せていないけれど、だからと言って「女装趣味がある後輩」と後々、吹聴されたら困る。
佐倉は話の取っ掛かりとして、背後の教授の部屋を指差し―――指先が石壁を彷徨った。
あれ……?
指の先には、扉が無かった。
あるのは、石の壁だけだ。
視線も彷徨う。上がってきた階段から見て、三つ、燭台に明かりがある。四番目は、ここ、だったはずだ。佐倉が四番目の教授室に入ったのだから。でも、眼前には石壁しかない。通路の奥を見れば、少し離れた場所に、燭台の灯りがあった。すなわちそこが四番目。
何度、数えても四番目の蝋燭の灯りは、少し離れた位置にある。
おかしい。
教授室前から、歩き出したわけでもないのに。
どうして四番目の蝋燭の灯りがあんなに遠くにあるんだろう。
つまりこれは何か。
部屋、消えちゃった、ってこと?
佐倉は唖然とした。まさに狐につつまれたような、いや狼につままれたような気分だった。狼につままれるってどういうことか良く分かんないけど。でも絶対、あの狼が何かしたに違いない。手に握っている円筒硝子の中の液体を、無色透明から黒色に変えてしまうように、扉を消し去った、ということだ。
ふと、入る前の扉を思い出した。
確かに違和感はあったのだ。今さらながら、佐倉は納得した。通過したドアと、四番目のあの扉は違っていた。あの部屋だけ両扉。それに他の扉とは装飾が全然、異なっていた。
あるはずのない扉だったから、統一感がなかった?
あるはずのない扉だったから、今はもうここには無いってこと?
思い至って衝撃を受け、呆然とし、その後、困り果てた。
もう、説明できる気がしなかった。
『この壁だった所に部屋がありました。そこで大きな狼と白衣の人と、大はしゃぎしてました』
そんなこと信じる人、いるだろうか。
だって部屋そのものが無い。中に残っていた狼も白衣の人もいないわけだ。この大半の証拠が消えている状態で、どう説明したらいいのだろう。
「ラックバレー」
壁に目を彷徨わせたまま、佐倉は肩を掴んでいる人に弱々しく呼びかけた。
「あの……」
この状況、いったいどう説明したって、信じてもらえないと思う。どうしよう。どうしよう。頭の中でぐるぐると思い悩む。
それから、目線をゆるゆると上げ、ラックバレーを見上げた。
見上げ、その瞳を見つめ、どうにか咽喉から小さな声を出す。
出てきた言葉は、うん、って言ってほしいというお願いだった。
「あの、さ―――私が、信じて、って言ったら、信じてくれる……?」
それは、突然だった。
目の前にいた男が弾かれたように姿を消した。瞬きより一瞬だった。早すぎて、佐倉はぽかんと口を開けた。なんぞ。追って横を見やれば、ラックバレーが物凄い速さで駆けて行く。ええと、逃げられました。なんか、ラックバレーに逃げられました。
何故に逃げるかラックバレー。
佐倉は慌てて追いかけた。
疾走する激痩せ男(かつてない速さ)と、追いかける女子生徒(半脱げ)。佐倉は必死でラックバレーの背を追いかけながら、思った。なんだこの追いかけっこ。せめてもの救いは、逆じゃないことくらい。病的に細い男が服の乱れた女生徒を追いかけていたら、大変いかがわしい。いかがわしすぎる。少なくとも今は、半脱げの女子生徒が、逃げる病的に細い男を必死の形相で追いかけているのだから、いかがわしくはない。むしろどちらかという必死の形相で後を追う女子生徒が精神異常な要素を醸し出していると思う。お兄さん、ねえ、ちょっと、お兄さんの臓器、頂戴ウフフ。みたいなね! たぶん、端から見れば、恐れ慄いて泣いていいレベル。あとはこの細い通路、偶然通った人がこの怖い追いかけっこを目撃することがないよう祈るばかりだ。
細い通路を左に折れたラックバレーの後を追う。左に曲がりながら、肺が痛くて立ち止まりかけた。ラックバレー、速い……! この先も走っていたら、後を追うのを諦めるしかない。そも思った佐倉の目に、通路の先でドアノブに手をかけ何やらやっている猫背な男の姿が映った。かちり、と一際大きな音が通路に響く。
うん、今、開いたね。
鍵、開いた。
「って、えええええ」
こちらから逃亡を謀ったラックバレーが、空き巣真っ青な手口で華麗に、鍵を開けたんだけれど、どうしたらいいですか。傭兵って、神がかり的に器用で左手でもボタンを外せるとか、鍵開けの能力があるとか、そういうもんなんだろうか。それなら私は絶対にこのギルド向いてない。いや、向いていると思ったこともないけど。
「ちょ、何を」
しているの。犯罪行為ならもうお腹いっぱいだよ! と、肩で息をしながら言いかけた佐倉の言葉を遮るように、ラックバレーがドアを蹴り開けた。うわ、蹴り開けたよあの人!
慌てる佐倉の事など、痩身の病的に白い男は見ていなかった。そのまま扉の中へと入っていく。扉が閉まった。佐倉は顔をしかめた。またこのパターンか。何故か締め出されて、ひとり通路で待つことになる。佐倉は、ぜいぜいと息を吐き、どうにか自分の呼吸を元に戻そうと必死になった。扉に耳を近づける。ラックバレーもまた、中で器物損壊をするつもりだろうか。
扉一枚隔てて聞こえてきたのは、悲鳴に近い怒鳴り声だった。
「計画、いったいどうなってんスか! どうしてササヅカが制服着てっ……っしかも女の格好って、しかも脱がされかけっ…だ れ が 脱がしにかかったんだよ誰が! いや、待て。未遂、だよな未遂じゃ、ないわけないよな未遂だろ!? って、何を持ってして未遂って言えんのこの状況!? いやいやいやいや、もー、どこからツッコんだら―――!!」
あ、うん。佐倉は扉から耳を離した。どうやら、動揺していなかったわけじゃないらしい。そりゃそうだ。ラックバレーが制服(女子用)で現れたら、私だって叫ぶ。しかも脱がされかかっていたら尚更だ。
私だって言うだろう。
誰に着せられて、誰に脱がされかかったのか、と。
そして、未遂、未遂なの!? と。