バカラ 02
『ササヅカ新兵部隊員へ』
掲示板の走り書きの書き出しは、いつもこの言葉から始まる。そして終わりには、必ず『H』というイニシャルが一文字。張り出し人は『H』、本部四階に住んでいるらしい例の男である。腹の音を聞かせるような例の男である。人の血を舐――とにかく、その例のH氏が、何の遊びか二日、三日に一度、掲示板に走り書きを残していく。内容は、朝飯か昼飯か夕飯か夜食のお誘いだ。初掲示からこちらがすげなく断っているにも関わらず、新しい紙を出していくのだから、某H氏の執念深さがうかがい知れるというものだ。
今日もまたしかり。
『ササヅカ新兵部隊員へ
明け方四時。
夜街の紅蓮亭。
いい加減、諦めろ。 H 』
いや、明け方四時って何飯だよ!
佐倉は笑いを噛み殺しながら、掲示板の桟に置かれたペンの蓋を外した。書くことは決まっていた。
『眠ってます』
当然の断り文句の後、H氏の『いい加減、諦めろ』を囲っておく。二人の攻防は、毎回この調子だ。別にH氏に会いたくないわけじゃない。むしろ、あんなに怖い人なのに、食堂のことを思い出しては、一人赤面したり、掲示板のやりとりにニマニマしたり。
諸手を挙げて、あんな怖い人に「是が非でも会いたい」と言ってしまうと自分の神経がおかしくなったことになる。でも「会いたくない」と否定するほど、あの怖い人が嫌いなわけではない。すると答えは、「会いたくない、わけじゃない」という、端から見ればなんとも思春期のツンデレみたいな答えにおさまった。
今は掲示板でやりとりするくらいでいい。この人の珍妙な誘いが面白くて、それ以上を求めていなかった。それに、そんな朝四時とかに食事する気も起こらんし。
「お前がササヅカ?」
真後ろから声がかかった。振り返ると、鎧のオッサンが立っていた。
「毎日笑いをありがとう」
にやり笑いでそう言いおいて、彼は今日の掲示物に目を走らせ、吹き出した。
「何時に飯食ってるんだH氏は!」
佐倉が書き込みをする以前に見た人たち、誰もがそうツッコンだに違いない。
「ですよね、この人、ウケを狙っているのか、本気でその時間に食べ物を摂取したいのか判別つかない」
初めて会った男とひとしきり笑い合った後、
「ところでよ、このH氏ってのはどこの部隊の人なんだ?」
と、お決まりの質問がやってきた。
こういうサグリ、ものすごく多いのだ。
この掲示板の隅っこの攻防戦で、佐倉は少し名前が売れた。怪文章の送り手であるH氏が、毎度飽きもせずに『ササヅカ新兵部隊員へ』と、書くのが原因である。名指しの佐倉は隠れることができず、自然と注目が集まって、H氏のことを詮索される。
彼がどこの部隊の誰なのかという質問は、もう耳タコだ。
佐倉はいつも通り、はぐらかした。
H氏がその名を伏せているということは、人に知られたくないってことかもしれない。佐倉が勝手に喋って、機嫌を損ねられたらこっちに噛み付いてきかねない。
「さぁ、私もよく知らないんです」
「よく知らない人に誘われてるのか?」
「よく知らないから断ってるんですよ」
佐倉の答えに、鎧の男は笑った。
「俺、ミカエル・ハヅィの動向より、あんたとH氏のほうが気になるなぁ」
言われて思い浮かぶのは、あの同期の白冑の美童だった。
白冑の美童は、今や新兵部隊の顔みたいな扱いだ。ギルド内外からあの美童を一目見ようと人が押しかける。流麗な剣の扱いがどうのと騒がれているようだが正直、佐倉にはどうでもいい。訓練でムドウ部隊長に追い回されている佐倉には、ミカエルを見ている余裕なんて全くなかった。
「ミカエルに対抗しているわけじゃないですし、私とH氏はどうにもなんないですよ」
「どうにもなんねーのは、てめえのそのワンパターンな逃亡先だろ」
言われた瞬間、襟首を掴まれた。
色白で、病的に痩身な猫背男が凄まじい形相でそこにいた。
「なあ、俺はいつから、お前係に任命されたんだ?」
ものすごく嫌そうに言われた。
「いや、こっちは全然お願いしてないけど」
ラックバレーは唸った。
「てめえがお願いしなくても、いろんな所から言われるんだよ。ムドウ部隊長が拳鳴らして待ってる。早く行くぞ」
それで、早く行こうって気には全然ならない。小さく抵抗する。ラックバレーの舌打ち。問答無用で引きずられる。両足を突っぱねて、飼い主のリードに抵抗する犬みたいな状態になり、最終的にラックバレーが、このクソガキャァ……と、物騒な言葉を吐いた。途端に身体が宙に浮いた。麻袋のように肩に担がれた。またこれだ。ずるい。こうなると引っくり返った亀みたいなもの。抵抗もほぼできないまま、佐倉は訓練所に連れ戻された。