バルフレア・ハイン 14
室内は水浸しだった。そして、獣と隻眼用の黒い革で左顔を覆う男。
その上、隻眼マスクの男は悪名高き男だ。しかも何故か全身濡れていた。さらに言えば、その男は通信機を片手に立っている。
飛び込んできた男達は、予想外の部外者と予想外の室内状況に完全に出鼻を挫かれた。
さあ、本当の仕事の始まりだ。
まず笑んだのは、部外者だった。
「成程、根こそぎ持ち出す、か。―――と、いうことは盗まれたのはギルドの情報だな」
そんな言葉を吐いて、奴は通信機の向こうへとぬけぬけと続けた。
「カウンター。マイミューンの件の調査依頼は、これで打ち切りだ。奴の目的は、バルフレア・ハインの情報だった」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
状況が飲み込めなかったのは、乗り込んできたバルフレア・ハインの研究員だ。思わず、叫んでいたらしい。研究員は、自分の言葉を後悔する破目に陥った。なぜなら、待て、と言われて、言葉を止めて研究員を注視する隻眼マスクの男は、眠りから醒めた獣のように周囲に圧力をかけていたからだ。
待て、と言ったのだから待っているんだ、早く言え。と、いう情け容赦のない圧力が掛かりすぎて、バルフレア・ハインの研究員は真正面を向いていた顔を、寝違えたかのようにぎこちなく横へと向けた。
すなわち、こちらと目が合った。
何故、こちらを向くか。
「ま、魔法放出反応は、ま、マカラム教授のものであって、銀の魔女のものでは」
これは意外な結果だった。
―――私の魔法放出反応が出た?
バルフレア・ハインの情報を引き出したのは、ハーヴェストがぬけぬけと抜かすようにマイミューンの仕業では断じてない。だが、バルフレア・ハイン側が言うように私がやったことでもなかった。
根こそぎ奪っていったのは、『少女』だ。
幾重もの魔法ロックと幾重もの機械ロックのかかった絶対表には出てこない情報を、『彼女』は水陣鏡への膝蹴り二回で持ち出した。
思い出して、笑いが止まらなくなった。
反則だ。膝蹴り二回で、どうしてあんなことができるのだろう。
もちろん、あの青灰色の右目の男が『少女』を巧みに急かしたのも、順調に情報が奪取できた大きな要因といえる。だが、急かされたとしても、自分ではS1の情報開示がせいぜいだっただろう。
ギルドの最高機密までこじ開けて、その上、そのこじ開けた膨大な情報を小さな小さなチップに押し込んだ。あの小さなチップは、生徒が持ち歩くような一番容量の少ない保存媒体だ。
何をどうやったら、そんな小さなチップにバルフレア・ハインの最高機密までの全てを、ぶち込むことができるのだろうか。
笑うしかない。子供はやはり『彼女』だった。
全くの規格外の存在だ。
こちらの笑いに、バルフレア・ハインの研究員が怒りで顔を紅潮させた。
「きょ、教授、何を笑って……!」
「素晴らしい」
「は……!?」
「魔法痕が私のものと同一とは、それは考えたことが無かった」
自然と、座ってはいられなくなる。身体を持ち上げ、室内をゆったりと歩き回る。
水陣鏡に美しい水面を保ち、根こそぎ攫っていった『少女』は、自分と同じ魔法の痕跡を持つらしい。つまりそれは。
「マイミューンと私は、同じ魔法痕というわけだな」
決して嘘は言っていなかった。あの『少女』が自分と魔法の痕跡が一緒であるならば、『少女』とマイミューンも魔法の痕跡は一緒で間違いがないだろう。そうなると、自分とマイミューンも魔法の痕跡は同じ、ということになる。
こちらの言葉に、口元を歪ませた男が一名。
そして、こちらの言葉に、仰天したバルフレア・ハインの研究員が二名だった。彼ら研究員は、魔法を熟知している。だから、威勢の良い反論の声が上がった。
「それはあり得ない。魔法痕は、同一のものは存在し得ないはずでしょう!?」
確かにその通りだった。だからこそ、住民カードには魔法痕が織り込まれていて、人物証明に使われているのだ。魔法痕が同一のものが出てきてしまえば……魔法認証システムは、欠陥がある、ということになる。
「私も今の、今まで、そんなことはあり得ないと思っていた。だが、今回のことで分かったではないか。私の種族は魔法痕は共通……つまり、同族の誰かが悪さをしたとしても、他の輩の責任になる可能性がある、ということか。ふうむ、それは少々困った状況といえるな」
「一月程前、夜街で魔女騒動があっただろう」
重低音の声がのんびりと、しかし圧迫感全開で介入した。この威圧感に曝され慣れていない、もやしのような研究員が、上手く呼吸が出来なくて白い顔をさらに白くしていた。もうすぐ倒れるのではないだろうか。
「あそこで俺とマイミューンが一戦している。壁に溶けて逃げられたが、壁の魔法痕はまだ残っているかもしれない」
「じゃ、じゃあ、マイミューンはこの街にすでにいたというわけですか」
研究員は視線を向けることすらできずに、呟くように言った。本当は隻眼マスクの男に問いただしたかったに違いない。だが研究員にその勇気と胆力があったなら、間違いなくグレースフロンティアに加入していることだろう。
「何が目的か分からなかったんでな、調査のほうが難航していた。祭までに、影も踏めなければ調査打ち切りとはしていたのだが」
隻眼マスクの男は、こちらに言った。勿論、こちらも相槌を打ち、言葉を続けた。
「祭というと、あと数日。これは、してやられたな」
「全くだ。あれは壁に溶けるからな。この街にはもういないだろ」
会話を繰り返すと、何故か居もしない輩が本当に居たように思えてくるのだから不思議なものだ。
おそらくマイミューンはもうこの街にはいない。
何故なら、ハーヴェストが彼女の目的の物を『隠した』からだ。
鼻の良い自分でも、同じ室内でないと気付かないくらい巧妙に。
「さて、どうする」
立ち止まり、小首を傾げてバルフレア・ハインの研究員に訊ねた。
「私が情報を持ち出した、と言ったが、私には持ち出した覚えが無い。それにこの塔からでは、バルフレア・ハインの研究棟の中枢データに入り込むことは出来ないはずだが、はて違ったかな」
至極冷静に訊ねれば、当初、この部屋へ怒鳴り込んできた時とは全く異なる困惑した様子で、研究員達は頷いた。
「え、ええ。確かに魔法痕があったのは研究棟の二階らしいのですが、何故か断定が出来ないのです」
「断定が出来ない?」
幼子をあやすように優しく問いかければ、まるで全てを解決してくれる相手を見つけたとばかりに熱心に話出した。まあ、部屋の真正面に立つ男の圧迫が恐ろしすぎて、こちらしか見れないのかもしれないが。
「か、壁なんです」
研究員が困惑しきって告げた。
「魔法痕の反応があるのが、壁の中、でして」
部屋の中にいるすべての人間の頭に、隻眼マスクの男の言葉が思い出されていたに違いない。
―――壁に溶けて、逃げられた。
「「マイミューンだな」」
奇しくも、自分の言葉と隻眼マスクの男と言葉が重なった。
「機械映像は撮ってないのか?」
畳み掛けるように隻眼マスクの男が訊ねた。
「そ、それが、それも何者かの手で機械映像の管理機器が破壊されているのです」
その答えにも、隻眼マスクの男とこちらの頷きが重なった。
「「マイミューンだな」」
それから、隻眼マスクの男は神妙にもう一度、頷いた。机脇の通信機に指を伸ばし、ぱちん、と通信を切り替えた。部屋、全体に聞こえるように、だ。
「カウンター、話は聞いたか」
続く通信機からの声は、脳筋のグレースフロンティアにしては格段に接客向きな朗らかな声だった。
どんなに朗らかでも、通信機の先は昼街のグレースフロンティアのカウンターだ。一筋縄で行くわけがない。
「ええ、それは夕街ギルドさんも大変な状況だ。もちろん、昼街ギルドとしては、全力でお手伝いいたしましょう。―――例え、マイミューンの件という部隊長クラスの依頼であっても破格値で対応させていただきますし、マイミューンが情報をどこかへ落とすなんて失態を犯した場合には……すぐに届けられるように関係各位に働きかけておきますよ。しかし、詳しく話を聞かなくてはならないこともたくさんありそうですね。情報の管理がどこまで徹底されていたのか―――これはバルフレア・ハインの上層部と本日中に話しがしたいもんだなあ。もしそちらさんの警備が甘いのであれば、うちの夕街支部の管轄範囲を広げて、マイミューン対策を計るべき、ですよねえ」
饒舌で朗らかな声が通信機から流れた。その上、部屋には口元に笑みを浮べながらも、威圧する隻眼マスクの男が立っている。
真っ当なギルドに見えんな。
あえて口には出さなかったが、そう思ったのも事実だった。