扉の先 02
甲冑兜の男は言った。
「遠慮せず、眠ったらいい」
子供はもう眠っている時間だと、半ば強制的にベッドに促されて、横になる。
横になったからといって、ここで眠れる輩は凄まじい胆力だと思う。
あの後――紅の女の逃亡は未遂に終った。佐倉もどうにか助かった。紅の女は諦めたのか、暴れることなく縄で縛られ、村人に提供された家に隔離された。もちろん見張りは、あの甲冑兜の男の人だ。
そして佐倉は、縄で縛られることもなく、ベッドに身体を横たえている。
時々、背中ごしに、甲冑の音がする。
時々、背中ごしに、「縄がきつすぎ」と、床に転がった女の声が聞こえる。
うん。眠れるわけがねーわ。
遠慮とかの問題じゃない。
鎧の人と縄で縛られた人を背に、どうして安眠できようか。
佐倉は、縄で縛られることはなかった。
でも、突然やって来た不審者であることは変わりがない。だからそのまま本部隊とやらが戻ってくるまで、佐倉も隔離が決定されたのだ。しかし、子供がこんな真夜中に起きて待っていることはない、とベッドに押し込まれて今に至る。縛られて床に転がる女と、椅子に腰かけ腕を組む甲冑男と、ベッドに寝かされた子供。珍妙な組み合わせ。
佐倉は呻いて、起き上がった。
その動きに、甲冑の男が気付いた。
「どうした?」
「えっと、眠れないなぁ、と」
「あんなことがあった後だ。目が冴えているんだろう」
いや、眠れないのは、貴方の素敵な甲冑姿のおかげです。
「ところで、名前を聞いてなかったな」
甲冑の男は、椅子を少し引きずって、佐倉のベッドの横に落ち着いた。
「俺は、モントール。君は?」
「私は、笹塚」
名前を言わなかったのは、相手が姓なんだか名前なんだか分からない名前を一つしか言ってこなかったからだ。相手が名字を言ったのに、自分だけがフランクに名前を言っていたなんてことになったら、居たたまれない。そもそも日本人で自己紹介の時に、名前だけを言うようなアメリカンな子、いるんだろうか。
「ササヅカ、ね。宜しく、ササヅカ」
ものすごく自然に手が前に差し出された。うわ、握手だ。
でも握手しようにも、相手は指の先まで鋼色。
鎧の人と握手するなんて、今までの人生であるわけがない。
ぎこちなく手を出す。触れた手は、ちっとも柔らかさを感じなかった。ひんやりと冷たくて硬い。それに関節ごとに稼動させるための金具が、手の内側に触れると少し痛い。
突然、ぽんぽんと頭の上で相手の左手が優しく跳ねた。なんぞ。
驚いて見やれば、甲冑兜の中から笑いが我慢できなくて吹き出したような音。
「な、何」
「いや、ずいぶんと物珍しそうにしているから。目が落ちそうだぞ」
笑いながら、甲冑の男は言った。再びぽんぽんと頭を跳ねる手。
「目が冴えているのなら、何か飲み物を持ってこようか」
「あ、うん。お願いします」
「よし、兄さんに任せておけ」
彼は、茶化すように言って席から立った。しかも紅の女を跨いで行く。えぇー、跨いでいったよ今。
そんな甲冑の後ろ姿を見つめながら、佐倉はぼんやりと思った。モントールという人は、確かにお兄さんって感じだ。年齢は私より上だろう。なんせ鎧を着込んでいるもんだから、声と仕草からしか想像できないけれど。面倒見のいいお兄さんタイプみたいだ。
甲冑兜を目で追って、部屋全体を眺める。
お借りしている家は、広くない。決して綺麗でもない。そこかしこに生活している痕跡があった。壁にかけられた服は働いている者の汚れた服だ。置き所に困ったように部屋の隅に乱雑に積み上げられた荷物。毎日、誰かが眠りにつき、毎日誰かが起きて一日の生活を始める場所。
佐倉は他人のベッドの上で、ひとつの確信を得た。
こんな場所、私は知らない。
当然の感想ではあったが、アフリカみたいな門に驚いたときよりも、剣と甲冑の人を見た時よりも、誰かが生活を営むこの部屋に、ずしり、とくる何かがあった。
異世界。
ふと浮かんだ単語がしっくり来た。
ここは異世界の誰かが住んでいる家だ。
誰かの生活の痕跡で、実感する。
見知らぬ誰かがきちんと生活している部屋だからこそ、今までの自分の生活との違いを見せ付けられる。そして、ここは違うと強く感じた。
どうしてここにいるのかは分からない。
でも、ここは、佐倉のいた世界じゃない。
異世界にいるんだ、と認識はした。でも、感情はまだついて来ていない。だからぼんやりと自分の世界ではあり得ない甲冑の後姿を眺めていた。甲冑なんて異世界そのもの。縄で縛れた赤い髪の女もしかりだ。
「ササヅカ」
甲冑兜の男、モントールが困り果てたように振り返った。
「ちょっと待っていてくれるか。ここにはお茶の葉もないようだ」
頷きかけて、あれ、と思う。モントールは戸口に手をかけている。え、ちょっと待った。もしかして外へ行こうとしている?
「ええ!? いいの!?」
見張り役だったのは、この甲冑兜のお兄さんのはずで。
モントールは外にすでに足を踏み出しながら朗らかに言った。
「大丈夫。それは無視してればいいから。すぐ戻る」
あっさりと扉は閉められた。残ったのは、床に転がる女と自分だけ。
目が合った。
目も紅いんだと、知った。
「仲良く待ってようねササヅカちゃん」
にんまりと言われて、全然、大丈夫じゃないと佐倉は思った。