バカラ 01
この世界は、今頃、夏を迎えている。
半月程前、この街に訪れた時、佐倉は朝晩、少し肌寒さを感じていた。夏でも涼しい土地なんだ――――そう、勘違いしていた。一日、一日、気温の上昇を肌で感じ、照りつける太陽に鎧兜の中で蒸された巨漢達が倒れていくのを目の当たりにして、ここはこれからが夏の本番なんだと気付かされた。夏真っ盛りだった佐倉の知る世界とは少し、季節がずれているのかもしれない。だが考えれば当然だ。夏にここに来たからと言って、ここの世界も夏だなんて限らない。
今年二度目の夏は、蝉の声がしない不思議な夏だった。
佐倉は訓練所の重い扉を押し開いて、外に出た。別名、訓練からの逃亡、である。即座にカウンター前の定位置へと駆け込んだ。
案内カウンターには変わらずバラッドがいて、煙草をふかして新聞に目を落としている。待たされるのもいつものことだ。佐倉は案内カウンターの左に突っ伏した。あの筋肉ダルマの部隊長め、拳骨、マジ痛すぎる。
新兵部隊に入って半月。佐倉は毎日、訓練所へ連行された。初めて剣を構えた時の、周囲の顔つきが忘れられない。皆、何それって顔だった。お前、ナメてんのかって顔だった。そうしてムドウ部隊長の凄まじい訓練が始まった。まずは構え方、いやてめぇ、剣を鞘から抜くのに、どうしてそんな手つき――――馬鹿野郎! そうじゃ、ねえ!
毎日、毎日、ムドウ部隊長の拳骨をもらい、剣をはじかれ、物を投げられ、自分も投げられ、ムドウ部隊長に拳骨をもらい、筋トレし、剣をはじかれ、放り出され、逃亡し、嬉々としてラックバレーに連れ戻され、ムドウ部隊長に拳骨をもらい、そして素振りし、すっぱ抜けた剣がラックバレーに当たって追い回され、大騒ぎする二人とも拳骨をもらって、また訓練へと戻って剣をはじかれムドウ部隊ちょ……ラックバレーの言った通りだ。ムドウ部隊長の拳骨が一番痛い。
「よぉ、無能新兵部隊員。なんだまた逃げてきたのか」
突っ伏した佐倉に、案内カウンターから声がかかった。最近、佐倉は知った。どうやら、自分は『歴代一、無能な新兵』らしい。チロだって、構え方で怒られたことはない。こっちの無知ぶりは、『生まれたての赤ん坊と同レベル』と、ムドウ部隊長が頭を抱えていた。
そりゃそうだ。剣の扱いに関しては、赤ん坊だと自負している。そんなこと自負したら、またムドウ部隊長にどつかれそうだけれども。
佐倉は包丁とカッターとハサミとノコギリと彫刻刀以外、触ったことがない。素振りをして、剣ってあんなに重いんだと知った。でも素振りなら、まだいい。本当に想像していなかったのは、相手の剣とぶつかった時に、手に伝わる衝撃の強さ。手が壊れるんじゃなかっていう衝撃については、全く考えたことがなかった。衝撃が強すぎて、親指の付け根がツリそうだし、マメはとっくに潰れ、手の平が常にピクピクという痙攣を繰り返している。
「それじゃ、何にも握れねえだろ」
バラッドがこちらの両手を見て、笑う。どこに笑える要素があったのか、説明して欲しいけど、バラッドって男は基本的に何にでも笑い転げている男だ。
「昨日は食堂でお皿を落としちゃって」
本部の備品を壊すと処罰がくだる。
それはお皿にも適用された。佐倉は顔をしかめた。何あのぼったくりすぎる請求額。外食が三回できる額だった。皿一枚が三食分て。いまだ給与を貰えていない身には辛すぎる。
「ま、そのうち慣れる」
バラッドはにやにやと笑って言った。あの鬼のような訓練に慣れるってことだろうか。それとも剣の扱いに慣れる? まさか、このギルドの頭のおかしいルールに慣れるってこと? 何にせよ、どれも積極的に順応したいとは思えない。
ここへ来て、もちろん順応したことだって、佐倉にはたくさんあった。
毎日のパン食、テレビも携帯電話も無い、以前より遥かに音の少ない生活。灯籠だって毎晩ひとりでつけるし、洗濯機を使わずに一人せっせと洗濯だってする。ナイフで爪も切ることも学んだし、オッサン達の笑えない下ネタも聞き流せるようにもなった。それに今じゃ男子トイレにも堂々と侵入して用を足す。
そう、佐倉は男子トイレの使用していた。この半月、あの『住民証』の人間として生活をしていたのだ。つまり、佐倉は『氏名ササヅカ。年齢14歳。性別オトコ』だった。そりゃ男子トイレにだって侵入するさ。14歳の男の子だもん。
佐倉は案内カウンターを恨めしげに見上げた。全てはこの標準皮肉笑顔のオッサンが、鋭すぎる釘を刺したことがいけないのだ。首を優しく揉まれながら、『二度と、この書類で、俺を、煩わせるな』って宣言されたら、記載内容が違いすぎます! なんて言い出せるわけもない。だって、煩わせたら殺されちゃうだろ。
その上、ちょうどその頃、佐倉は加入試験で作ってしまった胸当ての傷に軟膏を塗っていた。ベタベタする軟膏が、服につかないように布を巻く。するとまあ、なんということでしょう。見事にサラシを巻いた女の子が完成した。何この用意周到すぎる罠。
サラシを巻いた女の子が案内カウンターに言い出せずに悶々とすること数日、その間にムドウ部隊長の拳骨回数が激増した。拳骨回数が増えて気付いたのだが、ムドウ部隊長の拳骨もらいすぎると、悩んでいたことがどうでも良くなる。悶絶級の痛さの前では、性別や年齢の勘違いなんてたいした問題じゃない。むしろ、どうやってムドウ部隊長の拳骨を回避するかが大事だ。そうして、佐倉は男子トイレデビューするに至った。毎回、個室にこもる子供に、周囲のオッサン達が「あいつ、胃腸が弱いのか――ハラマキだな、おい誰かハラマキを渡してやれって!」と妙な同情をし始めていることを、佐倉はまだ知らない。
胃腸が軟弱そうには見えないんだがなぁ。
そんなオッサン達の噂話も把握している案内カウンターは、カウンターに突っ伏す子供を眺めながら思った。
むしろこいつは、かなり神経が図太そうに見える。あれだけ訓練で拳骨をもらっているのに、全然、萎縮している様子がない。ムドウ部隊長にどつかれようが罵られようが、ちっとも思い悩んでいなさそうだ。毎日、前向きに訓練に出ているようだし、時々こうやって飄々と逃亡までしてくる。その逃亡だって、ちょっとした息抜き程度のものだ。本当に逃げ出そうという奴が、訓練所からすぐ見えるカウンターで立ち止まるわけがない。
こいつのこういう妙な所が、あんなどえらい物を引き当てたのかもしれないが……。
そこでバラッドは思い出し、頬杖をついた姿勢を正した。
「そうそう、お前さん宛てに、また来てるぞ」
案内カウンターの声で、項垂れていた佐倉の頭が自然と起きた。バラッドの指を追い、掲示板に行き着く。心臓がぴょこん、と跳ねた。来てる。あんなに疲れていたはずなのに、身体の奥から力がわいてくる。やった、来てる!
これも、この半月で出来上がった日常だ。
二、三日に一度、掲示板の隅に、ササヅカ新兵部隊員宛の走り書きが張り出される。その二、三日に一度の走り書きを、佐倉は心から楽しみに待っているのだ。その差出人は――――
「ちょっと見てきます」
逸る気持ちが抑えられなくて、佐倉は小走りで掲示板の方へと向かった。