バルフレア・ハイン 11
――――随分と、楽しそうな、状況。
扉前の男は、こちらに向かってそう言った。佐倉は叫び声を上げたまま、再び前を向いた。手を引き抜く動作。手首から先はやはり机上の膜の中だ。隣を見た。自分よりも遥かに大きな狼がいらっしゃる。そして、その漆黒の身体のさらに先に、顔半分が無い石膏胸像の一部が見えた。肺から空気を出し切って叫び声が尻すぼみになる。佐倉は新しい酸素を取り込み、再度、周囲を見回した。これが楽しそうな状況……?
佐倉は勢いよく振り返った。
扉前に白衣の男―――ハーヴェストが泰然と立っていた。
この状況が、楽しそう?
佐倉は怒鳴った。
「頭、おかしいんじゃないの!?」
いったいこの状況のどこが、楽しそうだって思えるのか。佐倉の声と重なるように、顔半分を失った石膏女性が白い唇を引きつらせ、例のS1開示がどうのと間延びした不気味な音を響かせた。絶対、楽しいわけがない!
ハーヴェストは、一度かすかに目を見開き、それからゆっくりと目を細めた。
口角が引きあがる。
「教授」
彼は、そう室内へ呼びかけた。
「S1開示なんて、つまらねえことで済まそうとしているのか?」
佐倉は白衣の男の呼びかけに呆気に取られた。―――教授?
「教授って、どこに……」
途端に、真横で犬のような、でも犬の可愛さの片鱗も見当たらない咆哮が上がった。
漆黒の狼が、肩越しに振り返り、扉前にその犬ッ面を向けていた。佐倉と同じように、両前脚を机に浸し、肩越しに振り返る狼。それはまるで、人の言葉が分かっているような人間臭い仕草だった。
まさか。
佐倉は、扉前を見ている狼に、囁くように呼びかけた。
「……きょうじゅ?」
まさか、ね。
いや、まさか、狼が教授なんてわけが―――
その小さな囁き声に反応するように、鼻の先端がこちらを向いた。金色の瞳が佐倉を捉えた。目、合ってる。ちゃんと、目が合っている。つまりこの人、いやいやこの狼が……。
「教授って」
―――こと!? と、扉のほうへ肩越しに振り返ると、肩越し背後の視界が真っ白だった。何故に白。佐倉はよくよく見つめた。白い布地だった。間近に白い襟。
佐倉は首の角度を修正した。
上へ、上へと首の角度を変更する。
「……な、んでこんなに近くに、いる、の、かなっ?」
ハーヴェストが、背後に―――ものすごく間近に立っていた。
気配なく背後にやって来るとか、本当にやめて欲しい。心臓に悪いから。今だってそうだ。触れている背中が熱を持っている。驚いたせいか、心臓が痛いくらいに打ってるし、やはり、顔が熱くなってきた。
「何故?」
ハーヴェストは、意味が分からないとばかりに笑った。
ハーヴェストの左手が佐倉の腰の横に置かれた。―――なんで置いた、その位置に。唖然としている間に、右腕が佐倉の背後から伸ばされた。佐倉が両手固定されている机の膜へと、その指先がゆっくりと浸かっていく。―――佐倉の右手と重なるように。
大きな手が重なり、身体が前方に少し押される。腰横に置かれた手が、自然と前方腹部にまわった。まるで背後から抱きすくめられているような状態。
顔が沸騰した。
「ハハハハハハハハーヴェスト、さんっ!?」
佐倉はもう肩越しに見上げることもできなかった。前を向き、ただただ重なった右手を見つめた。そして、猛烈に意識する。身体の前方にまわった手と背中に感じる重みと熱。顔、熱すぎる。佐倉は素っ頓狂な声を上げた。
「だから、どうしてこの距離なんだろう!?」
「この距離が、俺とお前の距離、だろう?」
背後の男がそう、のたまった。
何だ、その凶悪な言い分は。即座に否定しようとした。しかし咽喉から音が出てこなかった。出てくる前に、妙に納得した自分がいたからだ。確かにこの人が側にいる時は、距離感がバカになっている。毎回、これくらい距離が近い。うん、この人が言うことも一理ある……いやいやいや何、納得しそうになっているんだ自分は!
「そっちが勝手にこの距離にしているだけでしょうが!」
こちらが警戒してバリケードをわんさか築こうとも、相手がバリケードを蹴り倒して侵入する気満々なら、防ぎようがないではないか。
ハーヴェストの顎が、佐倉の頭の上に触れた。
声もなく笑っているのが、自分の髪の揺れ具合で分かる。
「諦めて、慣れるんだな」
「そっちが諦めて離れろよ!」
今度はしっかり背後からの笑い声。
そして、彼は上機嫌で、
「―――教授! いいだろこれ!」
と、物騒すぎる発言をした。続くのは、狼の元気な咆え声。やっぱり、この隣の狼が教授らしい。ハーヴェストの協力者。この部屋の主ってことだ。
「こんな愉快な状況で、S1ごときで済ませる? 面白くねえな」
ハーヴェストの低い声が耳元に落ちてくる。鼓膜を震わせる低い声に、接触している部分が熱を持つ。逃げ出したいけれど、両手が固定されていて逃げることもできなくて、佐倉の頭の中は爆発しそうだった。
佐倉の腹部へとまわった指に、少しだけ力がこもる。
「S5だ。S5まで開示させろ―――情報、中から搔き出して丸裸にしろ」
背後の男の嬉々とした声。佐倉の身体が震えた。
耳に音が近い。近すぎる。うまく思考がまとまらない。
全身が熱かった。
隣の狼の咆哮。
机上の膜に沈んだ円筒硝子―――チップを中心に、再び波紋が広がった。
獣の前脚、そして佐倉の両手、佐倉の手と重なる背後の男の手にも、波紋が到達する。
半壊した石膏女性の声が途切れた。
続いてその唇から漏れ出たのは人間味を失った機器音声だった。
「S1開示、承認。S2開示中――――魔法認証、承認。機械認証……」
ハーヴェストが笑いながら、こちらの耳に囁いた。
「こじ開けろ」
教授が咆えた。遠吠えみたいに。
でも佐倉は、隣のケモノがどんなに大騒ぎしていても、知ったことではなかった。
何故なら、背後のケモノの手が――――腹部を軽く押していたその指が、ゆるゆると上へと上がり、紺地の制服の上着ボタンを、円を描くようになぞったからだ。
丁度、ヘソの上にあるそのボタンを、その指先が、ゆっくりと、弾き、弄ぶ。
「S5の情報をチップに押し込むまで」
背後の男は少し考えるように、佐倉の耳に囁いた。
「どれくらいの時間がかかるだろうな、ササヅカ新兵部隊員」
ボタンがひとつ、外された。
なんじゃ、これ。
人間味を失った機器音声が、言葉を失った佐倉の代わりに、背後の男の質問に答えた。
「S2機械認証、不可。不可。承認、できません」
「成程、時間は充分にあるようだ」
背後の男は上機嫌でそう言った。
紺地の制服内に指が滑り込む。白いシャツを掴まれた。ゆっくりと引っぱられる感覚。スカートの中に入れていたシャツの裾が静かに、少しずつ持ち上がっていく。
佐倉は口を開け、そして閉じ、また再び開け、声も出せないまま、横へと顔を向けた。
そしてようやく声を爆発させた。
「きょ、教授ーっ!!」
佐倉は知っていた。手首をがっちり拘束されて、背後から服を脱がされかけているこの状況、背後の男に「止めてください」と言って、この男が止めるわけもないことを。バリケードは蹴破る人だ。嬉々として、蹴破る人だ。その人に、通行止めと書いたバリケードを置いたってなんの意味もない。
背後の人が止まらないなら、横になんとかしてもらうしかない!
「教授、教授……!」
すなわち、隣の狼には、S1だかS2だかS5だかの情報を、円筒硝子にさっさとつっこんでもらって、強制的に気持ち良くさせられそうなこの危機的状況を、一刻も早く打破してもらわなければ……!
「は、早く早く早くーっ!」
佐倉は懇願した。
狼の答えは遠吠えだった。
音声機器も佐倉の催促に答えた。
「機械認証、認証できませ―――ににににににぃ認可。承認。機械認証、承認。S2開示。S3開示中」
「S3ってことは……S4もあるってこと!?」
佐倉は大混乱の中、熱いんだか寒いんだか、自分の感覚もおぼつかない状態で叫んだ。
ハーヴェストは、『S5の情報までチップに押し込む』って言っていたはずだ。
S5の情報を、机上の膜内のチップへ入れ込むには、どれくらいの時間が必要なのか。ハーヴェストが言うように、『時間は充分にある』のでは、こちらの身がもたない。いや、身、というか、まず服がもたない。なんせ、今、脱がされかけているのだ。―――そんな、ノタノタやっていたら、見事に剥かれるに違いない。つるんと剥かれる。現段階で背後の人の指先は、シャツのボタンをすでに下から8つ程、鮮やかに外しているのだ。何その神がかった技術。何その器用さ……!!
佐倉は机を膝で蹴り上げた。
「早くしろってば!!」
もちろん小娘が膝蹴りしたぐらいで、校長室にありそうなご立派な机に何か影響が出るわけもない。
だが、背後の男は非常に愉しそうだった。いや背後の輩を喜ばせるためにやったわけでは、断じてない。笑う男の指の動きが、ふと、止まったのはその時だ。心臓の上あたりでボタンを弄ぶ指先がぴたり、と止まった。
ハーヴェストの手が、今までの揺るやかな動きから、一変する。
鳩尾あたりにあった手が、素早く上へと伸びた。
指が首を掴む。
前かがみだった身体が、無理やり起こされる。机上の膜に固定された腕が引っ張られた。
「痛っ……」
手首は机上で固定されている。痛いくらいに腕が伸びきっていた。痛い。めちゃくちゃ痛い。しかも首を掴んで無理やり体勢を起こさせた男は、さらに容赦がなかった。顎に親指をかけ、首を大きく仰け反らせる。
「教授」
重低音がした。圧迫感が襲ってきた。佐倉の首筋を指が這う。
遠くで、S4開示がどうのという機械音声がしていたけれど、やはり佐倉は全く聞いていなかった。
「教授――――味見、したな?」
ハーヴェストの鋭い声がする。
それから背後の男から圧迫感が薄れた。「上書きとはまた……面白い」と何かに感心しているような呟きが続く。
何の、話。
佐倉に問いただす余裕は無かった。仰け反るように力を加えられた首筋が張っていて、痛い。
鼓膜を震わす低い声が、耳元に落ちた。
「だが駄目だ―――この女は、俺のだ」
仰け反った首の横に、ざらついた感触。
背後の男の唇と認識する前に、佐倉の思考が脇にそれた。―――ああ、この人。一応、こちらを女と理解してたのかぁ。
その瞬間、首に激痛が走って、佐倉は息を呑んだ。
「イッ―――――!!」
首。首が。
首の皮膚に、強く、歯が押し当てられている。
いや、押し当てられているなんて生易しいものじゃない。
それは、噛むという行為だった。
……背後のヒト、なぜか首、噛んできました。
首を噛み千切ろうとしているのは、隣の獣じゃなくて、背後のヒトでした。
佐倉は叫んだ。
「ッ―――痛ダダダダダダダダ!!!」