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バルフレア・ハイン 10

 ざわり、とする。

 首筋に湿った舌のあたる感触があった。犬歯が皮膚に擦れるような感覚。咽喉が引きつって、息が止まる。噛まれる。佐倉は痛みに身構えて、目を閉じた。


 痛みは、無い。


 かわりに、固くとじた目蓋を含め、顔全体を勢いよく舐められた。

「わっぷ」

 驚いて目を開ける。巨大な漆黒の狼の猛攻は止まらなかった。めちゃくちゃ舐められた。しかも勢い良くだ。勢いが良すぎて、顔をそむけ、すると首を舐められる。くすぐったいというか、舌の勢いが良すぎて痛いくらいだ。ちょっと、待って。猛攻に押されて、ずるずるとしゃがみこむ形になる。

「ちょ……っ」

 逃げようと四つん這いになりかけて、耳下から首の後ろ、うなじにかけてを舐められた瞬間、


「やっ……ふぎゃーっ!!!」


 佐倉は勢いよく叫んだ。突然、耳下から腰にかけて、電気が走ったような感覚に襲われたのだ。手足を必死に動かして逃げようとしたが、全身から嘘みたいに力が抜けている。ハイハイ歩行もできない。電気が走ったような感覚のあった場所から、身体中にぞわぞわとした痺れが広がった。

 腰、抜けてる。


 佐倉は慌てた。なんで、腰が抜けてるんだ。眼前の動物の怖さにか。佐倉は無我夢中で手を動かした。まずは手に持っていた紙袋を獣に投げた。紙袋は強張った腕のせいで、見当違いな所に飛んでいく。だが狼は突然の飛び道具に驚いたのか、軽いステップで佐倉から離れた。


 やった、離れた……!!


 つまり、何かを投げていれば、この狼は近づけないし、食べられることもないってことだ。佐倉はその考えに飛びついた。すなわち、次の手近なモノ―――紙袋とは反対の手で握りこんでいた「それ」を、佐倉は狼、めがけて投げつけた。


 投げた「それ」は、狼の方向へ見事に飛んだ。しかし、狼にあたる前に床にぶつかり、石畳とは異なる滑らかな床上で一度跳ねた。円筒型で角の無い形をした「それ」は勢いよく転がる。


 床を転がる「それ」が、大きな窓から取り込まれた陽光に反射する。

 佐倉はその光に目が眩んだ。

 いや、目が眩んだ、というより、眩暈がした。



 自分のアホさ加減に。

 ―――それ、投げちゃダメだろ。


 佐倉は、握り締めていた円筒の硝子―――某氏曰く、通称『チップ』を放り投げたことに、はた、と気付いた。脳裏にあの重低音の声が蘇る。『教授がいる。教授にその―――チップを渡せ。そして俺が合流すれば、ササヅカ新兵部隊員の任務は終了だ』


 渡すはずのチップ、投げちゃった。

 ダメだろ。絶対ダメだろ、それ!

 佐倉は転がる硝子を追いかけようと立ち上がりかけ、長いスカートの裾を踏む。立ち上がれずに膝をついて、もたついた。視線の先の円筒硝子は、滑らかな床上で、突如、動きを止めた。良かった。失くさずに済みそうだ。失くしたら、任務は別の意味で終了してしまう。佐倉は、膝立ちハイハイのまま突き進もうとし―――


 チップの先に、黒い毛で覆われた前脚があることに、気がついた。

 円筒硝子が、突如、動きを止めた訳を知る。うん、円筒硝子が転がった先で、狼さんがお座りをしていました。佐倉は四つん這いのまま、チップから目線を緩やかに上げ、狼を見つめた。お座りをした四足歩行の獣の尾が、ぱたん、と一度床を叩く。金の瞳が一瞬輝いた、気がした。


 狼が頭を垂れ、足先で止まった円筒硝子を嗅ぐ。そのまま器用に咥えると、お座り解除。滑らかな床上で、かちゃかちゃという爪音をさせながら、狼は身を翻した。そして颯爽と歩き出す。佐倉は呆気にとられた。そして慌てた。それ、持っていかれたら困る。


 すごく、困る……!


「ちょ、ちょっと待っ」

 佐倉も慌てて獣を追う。立ち上がりかけ、またしてもスカート裾を踏んづけて、膝を固い床に強打した。スカートは二度とはかない。心に決めた。長いスカートって、動くのに全然適してない!

 四足歩行の獣を、高速ハイハイで佐倉が追いかけ、その尾に手を伸ばす。ひらりとかわされ、佐倉の手が空振る。このクソ狼……!!


「返して! それが無いと……!」


 他の「獣」に何をされるか分からない!

 佐倉は必死に狼の後を追う。ようやく靴裏が、裾ではなく床を踏んだ。佐倉が狼に飛び掛りかけた瞬間、獣が書斎机に前脚をかけた。

 その書斎机は、この室内で、一際存在感のある机であった。校長室にある校長先生の机のように立派なものだ。その木製机の上に、何かを落とした硬質な音がする。チップだきっと……!!

 後ろ足で伸び上がり、机に前脚をかけている狼の隣に、佐倉は飛び出した。木製机の上に、狼と同じように勢い良く手をついて―――


 佐倉の予定としては、ばん、と固い木製机に手をつく予定だった。両手をついて、勢いよくチップをもぎ取り、隣の狼から脱兎のごとく逃亡を謀る。そういう予定だったのだ。そう、それは予定であって、現実は大きく違っていた。


 現実は、めりこんだ。

 両手が、机に、めりこんだ。

 ばん、と手をついたら、めりこみました手首まで。

「ええええええええ」

 その机の上は、佐倉の予想していた机の上の様子とは、全く違っていた。机上全体が、水の膜が一層張られたように揺らめいている。机脇に置かれた石膏の女性胸像の台座も、無造作に置かれた本も、水のような膜に半分浸っていた。その膜の中に突っ込んだ両手は、熱さも冷たさも感じなかった。ただ、手全体を低反発の枕に押し当てたようなゆっくりと沈みこむ感触だけが、そこにある。


 佐倉は両手を引いた。

 そうだとは思っていたが、案の定、抜けなかった。

 完全に両手が、机上の膜に固定されてしまっている。

 ほら、やっぱりね!

 佐倉は自暴自棄に思った。こういう時ってのは、手を突っ込んだら抜けないものだし、狼は隣で同じように前脚を突っ込んでいるもんだし、そしてチップも机の中で沈んでいるものなのだ。


 狼が咆えた。佐倉はその咆哮に驚き、反射的に逃げようとした。もちろん全く動けなかった。狼の咆哮に呼応するように、机上の膜が波紋を描く。中に沈んだ円筒硝子を中心に、波紋が広がっていく。波紋は佐倉の両手首にも、狼の前脚にも到達した。

「―――魔力、検知」

 突然、柔らかな大人の女性の声がした。どこ。佐倉が目が彷徨う。まさか、教授って女の人?

「S1開示指示、認証審査、認証審査」

 女性の声は、ニンショウシンサと、繰り返している。その間、佐倉は人を探した。部屋の中には誰もいない。しかも、この声、近くから聞こえてくるのだ。佐倉はおそるおそる机のほうへ顔を出し、声がする獣の横を覗き込んだ。


 獣の横、机上には石膏の胸像がある。美術室にありそうな、女性の胸像。まさか、ね。まさか、あれがお喋りをしているなんてことは……石膏の白い唇が、滑らかに動いた。

「認証審査」

 佐倉は呻いて顔を引っ込めた。そうだよ。机に手がめりこんで抜けないくらいなんだから、石膏だってそりゃ喋る。驚くことじゃない。驚くことじゃないとも。

「認証審査―――否認。S1開示指示、認証できません。S1開示指示、認証できま」

 狼の咆哮が石膏女性の声をかき消した。驚くことじゃない。佐倉は必死にその言葉を唱えた。大丈夫。全然驚くことじゃ


 狼が、石膏の頭に猛然と襲い掛かった。石膏女性の声がスロー再生の声のように変化した。続く石を噛み砕く音。しばらくして狼が体勢をもとに戻した。佐倉はゆっくりと身を乗り出して、石膏女性の状態を確認した。


 顔、半分無くなっていた。

 鼻から上が綺麗さっぱり無い。

 白い唇が引きつって動いた。

「えええええええすわぁぁぁんくぁああああいじぃぃぃぃ」

「ぎゃああああああああ」

 佐倉は涙目で飛び跳ねた。

 驚くっていうより、本当に怖い。スロー再生のような声と頭部の無い石膏が怖すぎる……! 何、このホラー! 何この状態!!


 狼がもう一度咆哮した。佐倉は叫んで、どうにか机から手を引き抜こうと飛び跳ね続けた。

 その背後で、くっくと笑う音がした。


 獣の咆哮と自分のパニックのわめき声とは別の、静かで、そして愉しそうな笑い声。佐倉は振り返る。大きな音ではなかったのに、その声はすぐに分かった。

 扉の前に、白衣を着込んだ男が立っていた。

 青灰色の瞳で、こちらを愉快そうに眺めている。笑っている場合では断じてない。佐倉はパニック状態のままで、叫び声を止めることができなかった。


 彼はのんびりと小首を傾げた。

「随分と」

 この状況にそぐわな過ぎる落ち着いた声。

「愉しそうな状況だな、ササヅカ新兵部隊員?」

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