バルフレア・ハイン 06
逝ってきました。
幸いなことに、無事、生還できました。
乗車駅とは色合いの異なる赤煉瓦色のパルテノン駅から一歩足を踏み出す。その瞬間、佐倉は『生還』という二文字の意味を知った気がした。ようやく、生きていることに安堵した。通学電車と同じ形をしているのに、こうも違う乗り物になるのが信じられなかった。誰だよ、あの緑の変なのに車両を引っ張らせようって考えたのは。何その珍発想。世の中に謝れ。
壁と箱胴体が擦れて、火花が散ったのが車窓から見えた時、乗り物として全然機能していないと……いや、うん、忘れよう。あれは、もう二度と乗らない。帰りにまた乗るっていうなら、何時間かかってもいいから、徒歩で帰ると主張しよう。
赤煉瓦色の巨大円柱の駅から出ると、昼街とはあきらかに違う風景が広がっていた。まず、目につくのは、道路の上空だった。両脇の建物から紐を橋渡ししている。そして、紐には色とりどりの洗濯物がはためいていた。高さや方向をかえて、洗濯物の長い紐が道路の上を横断している。
洗濯物が道路の遥か頭上ではためいているのが、衝撃的だった。
昼街では見たことの無い生活感が、そこにある。街の様子が全く違う。昼街は店ばかりが通りに並ぶ。民家もアパートもほとんどない。昼街のメイン通りには、アパートは存在しないだろう。
この街は、昼街と逆だ。店がない。
洗濯物や、道路の脇におかれた子供のボールが、佐倉にどんな街かを教えてくれた。
ここは昼街で働いた人達が、帰ってくる場所だ。
ここへ戻ってきて、彼らは温かい夕食を囲むのだろう。
つまり、ここはベッドタウンといった感じか。佐倉はそこで、ひとつの疑問に行き着いた。
それで、このベッドタウンで、私達は何をするの。
隣の男の手を引っ張る。
「ハーヴェスト、私、どこへ向かってるのか、聞いてたっけ?」
今さら。物凄く、今さらな気が自分でもしたが―――駅や緑色の変なモノに驚きすぎて、行き先が頭からすっぱ抜けていたことに、ようやく気がついた。
ハーヴェストも、今さらと思ったに違いない。くっくと隣から笑い声。
「ようやく少し、見えてきた。―――あれが、今回の目的地、だな」
そう言って彼は指をさす。
通りのアパートの隙間から建物が見えた。銅褐色の鐘楼だった。手を引っ張り返されて、無理やり歩かされる。アパートの隙間を覗けたのは一瞬だった。歩いたまま、今、見た物を思い出す。なんか、随分、厳かな感じの建物だった。
……食べる、場所、だよね?
パルテノン駅の通りから連れられて、道幅の大きな道路へ出る。昼街の大通り程の道幅はない。だが昼街の大通りと同じように、白壁の城が遠い風景の中にあった。この通りも店は無く、アパートばかりが立ち並んでいた。
緩やかに湾曲した道を、ハーヴェストはのんびりと歩いた。歩幅の関係で、引っ張られるこちらが少し小走りになる。歩きながら、道の先に目を向ければ、例の銅褐色の鐘楼が飛び込んできた。佐倉はその建物をまじまじと見つめた。
古城のような建物だった。
廃れた洋館というには、規模が大き過ぎた。グレースフロンティアより遥かに大きな古城がそびえ立っている。
鬱蒼とした木々に囲まれ、そこにだけ昼間の陽気さが全く無い。敷地は果てしなく広そうだ。敷地と通りの境界線は、黒の鉄格子がはめられていた。黒の鉄格子にはSという文字の両先端が螺旋を巻いているような細工がしてある。敷地を隔てるその鉄格子に至るまで、そんな装飾を施すような建物なのだから、中は相当だろうと、推測できた。同様に、窓にも装飾過多な鉄格子がはめられていた。
古城の壁は長い年月、雨風にさらされて最初の色を失ったのか濁ってくすんだ銅褐色、見るからに歴史のある建物だった。
そんな建物からは歴史と同時に、ある種の雰囲気が伝わってきた。
よく言えば、とても退廃的で、風情のある古城と云えた。昼間であるはずなのに、どこか吸血鬼の住処を連想させる。脳内で勝手に、深紅の薔薇が咲き誇っているイメージが出来上がる。きっとシャンデリアがあるに違いない。豪奢な天蓋つきベッドもだ。夜な夜な吸血鬼がその上で、夜着の女の胸元を開き、露になった首筋に歯跡をつけるような……
絶対、レストラン、じゃない。
極めつけに、鴉が飛び立って、古城の上を旋回した。最高だ。雰囲気は本当に最高だ。とっても、情緒に溢れている。悪く言えば、情緒が溢れすぎて、嫌な予感しかしなかった。
佐倉は、足を止め、涙目で叫んだ。
「一番って言ったじゃん!!」
どこをどう見たって、着いた先は寝る場所だ。食べる場所じゃない。あの古城は絶対、不健全な代物だ。背徳的な感じがひしひしとする。いや、なんでアパートだらけのメイン通りに、あんないかがわしそうな建物が、どん、とあるのか。住民よ、それでいいのか!
「食べに来たんだよね!?」
「何かを、満たしには来たが」
何かって、なんで今そこ、あやふやに表現したのこの人は。
「何かって何……待って、いい。言わなくて、いい! 口を開くな!!」
なんかとんでもないことを隣から言われそうな気がする。佐倉は真っ赤になって、顔を拭おうと手を上げた。相手の手も一緒についてきた。そこでようやく気がついた。
……なんだこの手。
凝視した。うん、手だね。男の人の手だね。立派な手だね!
……なんで、ハーヴェストと手を繋いでいるんだったか。
鈍器で後頭部を殴られたくらいの衝撃が来た。いつ、握ったっけ。いや、ずいぶん、前から握っていたと思う。この女性とは違う骨張って硬い大きな手を、握ったり押したりしていた、気はする。電車の中でもこの手の感触で遊んでいた。爪を押したり、親指相撲をしたりして、窓の外をできるだけ見ないようにしていたのも覚えている。ハーヴェストは、こっちのしたいようにさせていたけれど、うん、だから、どうして握っているだろう。
耳まで温度が上がって、沸騰するかと思った。
何だ、今日。
どうした自分。
頭がおかしさに拍車が掛かっているらしい。
きっと、グレースフロンティアから連れ出されたその時から、この人の得体の知れない気迫のせいで、全然頭が働いていないに違いない。でもこれは酷い。
佐倉は、おそるおそる手を降ろし、静かに、気付かれないように願いながら力を抜いた。そのまま手を抜こうとした。ハーヴェストの指が、こちらの手首を掴む。彼の親指のハラが、佐倉の手首の内側、脈のあたりをゆっくりと押し撫でた。ぎょっとして顔を上げる。ハーヴェストはこちらの目を見ていなかった。目線はもっと下。繋いでいたお互いの手を見つめていた。
「随分と小さいもんだな」
言われて佐倉も手を見下ろした。大きさも色合いも全然違う二人の手がそこにある。日に焼けている自分の手が、華奢に見えたのは、掴んでいる長い指と大きな掌があまりにも男らしすぎたからだろう。佐倉の手は、訓練のせいでマメと傷だらけだ。女の子としては失格の手だと思う。しかも日に焼けすぎている。でも、これだけ相手の手が大きければ、華奢にも見えようというもの。
「小さい、というか、ハーヴェストの手が大き―――」
こちらが言い終わる前に、ハーヴェストの長い指が動いた。
指が絡んで、お祈りをする手みたいに、しっかりと繋ぎなおされた。ちょっと、待て。組みなおされた手を、佐倉は目が飛び出るかと思うくらいに凝視した。なんか、今、この瞬間―――
手の繋ぎ方が、グレードアップされました……!!
「いやいやいや……」
「よし、じゃあ行くか。ササヅカ新兵部隊員?」
「よし、じゃない! 全然、よし、じゃない!!」
しかも連れて行かれる先は、古城ときた。何かを満たす為に行く古城ときた……!
もうあからさまに、1番じゃないと思う。絶対に行き先は1番の『食べ物を食べる』じゃない! この先に待っているのは強制的に気持ち良くなるっていう例の……ふぎゃああああああ。
涙目どころか、泣きべそをかく羽目に陥った。
もがいて突っぱねたけど、全然止まる気配が無い。
ハーヴェストは笑った。ここで笑うとか、この状況で笑うとか……!
「こんの―――ヒトデナシ!」
佐倉が叫んだ。そのヒトデナシの横を、小さな子供が駆け抜けて行った。
紺地の制服に学生帽を被った子供が、肩から斜めにさげた布地鞄を掴み直しながら、佐倉とヒトデナシを追い越して駆けて行く。子供は、反対方向から歩いてきた同じ制服の子供に手を振った。友達だったらしい。二人は仲良く古城の門をくぐって姿を消した。
あれ。
今、あの子達、古城に入った………?
佐倉はその様子を見つめ、沈黙した。
再び、背後から佐倉とヒトデナシの脇を、子供がひとり駆けて行く。同じく、制服に学生帽。そして先ほどの二人のように、古城の門の中へと消えて行った。
「ヒトデナ――あの、ハーヴェスト?」
子供が、行く古城?
「あの建物、何……?」
ヒトデナシは、こちらの質問に心底、楽しそうだった。
そうして、彼は答えた。
「あれは、バルフレア・ハイン――――学術と研究のギルドだ」
へえ、ガクジュツトケンキュウノギルド。
……だから、そこへ何をしに行くの。




