バルフレア・ハイン 08
ハーヴェストが歩きながら、少しこちらを振り返った。
彼は指でつまんだ「それ」を、佐倉の前で軽く揺らした。受け取れ、彼は無言でそう言っていた。
佐倉は小走りでハーヴェストの隣に追いつくと、指でつまんでいる「それ」を受け取った。
受け取ったものをマジマジと見つめる。
「それ」は、佐倉の掌で握りこめるくらいの小さな円筒だった。透明の硝子で、中に無色透明の液体が揺れている。円筒の両端は丸みを帯びた半円形。落としたら簡単に割れてしまいそうだ。継ぎ目がなく、どうやって中に液体を入れたのか分からない代物だった。
そして、これが何かも、佐倉には分からなかった。
「これ、何?」
佐倉は少し早歩きで、先を歩く男を見上げた。
「それは世間では、チップと呼ばれているものだ」
「チップ?」
「それに情報を満たす」
佐倉は手の中のチップと呼ばれた硝子を見つめた。液体が中で揺れている。満たす。そう、情報をこの中に満たすってわけか。つまり、この人は情報を満たしにきた、ということだ。
「紛らわしいなあ!」
ハーヴェストがくつくつと咽喉を鳴らした音が聞こえた。
確信犯。顔が火照るのを感じた。騒いでいるこちらを、この人はどう見ていたんだろう。
「その中に、入れるモノのことだが」
彼は世間話でもするかのように、のんびりと言った。すれ違う白衣の人も全然、気にする気配が無い。通り過ぎたその人は、手に持っているファイルに目線を落としたままだった。今の人は、すれ違った男が、自分のギルドの情報を略奪しにきたなんて、夢にも思っていないだろう。
「最近、住民カードの違法物が出回っている」
「住民カードの違法物?」
言いながら、はたと気付いた。
自分の住民カードも、立派な違法物ではないだろうか。
悪気は無いが、悪気は無くても性別と年齢は偽っている。
そのことに気付いたら、胃が極度に緊張した。
あ、あ、どうしよう。出回っている違法物のひとりは、自分かもしれない。
「えっと、住民カードの違法物って、どんな?」
「質の悪い模造品の製造とその使用だ」
「それは、最低な違法行為だ! 地獄に落ちたほうがいい!」
うわー、良かったぁ! 私じゃなかったぁぁ!
安堵で意気込んで相槌をうってから、首を傾げた。住民カードの模造は、どうやら違法らしい。普段、持ち歩いてもいない佐倉には、それがどんなふうに違法なのかも浮かんでこなかった。
「その、模造品が使用されて、どうなったの?」
「いや、使用されても、何も起こらなかった」
何も起こらなかった?
「なら、問題ないんじゃ……?」
ハーヴェストは首を振った。
「問題は、何も起こらなかったことにある。質の悪い模造品は、一部の基準点に達していた。だから、模造品の使用者は、街を平然と歩き回ることができた。そして今、その偽物カードはこちらの手にあり、使用者の姿は無い―――そのクソ野郎がどこで複製を手に入れ、何をしたのか、グレースフロンティアの人間なら、多少なりとも興味がわくだろう?」
さて、どうしよう。佐倉は思った。どうしよう、驚く程、興味が全然わいていなかった。
ハーヴェストの視線が偶然にも、こちらとがっちり合った。彼は一瞬、少しだけ目を見開いた。うわ、何故だかバレたと悟った。彼は笑った。
「普通の、グレースフロンティアの人間なら、興味を持つんだがなササヅカ新兵部隊員」
彼はそう言って笑い、古城の薄暗い通路で立ち止まった。
「グレースフロンティアは、どんな仕事をしている所だ?」
「どんなって、訓練と雑用」
「それは新兵部隊の仕事だ。昼街部隊は何をしている?」
「昼街部隊は祭の準備」
ハーヴェストがくつくつと笑って、首を振った。分かってるよ。正解じゃないことくらい。佐倉は続けた。
「と、昼街の警備と外門管理と喧嘩と女王様のご機嫌伺い」
言いながら、あの金髪を高く結わえた女王様を思い出す。昨日まで、全身が震え上がるくらい怖かった存在が、驚く程ぼんやりと霞んでいた。何度も何度も頭の中で繰り返していた頬の衝撃と地面が揺れるような映像は、すぐさま、頬をなぞる指の感触へと変化する。息が出来なくなるくらいの威圧感を思い出す。そして、頬の傷をなぞる指が離れ、顔が近づいてきて――
「で、正解は!?」
佐倉は慌てて、ハーヴェストに食ってかかった。
「だいたい、それで合ってるだろ」
ハーヴェストは肯定した。へえ、つまり昼街部隊の仕事は、祭の準備と昼街の警備と外門管理と喧嘩と女王様のご機嫌伺いってことか。……だいたい合ってるんだ。女王様のご機嫌伺い。
「警備をする街に、違法な輩がいたら、お前はそれを許容できるか?」
ハーヴェストは、こちらに訊ねた。
なるほど、ぴんと来なかったのは、自分がまだ新兵部隊にいるせいなのかもしれない。新兵部隊は訓練と本部の雑用が仕事だ。昼街部隊のように、街の警備はしないし外門管理もしていない。
街の治安を守る各街部隊にとっては、違法な模造品を使って出歩く存在は、無視できないものなんだろう。
佐倉は話そうと口を開け、一瞬ためらい、声を小さくした。
「ここの情報をもらうと、その違法な輩の正体が分かるの?」
ハーヴェストは小首をかしげ、薄く笑った。
彼は再び歩き出す。佐倉も続いた。
「昼街からここに来る時、住民カードを提示したことを覚えているか?」
昼街からここってことは、ハーヴェストが言っているのは、パルテノン駅の改札のことだろう。そりゃ覚えているに決まっている。住民カードを持っていないことで、人の流れを止めてしまった。本当に恥ずかしいし申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ああやって住民カードを提示すると、提示したデータはこの―――バルフレア・ハインに蓄積される」
「私達の今日の行動も?」
「住民カードで、魔法認証なり機械認証をすれば、跡は必ず残る」
「つまり、違法カードもどこかで提示していれば、ここにデータとして残っているってこと?」
佐倉は手に握り締めたままだった円筒の硝子を見つめた。
そしてこのチップの中に、その情報を満たすのだ。
「それで、どうやって―――」
この中に情報を満たすの、と訊ねかけた瞬間、ハーヴェストが突然、通過する直前だった扉に手をかけた。閂を開け、扉を引く。
「そこで待ってろ」
彼はのんびりとそう言って、ひとり、扉の中へと足を踏み入れ―――扉を閉めた。
残された佐倉は呆然とした。突然、ひとり、見知らぬ薄暗い古城の通路に取り残されたのだ。驚きすぎて、声も出ない。待ってろ? いやいやいや、そんなにあっさりと言われても。佐倉は人が通らないことを祈った。今見られたら、あからさまに挙動不審な行動しかできない自信があった。
その時だ。
扉の向こうから、堂々とした音がした。その音は他人様のギルドってことを全く無視した、遠慮を知らない音だった。それはまるで、いや絶対に、中で何か硝子製のものを破壊した音だった。絶対、割った。中の人、絶対、器物損壊した。やったね、あの人、違法行為の真っ最中だ……!
佐倉は強く願った。どうか人が通りませんように。こちらが挙動不審でなくても、この音が聞かれたら、間違いなく牢獄行きだ。この薄暗い通路でひとりでいるのが怖すぎて、ドアを開けて中に入りたいという気持ちになってくる。でも、中も中で怖いに決まっている。怖さでいったら、中で行われている行為のほうが、より怖かった。素晴らしい。見事に踏み止まって、ハーヴェストの指示通り、「そこで待ってろ」が、実行できた。
扉が、ぎい、と軋んだ音をさせて開く。
ゆっくりとハーヴェストが出てきた。
佐倉は彼を見て―――彼の格好を見て凝固した。
ハーヴェストはまるで何事も無かったかのように、脇に抱えていた紙袋を投げて寄こした。佐倉は条件反射で受け取ったが、紙袋なんてほぼ見てなかった。ハーヴェストに釘付けだった。彼は、中で羽織ったらしい「それ」を、まるで自分の物のように自然と袖を捲くりあげた。
いや、おかしい。
彼が着ている白い「それ」は、ガクジュツトケンキュウノギルドのものだ。傭兵ギルドの男が「それ」を着て、どうしてこんなに似合うのか。おかしい。絶対、おかしい。
「はくい……」
佐倉は呆然と呟いた。まさかの白衣だった。ハーヴェストと白衣だった。傭兵ギルドの男と白衣だった。しかも何の矛盾も無く、最高に似合っていた。いや、そこがすでに絶対間違っている。白衣を羽織った傭兵は、呆然とする佐倉に顎で紙袋を示した。
「中で着ろ」
言われて、紙袋に視線を落とした。折り曲げられた袋の口を開くと、目に飛び込んできたのは白衣の白……ではなく、紺色だった。紺色の布地に、元気良く駆けて行った子供達を思い出した。
制服だ。
思わず顔を上げた。
「えっと、何で制服?」
ハーヴェストが白衣の両脇のポケットに手を突っ込み、小首を傾げた。いや、だからなんで傭兵ギルドの男が……。
「奥で私服は目立つ」
「あ、それで白衣と制服ってこと」
ハーヴェストは口の端を引き上げる。
「他に、着る意味があるのか?」
……いや、なんかのプレイかと。
口から出かかった、けど堪えた。素晴らしい。日々、成長だ。
確かに、自分が白衣を着たら、私服より浮くだろう。ハーヴェストが白衣。そして自分が制服。うん、合ってる。間違ってない。間違っていないけど。なんだろう、このワイセツな感じ。いや、ハーヴェストの白衣は似合っている。似合っているのだが、だからどうして傭兵ギルドの男が、そんなに犯罪的に白衣が……
「それを着たら、この道を真っ直ぐ行け」
ハーヴェストが、親指で彼の背後を示した。
「警備はいるが、制服を着ていれば誤魔化せるはずだ。立ち止まるな。その先の突き当たりに階段がある。階段を上がって右の4番めの部屋で、協力者にそれを渡せ」
「ちょ、ちょっと待って!」
佐倉は慌てた。なんだか今の指示は、まるで―――
「ハーヴェストは、一緒じゃないの?」
彼は面白そうに、そしてからかうように、こちらに少し顔を近づけた。
「一緒でなければ、出来ないのか?」
言われて、佐倉は押し黙った。
その言い方はずるい、と思う。
出来ないと思っても、出来るって言わなくちゃいけないって気がしてくる。
自然と背筋が伸びた。
「もう一回、ゆっくり言って。一度じゃ、覚えられないからびっくりしただけ」
言ってすぐに後悔した。馬鹿だ自分。これでひとり行動が決定した。こんな薄暗くて気味の悪い古城で、ひとりで行くと自分から言ったようなものだ。
後悔はした。でも、やるしかない、とも思った。言ったんだから仕方ない。きっと駄々をこねて、ひとりじゃ嫌と泣き叫ぼうと、この眼前の人がどうにかしてくれるとは思えなかった。むしろ、この人は、嬉々として泣き叫ぶ人を崖から突き落とす人だ。
よし、やろう。紙袋を無意識のうちに強く抱き締め、佐倉はハーヴェストを見上げた。
ハーヴェストは、頷いた。
「服を着て、この道を直進しろ。突き当たったら、階段を上がれ。右手の四番目の扉を叩け―――教授がいる。教授にその」
彼は、佐倉が握り締めている硝子に、視線を落とした。
「チップを渡せ。そして俺が合流すれば、ササヅカ新兵部隊員の任務は終了だ」
佐倉は頷いた。右の四番目の扉。右の四番目の扉の先にいる、教授にチップを渡す。もう一度、ゆっくりと頷く。
佐倉は、横の扉に手をかけた。
「服、着てくる」
ハーヴェストは頷き、少しかがんでいた身体を起こした。音も立てずに穏やかに、彼は離れていく。すでに佐倉のほうを見ていなかった。ハーヴェストもハーヴェストで、何かすることがあるのだろう。
「ハーヴェスト?」
小さな声で呼べば、白衣を着た男は振り返った。
青灰色の瞳がこちらを見つめている。
「あの、怪我」
しないように気をつけて、と言おうとして、なんか違うと思った。この人、気をつける必要があるのだろうか。いや、逆だ。周囲が、この人に、気をつけるべきだと思う。怪我をするのはこの人ではない。そんな状況になったら、怪我をするのは間違いなく周囲だ。
逡巡して、結局、口から出てきたのは、
「人に、怪我をさせないよう、極力、穏便に行動してください」
と、いうハーヴェストの無事を祈るはずが、なぜか周囲の無事をハーヴェストにお願いする言葉になっていた。
ハーヴェストは、白衣のポケットから手を出し、首の後ろを軽く揉んだ。
そして、にやりと笑んだ。
「誠意、努力はする」
そんな言葉に、日々、成長しているはずの口がむずむずした。
あ、まずいと思う。
「嘘くせえ!」
うん。この口、日々退化しているに違いない。
―――ハーヴェストと別れ、入った部屋で、佐倉は紙袋から制服を取り出した。
用意されていたのは、白地のワイシャツに紺地の制服。
やはり子供達が来ていた制服に、良く似た物だった。
そして制服の色合いが、佐倉が着慣れた高校の制服にも、似ているように感じた。紺地のブレザーに、赤いリボン。スカートは膝丈よりも上で……
思い出しながら佐倉は、紙袋から取り出した服を、腰にあてた。
「スカートの長さは、全然違うね」
そう言いながら、腰にあてた服の丈を見る。
膝より、ずいぶん下まで長さがあった。
そう、それは膝下より長いロング丈の―――スカートだった。
ハーヴェストが寄こしたのは、『女の子の制服』だった。
しかも、サイズぴったりの『女の子の制服』だった。
佐倉は心の中で、真剣に思った。
……あの人、私のこと、どう見ているんだろうか。
腰にスカートをあてたまま、佐倉はぼんやりと思った。
ハーヴェストが、こちらを女の子として見ているのなら、この制服は問題ない。
腹の音を聞かせるのだって、頬を舐めるのだって、手を繋ぐのだって、女相手なら大丈夫と思ってハーヴェストがやっているなら、問題は全然……いや、オオアリだ。相手が異性だからって、何でもアリにされたら、こちらは心底怯えるしかない。
だが、それ以上に怖いのは。
佐倉は血の気が引くのを感じた。最も怖いのは、あの男が、自分を男の子として見ていたらどうしよう、ということだった。
男の子として見ていながら、腹の音を聞かせ、頬を舐め、手を繋いだとしたら。そして―――この、女の子用の制服を、彼が男の子の為に用意したと考えると、猛烈に凄まじい恐怖に襲われる。
神様、男の子に、女の子の制服を用意する真意って何ですか。
男の娘になれってことですか。
そういうことですか……!?
佐倉は腰にスカートをあてながら、しばし呆然と立ち尽くしていた。