バルフレア・ハイン 13
こんな所で会うと、誰が想像していただろうか。
学生服の後ろ姿。扉のほうを向くその背中は、どこか不安そうで落ち着きが無かった。不安そうで、落ち着かない? 浮かんだ単語に、すぐさま当然と結論付けた。
もし、背後に注意を向けもしない子供が、この世界にすでに落ち着いているとしたら。
何も知らないこの世界で、順応しきっているとしたら。
この状況を素直に受け止めているというのなら―――大物だ。しかも相当の大物、極めて異常な大物だ。
試してやろう。大人とは断じて言えない後ろ姿に、意地の悪い考えが浮かんだ。少し驚かせて、泣きわめくところでも見れば、安心できると思った。扱いやすい『人間』という括りに、この子供も入れて置きたかったのだ。
その存在を喰ってやろうと背後から忍び寄る。
今思えば、安直過ぎた。
どんなに子供に見えようと、どんなに頼りなげに見えようと、その子供は『彼女』だ。安易に近づけば、喰われる。そんな当たり前のことすら忘れていた。近づいて、『香り』に気付いた時には、もう遅かった。『香り』が脳を直撃し、後は我を失った。
そう、逆に喰われたのは自分だったのだ。
「教授」
愉しげに呼びかける重低音。
「見送りはその辺りで切り上げてくれ。あえて計画より時間を超過したいなら、別だが」
言外に、それでも構わないと言っているように聞こえた。
誰もいない扉前から振り返れば、こちらが用意した白衣を着込んだ男が小首を傾げているのが見えた。
机の前に立つ白衣の男は、イレギュラーを好む傾向にある。計画通りに進まない時に、俄然、面白がるのだ。綺麗に積んで安定している積木には、わざわざ三角や歪な積木を載せて、難易度を上げてくる。その上、周囲がせっせと難易度の上がった積木を積み上げていれば、気分が変わって積木を崩し、全てを最初の形に戻してしまう。最悪の気分屋。それが己の利益にならないことでも、面白いと思えば実行する、後先を考えているのかも分からない厄介極まりない輩。
それが、この眼前の白衣の男だ。
今もそう。
嬉々としてマイミューンの積木の難易度を上げている。
損得で言えば、おそらくは『お互いに損』であろうに。
踵を返し、再び机へと向かう。後脚で立ち、水陣鏡へと前脚を浸す。
本日、二度目の水陣鏡だ。
たった今、前脚を浸している水陣鏡は、物を移動する時に、有効な方法だった。
そして、この世界の子供であれば誰しも、教育課程のほぼ最初の頃に習うことでもある。
勿論、このギルドでも入学して一月ほどでこの授業を体験することになる。
そして、大半の子供が『好きじゃない』授業内容だったと位置づける。
子供達は、授業で水陣鏡に手を浸し、机の上に置かれた身近なモノを手繰り寄せる練習をする。
その授業時間に、子供達は自分のお気に入りの文房具を水浸しにすることとなる。
大半の子供にとっては、大事な文房具をびしょ濡れにするだけの、総じて『意味の無い、どころか、嫌い』な授業、それが水陣鏡の授業だ。机の上の物を取るのに、どうして一度水浸しにしなければならないのか。手で取れば済む話なのに。小さな少年少女は、泣いて抗議する。
結果、水陣鏡の授業の最後は、低学年担当の大人が泣く子供達をあやすことになる。
大半の子供は、魔法の素養を微量しか持たない。
せいぜいで机の上の物しか手繰り寄せることが出来ないのだ。
しかも、お気に入りもの。何度も何度も触っているようなもの。
それ以外は、水陣鏡の中へと移動することもままならない。
水陣鏡は、移動する物や距離が大きければ大きいほど、体内の魔力を消費する。
小さな子供達が愚図るのも、体内の力を奪われて精神バランスを崩した証拠といえる。
お気に入りが水浸しになり、体力も気力も消耗して不快な気持ちになった子供は、この授業を「嫌い」と判断する。そして教師は、その愚図る子供達をあやしながら、その子供達の中に、机上の物以外を手繰り寄せた『将来のバルフレア・ハイン構成員』―――『金の卵』がいないかを探すわけである。
水陣鏡は、魔法量さえあれば、周囲が予想もできない物も動かせる。
例えば―――
部屋。
そう、部屋だって、動かそうと思えば動かせるのだ。
おそらく一般的なニンゲンは、それほど魔法量を蓄えることができないから、考えもしないだろうが。
水陣鏡に前脚を浸し、この建物の地図を想像した。
体内から水陣鏡へと緩やかに力が流出する感覚を味わった。
今日はすでに一度、『部屋を動かしている』。
部屋を元の位置に戻すとなると、体内に蓄えている全ての力を持っていかれることになるだろう。
「手を貸そうか」
隣で、白衣を脱ぎながら、男がのんびりと口にした。
手を貸す?
口の端が引きあがるのが自分でも分かった。
「戯言を抜かすな、ハーヴェスト」
するり、と言葉が口から飛び出した。狼が発話することに驚く者はここにはいない。青灰色の瞳を持つ男も、別段気にする素振りを見せなかった。当然と言えば当然だ。この大きく育った問題児に、言語を教えたのは自分なのだから。
水面が揺れる。美しい波紋は生まれなかった。ぼこぼこと水底から湧いた。こんなにも雑だったのだ。今まで感じなかった己の未熟さに気が付いた。己が作り出す水陣鏡の水面が汚いと思ったのは、初めてだった。
窓外が暗転する。窓から採光を取り入れていた室内も闇色に染まる。遠くで、ホゥホゥという鳥の間の抜けた鳴き声がする。ホーゥという小さな鳴き声が次第に近づいてくる。通信機の音量を小から大へ次第に上げていくように、鳥の囁きが騒音のホオォォォゥウウウへと変わった時、足元が一度、大きく揺れた。その瞬間、窓外の大樹から大翼のグラークスが飛び立った。
きっと飛び立ったグラークスは、隣接する塔のかすかな振動に驚いたのだろう。
窓の外の景色は、二階から見えるものより遥かに高い。鬱蒼とした木々に囲まれ、薄暗かった。鐘の音がした。バルフレア・ハイン二階、四番目というあの位置で聞いた鐘の音より、やはり随分近くに音が聞こえた。いつもの景色、いつもの音だ。バルフレア・ハインの隅に存在する塔の中。それがこの部屋の元の位置だった。
水陣鏡に浸した前脚を、床に降ろす。
思った通り、体内の魔力はほぼ使い切った状態だった。
水陣鏡は、自分には二度が限界、ということだ。
眠気に襲われる。だが眠るわけにはいかない。
まだ、全てが終わったわけではないのだから。
「教授、通信機を借りるぞ」
机の引き出しに白衣を入れながら、こちらの疲労を全く解した風もなくハーヴェストが言った。ハーヴェストは机の側面に設置された通信機へと手を伸ばす。そんな行動見ながら、こいつにこちらの疲労を理解されても困る、と考えを改めた。もしハーヴェストがこちらの体調に気が付いて、心配なんぞしてきたら、明日の天気は槍どころじゃないだろう。きっと槍どころか、疫王ドラクロワが街の上空に出現するに違いない。
ハーヴェストは、通信機を耳と肩で挟むと水陣鏡へ片手を浸した。
「水陣鏡の欠点は、濡れるってことだよな」
少し面倒臭そうに、呟いた。
おやまあ、使えるようになったのか。
指を浸す男が、少年だった頃を思い出した。水陣鏡は濡れるから嫌だ、と約束した時間をすっぽかしたことがあったことも思い出した。そんな少年が水陣鏡に指を浸している。かつての厄介すぎる子供を思い出すと、大層、胸にくるものがあった。こいつには苦労させられた。約束の時間をすっぽかされて説教したくとも、捕まえるのが容易じゃないのだ。結局、水陣鏡のすっぽかしは三人がかりで―――
水陣鏡の水面が荒れ狂った。まるで津波が押し寄せたように、水が溢れる。過去を懐かしんでいた頭に冷水がぶっかけられた。文字通りの意味で。水陣鏡から水が噴水のように湧き出したのだ。
これは稀に見る酷さ。
呆気に取られて、水を浴び続ける羽目になった。すぐに悟った。
『水陣鏡の欠点は、濡れる』
先ほど、ハーヴェストはそう言った。引き寄せる物が濡れるのが嫌なのかと思っていた。違う。全く違う。引き寄せる物が濡れるどころか、部屋全体が水浸しだ。
逃げ場が無い。諦めて全身濡れるしかなかった。
そんな中、ハーヴェストが指を引く。
すると、指に摘ままれた形で水陣鏡から出てきたのは―――
水の滴る隻眼用の黒革マスクだった。
ハーヴェストは指で摘まんだそれを軽く両手で絞って水を切る。
二人とも、雨に打たれた後のように濡れていた。
こちらは身震いで、全身の水気を切る。
「制御できていないのなら、使うな」
部屋に価値ある蔵書を収集していた者としては、小言の一つや二つ、致し方ないと思う。
水陣鏡から取り出した隻眼用マスクで、左顔半分を覆った男は、片手に通信機を持ち直し、片手で濡れた髪をかきあげた。
「制御、出来てるだろ。ただ濡れただけだ」
「これは出来てるとは言わん。先刻のS5開示の時のあの美しい波紋を少しは見習え」
返ってきたのは、無邪気な子供のような笑い顔。
「教授が出来たら、考える」
これにはこちらが押し黙るしか無かった。
先刻のような完璧な水陣鏡の扱いが出来るか?
出来るわけがない。
嘆息し、もう一度、身震いで水滴を落とす。
「上手いこと言ったな兄弟」
これに関しての小言は諦めた。
そのまま、ハーヴェストの持つ通信機を見やった。
「通信先は、グレースフロンティアの案内カウンターか? だが―――もう来るぞ」
腰を下ろしながら、忠告した。誰かさんが急かしたおかげで、時間に余裕があったが、そろそろ事態に気付いたギルドの関係者がこの部屋に飛び込んでくる頃合だ。現に、塔に張り巡らせてある魔力の糸を誰かが踏んで、塔を駆け上がってくるのが分かった。歩幅と速度から考えても間違いなく、大人。しかも相当、慌てている。
「あと、数分で来る。用件を言って早く切れ」
「すぐ終わる」
こちらの心配なぞやはり気にも留めず、ハーヴェストは言った。通信機の先と繋がったらしい。そして、ハーヴェストが何かを言おうとし、覆い隠されていない右目を瞬かせて黙り込んだ。それからゆっくりと口元に笑みを浮べた。通信機の先は、繋がるやいなや、爆発するような怒鳴り声をさせていたのだ。ハーヴェストが少し、通信機から距離を取る。怒鳴り声の続きはこちらにまでしっかり聞こえた。
『――――てめえ、その突発的行動、マジでやめろ!』
ほら、通信機の先にも、積木に、予定外の三角積木を載せられて怒り狂う輩がいたということだ。
この怒鳴り声で分かったことがある。
成程、ハーヴェストの奴、グレースフロンティアには何も話を通してこなかったらしい。
今も通信機の先の怒鳴り声なぞ、どこ吹く風、といった顔だ。
「――――突発的、とは心外だな。バラッドの計画が珍しく穏便でクソつまんねえから、ちょっと手を加えただけだろ? 連れてきた『奴』に、チップは渡した。あとは受け取って、早々に情報を分析して、こっちに回せ」
一瞬、ハーヴェストが言葉を切った。青灰色の右目がこちらを捉える。まるで悪戯をするガキのように笑みが浮かんだ。
「ほんの少し、骨が折れる情報量かもしれないが、情報が無くて話が頓挫するよりマシ、だろう?」
そう言うと、ハーヴェストは通信機を側面へと戻した。おお、切った。言い逃げである。早く切れよとは忠告していたが、今のはこちらの忠告に関係無く、言いたいことだけ言って切ったという状態に違いない。こいつは相当、自分勝手に育っていると感動すらした。
しかも、『ほんの少し、骨が折れる情報量』?
「ぬけぬけとよく言うものだな」
感心して呟けば、ハーヴェストも笑った。そうして、思い出したように、もう一度、通信機に手をかける。さすがにその行動には、こちらも意表を突かれた。
通信している時間はもう無い。
すでに足音が、扉の前まで辿り着いていたのだ。
「おい」というこちらの制止の声と、ハーヴェストの「言い忘れていた」という言葉と、扉が開け放たれる音が重なった。
ノックは無かった。燭台を持った白衣姿の二人組みが、血相をかえて雪崩れ込んできた。
「マカラム教授! 一体どういうおつもりですか! 我がギルドの全てを根こそぎ持ち出すとは――――!!」
彼らは怒鳴り込み、その後、足が石で固まったかのように動かなくなった。そうして、間の抜けた顔で立ち尽くした。
室内にいるのは私―――マカラム教授だけでは無かった。
彼らは言葉を失った。
そこには通信機を片手に持つ、水の滴る隻眼黒マスクの男が、獰猛な笑みを浮かべて立っていた。




